1、ネット上の言論の流れが変わってきている
ネット上だけではないのだけれども言論の流れが変わってきていると感じる。
たとえば「原爆投下に関する議論」だ。
「そもそも原爆投下は必要だったのか」という議論自体あまり意味がないと私は思うのだ。
あるいは「トルーマン大統領が責任者だったのか」という議論もやはりあまり意味がないとも思うのだ。
ちょっとしつこく書くが「原爆投下は必要だった」「原爆投下は必要ではなかった」の二つの考えがある。
だけどもそうあったとしてもともに「原爆が投下されてたという事実に変化はない」のだ。
やはり「トルーマン大統領が責任者だった」としても「トルーマン大領領は責任者ではなかった」としてもやはり「原爆が投下されたという事実には変化がない」のだ。
広島と長崎に原爆が落ちたというのは「歴史的事実」なのだ。
そういう議論をする人たちは誰かを糾弾でもするつもりなのだろうか。
私は原爆に関して誰かを糾弾することにまったく意味を感じない。
「ケリがついたことだ」という意味ではない。
そうではなく「歴史的事実だ」という意味だ。
ネット上だけのことではないのだが紆余曲折を経て、議論にまとまりが出てきている場合が多いのだ。
ユーチューブのコメント欄も落ちついてきているようだ。
特にネット上の言論が落ち着きが出てくるとは思っていなかったのだが、でも落ち着き始めているようなのだ。
2、「不満の共有」の喜び
ヤフー!のトップページからヤフー!テレビに飛んで「みんなの感想」を読むと「自分と同じことを考えているひとが多いこと」に驚く。
テレビ(特にワイドショー)に関して「テレントの井戸端会議だ」という批判がある。
ある時期までは「その番組の論調」や「コメンテーターの意見」が重要だった。
「その番組の論調」や「あるコメンテーターの意見」と自分の考えが合うかどうかが重要だったのだ。
「テレビは突っ込みながら見るメディア」ではある。
そして「テレビに対するツッコミが可視化」されてきている。
これが素晴らしいことだとはまったく思わない。
でもテレビ番組に対する誰かのツッコミと自分のツッコミが似ているとなぜかうれしいのだ。
ツッコミはいわばテレビ番組や出演者に対する不満だ。
テレビに不満が似ていることに安心している自分がとても不思議だ。
でも「誰かと自分の不満が似ていることに安心する」のが現代的だなと思うのだ。
これが良いことか悪いことかは不明だ。だが「不満の共有」ができるととてもうれしいのだ。
「夢」とか「希望」とか「理想」とかの共有ではないのだ。
「不満の共有」がうれしいのだ。しかもそうとううれしい。
ついでいうとテレビは相変わらず面白い。
でも今の日本でテレビ番組を一日何時間も見る余裕がある人たちがそんなにいるのだろうか。
今の平均的日本人ってそんなに暇なの?
あなたはそんなに余裕がある生活を送っているの?