インテリとニュース
1、時代とインテリ
前にテレビを観ていた時に(ワイドショーだったかな)ある専門家がボソッと「一億総評論家ですか」と言っていた。
専門家が役に立たないという時期も事実あったと思う。
でもこういうことが「時代だ」と思うのだが専門家が異常すぎて役に立つ時代になっている。
「ホンマでっか!TV」の出演をきっかけにしてテレビの常連になった超専門家たちがいる。
あの人たちは「人物像」としても異常すぎて面白いのだ。
私はインテリといえばインテリなのだがインテリ業界にかかわるのが長年怖かったのだ。
インテリ業界は全員インテリなので悪口は「バカ」でしかない。
筑紫哲也さんは私が知っている範囲で一番「バヵ」と言われていたインテリだった。
「あのひとはバカだから同人誌(朝日ジャーナル)しか作れないんだよ」
「筑紫はバカだからあの程度だよ」
「バカだから偏向番組(ニュース23)しかやれない」
私はそこまで皆でバカバカいわなくてもいいと思っていた。
筑紫さんの「良識」みたいなものが裏目に出ていたような気もするのだ。
これは本当に時代との関係性で今(2018年)はとんがったインテリは存在(キャラクラー)としても発言内容もとてもおもしろい。
イデオロギーの時代が終わったことと関係しているとは思う。
2、イデオロギー 思想のOS フォーマット
「左翼のフォーマット」「保守のフォーマット」「リベラルのファーマット」「右翼のファーマット」なるものがある。
思想や感性や考える道筋のパターンだ。
私も一頃はこういうファーマットに自分がはまり込んでしまう危険性を感じていた。
どのフォーマットでも意味は同じだ。
「左翼のフォーマット」でも「保守のファーマット」でも「リベラルのフォーマット」でも「右翼のフォーマット」でも意味は同じだ。
今のインテリならどのフォーマットにも対応できる。
というより既成のフォーマットを使って考えて、感じて、論理をつむぎ、発言した方が楽だった。
逆に既成のフォーマットを使わないで考え、感じ、論理をつむぎ、発言することはヒドク難しかったのだ。
この意味はPCやスマホのOSのような存在としてフォーマットが存在していたことを意味していると思う。
時代が変わったというのは思想のOSとしてのファーマットが壊れたことを意味しているのだろう。
違う言い方をすれば大きな物語(思想のOS)がもう機能していないということだと思う。
これは「そういう時代だった」という意味でいうだけだが澤地久枝さんのテレビでのコメントを聴いていると「そういうことじゃつかみきれないと思うんですよね」といつも思っていた。
「時代」というのはそういうもので澤地さんのある時期の発言はあるパターンに入り込んでいたのだ。
サンデーモーニングでの発言はそうだったし、それを冷たく見ていたのがケント・ギルバートさんだったことも印象に残っている。
澤地さんもケントさんもものすごく優秀なひとだ。
でもフォーマットにはまると誰でも同じことになってしまう。
3、テレビコメンテーターの大衆化現象
ある事件があると「あーだこーだ」いう人たちがいる。そういう人たちの意図はともかく「あーだこーだ」いうのだ。
そういうこと、そういう人たちに対してどう思っていいのか私にわからなかった。
ただ素人考えで「あーだこーだ」言ってもなと思うだけだったのだ。
そういう人たちはほぼ素人にすぎないし。
ただそういうことの果てに時代が変わったのだと私は考えているが(代表がテレビのコメンテーターだが)「あーだこーだ」いっている人たち程度のことはたいていの日本国民が言えるようになったのだ。
いわば「テレビコメンテータの大衆化現象」が起きたのだ。
テレビ番組の意味も変わってきているようなのだ。
さきほど書いた「ホンマでっか!TV」に関して「先生たち(頭良すぎて異常な人々)の話をさえぎらないでほしい」というひとがいるのだ。
あの先生たちは存在としても発言内容にも「問題がありすぎ」なのだ。
だからさんまさんが「いい感じでさえぎる」のはある時期のテレビの良識のしては当然なのだ。
4、インテリ話は好きですか
あるいは林修先生だ。
本人も自覚しているが林修が真面目に話しているようなことをいうと友達がいなくなるのだ。
私は一流大学卒ではないがインテリ話ができる。
でもインテリ話はしないようにしている。
友達がいなくなるからだ。
実際私があるときに「近代という時代は意味と物語を解体する時代なんだよね」と言った。
そしてそういうことを言ったことを反省していたのだ。
であるとか「人間存在は集団でいることで人間よりも強い存在に勝てる存在なんだよね。実際1対1だったら虎に勝てるわけがない。でも集団なら虎に勝てるんだよ。ゴリラは黒目だけでしょう。でも人間は白目があるじゃない。あれは黒目を動きを他のひとに読んでもらうためだよ」とか。
であるとか「感じ良いっていうのが大事なんだけれども、そのひとが感じ良いっていうのはそのひとがどういう服を着ているかとかどういうことを言っているかとかどういう年齢かとかとは関係ないでしょう。でも明らかに感じ良いひとがいるよね。ああいうひとを目指すんだよ」とか。
「今の時代に勉強しようと思うのなら何をするかよりも今していることの中で何をやめるかを考えた方がいいよ。そんな暇な時時間はみんなないんだよ。まず自分がどういう風に時間を使っているのかを調べるところからだね。意外にわかってないよ」とか。
全部イデオロギーとは無関係な話ではある。
だけれども暇人のたわごとともいいきれない話だ。
5、異常にニュースサイクルが早くなった後に ニュースのインフレ
ニュース(特にテレビの話題)のサイクルが早くなっている気がする。
これは日本だけの現象なのかどうか不明だが。テレビがある話題だけになってしまうことがある。そして一通り話題にして次の話題でまた盛り上がるのだ。
これがどんどん加速している気がするのだ。
仮にこの動き(ニュースのサイクル)がもっとありえないほどの早くなったとする。
その状況を想定してみよう。
それは「本当にささいなこと」が話題になり、その話題で一通り盛り上がり、すぐその話題が終わるような状況だ。
だとするとこの本当にささいなことがたとえば「コスモスがキレイです」であっても構わないはずだ。
この状況に立ち至ると「ありとあらゆる刺激的なニュースが結果とても平凡なニュースになる」のだ。
いわば「ニュースのインフレ」が起きる。
ここまで至って日本の報道は健全な状況を取り戻すはずだ。
楽観的過ぎるのだろうが。
5に自分に書いたことをどこかで読んでことがあると思った。
浅田彰さんが「トラバター」と前に書いていたと思って、昔の本だが最近手にいれたがあまり読んでいない「逃走論」をめくってみた。
この本をあまり読んでいないのは恥ずかしくなるからだ。
昔フランス思想がはやった時に私はフランス思想をひどく嫌っていた。当時は「しょせんオシャレとかそういうことと思うんだよね。でもあんたら死ぬほどダサイよ」と思うと近づけなかったのだ。
これはフランス思想そのものの問題ではなくて「日本のフランス思想に対する態度」のようなものがイヤだったという話だ。
ちょっと「逃走論」を読んでみたが「脱コード化」とか「ディスコンストラクション」とか「テクスト」とかいう言葉に触れるととても恥ずかしい気持ちになる。「こういう言葉が好きな人たちがいたよね」と思ってしまうのだ。
浅田彰は本当に頭よすぎてよくわからないひとなのだが、大して頭よくない人々がフランス思想にかぶれていたと思っているのだ。
それはともかく浅田彰がリオタールの言葉を引用していて、それがさっきの話ととても似ている。
「極限的な喧噪(その実沈黙をはらんだ)と極限的な沈黙(その実ノイズに満ちた)は同じものなんだ」という話だ。
日本の言論状況やマスコミ状況やネット言論状況はまさしくコレだと思う。
本がとても高価だというだけではなく、このひとの日本での受け入れ方を私は激しく嫌っていたので今だに読んでいないのだドゥルーズがとても今日的であるとも思えるのだ。
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「ミルプラトー」や「アンチ・オイディプス」が有名だ。私でも知っている。
でも「差異と反復」を紹介した。
ドゥルーズというより日本でドゥルーズを語る人たちが私は死ぬほど嫌いだったのでドゥルーズについてもドゥルーズの思想についても知らない。
ただ「動きを動いているままでとらえようとする」ひとでそういう思想なのかなとはドゥルーズについての文章を(さっき)読んで思った。
さよならアメリカ、さよならニッポン ~戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか~
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マイケル・ボーダッシュはアメリカの日本のポップミュージックの研究者だ。
示唆に富んだ内容だが図書館で借りて読んだので今手元にない。
だから間違って引用するかもしれない。
たしか「日本と欧米(特にアメリカ)との関係では日本が女で欧米(アメリカ)が男なのだが日本と中国、韓国、台湾、アセアンとの関係だと日本が男で中国、韓国、台湾、アセアンが女だ」という記述があったと思う。
これは女性蔑視ではない。「エキゾチック」とかそういう価値観の問題としてそうだという指摘だ。
それから音楽現象を「ミュージック」という名詞「ミュージッキング」という動詞としてとらえなおす思想を提示してもあった。
「ミュージック」は止まっているが「ミュージッキング」なら動詞で動いているという意味ではドゥルーズと同じことを論点にしているはずだ。
私も似たようなことを考えていて「イジメ」は大問題だが「イジメている」「イジメられている」「イジメに距離をおいている」とかとらえる必要があるのでは思うのだ。
あるいは「気づき」という日本語が嫌いだ。「気づく」ということであるはずなのにと思うのだ。
でもフーコーの方が読むなら先かな。
6.あの頃 フランス思想
私は激しく嫌っていたが80年代にはある種の若者は思想書哲学書を読んでいたのだ。私は「しょせんオシャレだ」とバカにしていたが。
理由なく若者が思想哲学を志向することはありえない。だいたいドゥルーズの本もフーコーの本もとても高価だ。
私は80年代を「マルクス主義の終わり」とともに始まったとは思っている。
若い人には信じられないだろうが1970年代まで日本に共産主義革命の可能性(の匂い)があったのだ。
80年代に入るとその可能性がゼロになった。私だけでなくそう感じたひとは多かったはずだ。
そういう歌もある。
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佐野元春の「ガラスのジェネレーション」だ。
佐野元春二枚目のシングルで1980年10月リリース。
この歌に「ガラスのジェネレーション さよならレボシューション」とあるのだ。
レボリューションは当然革命のことだ。
この歌を当時聴いたときに
「ガラスのジェネレーション さよならレボリューション」の他に共感した部分があった。
「君はどうにも変われない かなしいけれど」とあるのだ。
今の「変われない君」はどういう「君」なんだろうね。