何故「江戸時代」が重要なのか 現代日本の可能性
今(2017年)という時代は「近代」という時代です。
日本は非欧米圏で唯一「近代化」に成功した国です。(もちろん他の国や地域で「近代」という時代に入ったでだろう国や地域もあるのですがそれは帝国主義の時代ではありませんでした)
明治日本が近代化に成功したことには理由があるのです。
それは「近世」という時代を持ったということです。
「近世」という時代を考える上では浄土真宗の存在がとても重要になります。
私自身「感覚」としてそういう感覚がないのですがお葬式に参加した後に塩でお清めをするような「気分」に私はなりません。
ちょっと説明が必要なのですが(これはおそらく民俗学があげた成果なのでしょう)日本人の「感覚」として「ハレ、ケ、ケガレ」という三つの「感覚」があります。
これを私は「エネルギー」という概念を使って解釈しています。
ハレは「エネルギーは普段よりもより多い状態のこと」でケは「エネルギーは普通の状態」でケガレは「エネルギーが少ない状態」のことです。
日常的にあなたも経験しているはずです。あるひとにあったりある場所に行くと「エネルギーが自分の中で増えていく」しあるひとにあったりある場所にいくと「エネルギーが吸い取られてしまう」ように感じることが普通にあるはずです。
たとえば大阪は商都なのですが大阪(昔のよみではオオザカ)は浄土真宗の門前町です。
浄土真宗では「ケガレ」を否定したのです。
ですからそれまで卑しい(つまりケガレているつまりエネルギーが少ない状態である)仕事を肯定しました。
その代表が「商売」なのです。大阪が商都なのは明らかに浄土真宗の影響です。
あるいは「命の尊さ」を説いているのです。昔の日本では避妊や中絶の技術がないので産まれたばかりの赤ちゃんを殺してしまうことが実はあったらしいのです。
でも「命の尊さ」を知ったひとにはそれはできないのです。
明治に入って日本人の中で海外に移民に行った人たちがいます(その方々が行かれた国や地域の現状がヒドクで棄民だということも事実あるのですが)。
今でもハワイに行くと広島弁が聞こえるといわれるのは広島は浄土真宗の門徒が多い地域であることと関連があるのです。
私が育った地域が浄土真宗の地域だったのである種のアメリカ映画を観ると「おきかえが可能」なのです。
今は違うのでしょうが私が子供のころは浄土真宗のお坊さんよりも場合によってはお坊さんの奥さん(浄土真宗のお坊さんの奥さんのことを「坊守(ぼうもり)」というのですが)が尊敬されていました。
お坊さんはやはりえらいのでちょっとお坊さんには言いづらい話を聞くのが坊守(ぼうぼり)さんだったという理由があったのだと私は想像しています。
そしてアメリカで牧師さんが子供たちに「クッキー」をあげる感じが私が子供のころに「ひろうす」(がんもどき)をもらっていた感じとまったく同じなのです。
余計な話ですが子供のころに私がたべていた「ひろうす」は本当においしかったです。
浄土真宗のお坊さんは剃髪しなくてよい(スキンヘッドにしなくてもよい)し妻帯してもよい(どころか場合によっては良い坊守(ぼうもり)さんに来てもらうために妻帯しなければならない)のです。
キリスト教での聖職者は「神父さん」と「牧師さん」がいます。牧師さんは半宗反俗の存在でこれはマルティン・ルターの宗教改革以降の存在でもありますし「プロテスタント」という存在も宗教改革以降の存在です。
アメリカは基本プロテスタントの国です。
そして大学者なのですがマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義」にはあきらか関係があるのだと指摘しています。
日本では浄土真宗がヨーロッパとは違うルートで宗教改革がおきその宗教改革ゆえ資本主義が江戸時代に(実は)始まっていたのです。
浄土真宗のほかにも「鎌倉新教」と呼ばれる日本宗教界の一大変革が起きています。
だから他の仏教国から日本に来たひとには「日本の仏教はヘンに感じられる」のです。
それは日本は(おそらく仏教国では唯一)仏教界の「宗教改革」を経験している国だからなのです。
日本が「非欧米圏」であること(これは非ヘブライズム(キリスト教圏)非ヘレニズム(ギリシャローマ文明)圏であるという意味においてですが)と近世という時代を経験している(仏教界の宗教改革を経験している)という二つの要因が私には現代日本の可能性なのだと思えるのです。