世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

記者会見という存在

 日本である時期個人や企業がなんか問題を起こした時に記者会見を開く(開かせる)ことが一般化した。記者会見を開いて謝罪することに意味や価値があったのだ。そういうことが無意味なわけではない。でも記者会見に法的根拠はない。だが記者会見があまりに一般化したのだ。

 記者会見があまりに一般化して、記者会見を開かない人や企業が出てきた。記者会見を開くことに法律的な根拠はないし記者会見を開いて謝罪をすることにも法的な根拠や意味はない。私が言っているのは法的なという意味だ。

 考えてみるとあの記者会見という存在は一体なんだったんだろう。

 記者会見を開くように要求する権利などそもそも誰にもありはしなかったのだが。

 そして知らない間に私も誰かが記者会見で叩かれることを望むようになっていた。もちろん社会的制裁ということは存在する。法的制裁のほかに社会的制裁も存在するものだ。だがそもそも誰かや何かをたたくために記者会見を開く(開かせる)のはおかしい。おかしかったというべきか。

 ああいう記者会見とはいったいなんだったんだろう。ただ現実問題ああいう記者会見で叩かれると一応済むものでもあったことも事実だ。