1、新潮45に掲載された杉田水脈議員の論文の何がポイントなのか
保守のリベラル憎しがポイントだ。以前週刊朝日が橋下徹さんの人格攻撃をした。意味はあれと同じだ。
もちろん普通は発言や原稿を読んで、その内容について、考えるべきだ。でもそれは発言当の内容にポイントがある場合だ。
そもそもリベラル(リベラル的なもの)を攻撃することにポイントがある以上(私はそう読解している)ポイントはリベラルへの憎悪だと読解するのは当然だ。
そこまで来たら「保守とリベラルの間の憎悪」が次のポイントになってくる。
昔の左翼的な言動もポイントは(もちろんそうではないひともいたであろうが)「なんだかつっかかりたい」という衝動のようなものだった思っている。
「なんだかつっかりたい」と思うことはそんなにヘンなことでも病的なことでもない。普通だ。
2、なぜディスる時代ではないのか
アマチュアスポーツの世界でいろいろあっている。ああいうことでテレビがうめつくされることを批判するひとがいる。私はバカだと思う。
何故か。
ある好ましくない現象がおきている時に
1、何故そういう現象が起きているのか という問題を設定して挑むこと
2、どうすればそういう現象が収まるのか という問題を設定して挑むこと
は今の日本に生きるひとであれば当然することで、できることだからだ。
「ディスる」(批判する)ことが時代にあわなくなっているは、今(2018年)の週刊文春のことを考えてみればわかる。
今私が文春砲を打ってほしいのは週刊文春編集部の皆さんだ。
「あんな記事を書いて出版している編集部の人たちはそんなに清廉潔白なのかな」
と思うからだ。
ある時期以降日本の政治状況が変わった。理由は政権交代があったからだ。昔は野党はずっと野党だったのだ。
だから「自分たちは政権運営をしない」という前提で発言したり批判したりすることが多かったのだ。
そういう前提だから筋が違う発言や批判もあった。でもそれは「自分たちは政権運営はしない」という前提だけではなく「自分たちには政権は取れない」という前提でもあったのだ。
かつてテレビで芸能リポーター全盛期があった。彼らは結果そこいらの芸能人よりも有名になった。つまり芸能リポーターが結果芸能人になったのだ。
政治状況に重ねると野党の政治家が政権入りした(つまり与党になった)のだ。
ディスっていると結果自分がディスっている存在と同じ存在になってしまうから(あるいはそれが多くのひとにわかったから)ディスりは時代にあわないのだ。
人気のニュースキャスターやコメンテーターに対する批判も「お前が批判している権力者とお前は権力者という意味で同じだ」という内容のものがあります。
3、ふるまいの重要性
社会党が世間から見放された時のことを私は覚えています。
きっかけは「牛歩戦術」でした。少数派が投票をとてもゆっくり行って違法ではないカタチで議事の妨害をするのが牛歩戦術なのですが。
「牛歩戦術をとっている時の野党議員の態度」を見て国民は社会党を見限ったのです。
今でも抗議の意味で「牛歩戦術」は有効ですが。
その時の社会党の議員たちはとても楽しそうにしていたのです。
ポイントは牛歩戦術ではなく「楽しそうに牛歩戦術をやっていたところ」にあったのです。
麻生さんが責任を取った方がいいとか責任を取らなくてもいいという話がでています。
この件に関してのポイントは「麻生さんの態度」だと思うのです。
子供でも問題にされます。
「態度が良いのか悪いのか」。
麻生さんの思想や力量は私には不明です。でも「態度は明確に悪い」のです。
そして政治家でなくて「態度」はそのひとの力量の一つなのです。
政治家でなくてもそうです。
榎本美恵子さんが時のひとになってテレビバラエティに出たり写真集を出したりしました。
正直私は浮かれていると思って、そこは好きではなかったのですが。
ただ榎本美恵子さんのご主人が田中角栄の秘書で榎本さんは田中角栄がワイロを受け取ったと証言したのです。
その時に彼女は「ありの一刺し」といっています。
その意味は「この証言の代償はとても大きい」という意味です。
その頃に林真理子さんが榎本美恵子さんの食事の写真を見たようで「静かに箸をねぶっている彼女は信用できると思う」と書いていたのです。
多くのひとはそういうことで「ひとを判断する」ものです。
思想とかそういうことではありません。
4、時代の潮目
ただ榎本美恵子さんは「自分の証言で本当に何かが大きく変わる」という確信はなかったと思っています。
当時の田中角栄の力は絶対でゆるぐはずがないと思えるものでしたから。
でも徐徐に崩れていくのです。
私は田中角栄とリチャ-ドニクソンと同じくくりで、安倍さんとトランプさんを同じくくりでみています。
田中角栄は1918年生まれ、リチャードニクソンは1913年生まれでともに1910年代生まれなのです。
1910年代生まれの共通点が(たぶん)両者にはあるのです。
いっぽう安部さんは1954年生まれ、トランプさんは1946年生まれなのです。政治の季節の後の世代です。
角栄さんとニクソンさんには「絶対ゆるがない感じ」があったのです。
いっぽう安部さんとトランプさんには「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」があります。
トランプさんの過激な言動も私には「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」に見えるのです。
そしてその「頼りない感じ」が今のリーダー像にあっています。
ある時代が変わるときには意外なことで大きく変わっていくのです。
「こんな小さなどうでもいいことで」と思うようなことです。
そこだけ見ると不思議なのですが、これはヤカンの水をずっとコンロで温めているようなものです。ある時に沸騰します。でもそれはそれまでヤカンをあたため続けてきたからにすぎません。
それを「こんなことで変わるなんて」というひとはわかっていないバカです。
トランプさんはわからないのですが安部政権はいつ終わってもおかしくない状況です。
別に安部さん批判ではないのですが事実そうです。
バブルも終わったのです。一頃は「東京の土地の値段は絶対下がらない」と言われていたのです。でも事実バブルは終わったのです。
余計な話ですがテレビでバブルの映像として流れるジュリアナ東京の浮かれ騒ぎはバブル崩壊後です。
大きな変化が起きたときには多くのひとは気がつかないものなのです。
今普通に「近代という時代」が終わろうとしています。でもあなたは気がついていないでしょう。