世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

いくら友達でも それはヒドイ お金がからむとなにかと難しいんですよ。

ある職場で一緒だったひとの話です。その人は以前の職場でイヤだったことを執拗に話すのです。どこの職場でもイヤなことはありますし、そういう話をしたくなるのもごもっともなのですが。もう会うこともないと思うので、彼のネタの一つを書きます。ある職場で仕事終わりにジャンケンをしていたそうです。ジャンケンは賭けで負けたひとが他のひとの缶の飲み物をおごっていたそうです。その輪に入らない人は嫌われていて、彼はイヤだったのだけれども、そのじゃんけんに参加していたそうです。そういう職場もあるのでしょう。ただ途中から私は「この人はこの人がこの職場を去ったら私の悪口を死ぬほどいうようになる」と思ったので冷たく接するようになりました。今頃は私の悪口が彼のネタの中の一つに入っていると思います。「こんな人がいてホントにひどい目にあった」と言っているはずです。そういう人でした。

 

彼に会社を作りたいといったことがあります。そうすると彼は「会社が軌道に乗ったら呼んでくれるんですよね」と言うのです。

 

別のひとの話もします。その人とももう会う事はないと思うので書くのですが、彼に私は「店をやりたい」と言ってしまったのです、私は何十年も店員をやってきて、自分の「店」を持ちたいとその頃考えていたのです。

 

彼は「俺たちの店」といいだしました。そして共通の知人に「俺たち店を出すんです」というのです。また彼の「店」でも仕事のイメージが問題で、若い元気のいいひとが店に来たら「マスターに何か作ってもらえ」というのだそうです。

 

あなたにはわかると思うのですが、企業の設立時が一番大変です。ある種の伸びる時期ですし、ある時期までは伸ばして、店舗であればその店舗が安定したら店の数を増やすであるとかそういう拡大する時期があります。ただある時期に社員の育成に悩んだり、フランチャイズシステムを導入するのかどうか考えたり、あるいはある時期までは年中無休でやってきたのだけれども、これでは自分も社員も疲れてしまうという事で悩んだりします。

 

「撤退戦」という言い方があります。当然戦術です。これは例えばですが、五年間年中無休で頑張った店の社長が「ここで一週間店を閉めて、自分も社員のリフレッシュして、またやろう」とはなかなか思えません。「せっかく年中無休で五年間やってきて、お客さんの信用もついたところで一週間店を閉める」のがあまりに惜しいからです。あるいは店舗数を増やしてきたのに、この店舗数で満足するのはあまりにも惜しいと思うからです。

 

会社の創業時が一番大変な時期です。その時期は社長も社員も死に物狂いで働くものなのです。たいていそうだと思います。あるいは会社の方向性を変えるときに問題のある社員の首を切らなければならないこともあります。いわば戦友同士なのですが、戦友同士であるからこその甘えが出てしまうからです。「あの厳しい場面で自分があんなに頑張って会社に貢献したのだから今はのんびり偉そうにさせてもらう」といった。でも社長はオニになってそういうひとの首を切るものです。

 

最初に書いた彼は「会社が軌道にのったら呼んでくるんですね」という事を言ったのは、おそらくそういう事がわかっていなかったのでしょう。

 

「俺たちの店」や「俺たちの会社」はありません。存在しません。これから仲間と会社や店をやろうと思っている人にも聞いて欲しいのですが、誰かが責任者になる必要があります。それは一人です。そして別のひとは副代表のカタチになります。代表は一人でしか務まりません。いい時にはそれなりにできます。しかし会社自体には問題がなくても、景気の動向がありますから、「悪い時がくる」のです。その時に誰か一人が代表を務めていて、そのひとが責任を取るカタチにしておかないと、それぞれが「アイツがちゃんとしていないからダメなんだ」と言わないとしてもそれぞれに思ってしまいます。場合によっては口に出してもめてしまうのです。そういうことがあるので誰かが明確に代表者である必要があるのです。またこれは中小企業のカリスマ経営者の小山昇さんのラジオでの発言です。ラジオ番組に質問が来ていたのです。その内容は3人で会社を始めようと思っているのですがというものでした。小山昇さんの解答が見事でした。一人の人が他の二人から借金をしなさいというものでした。小山さんがおっしゃっている意味は「金を借りたひとは社長で、他の二人は出資者になった方がいい」ということだと私は思いました。「金を借りた社長」はいくら二人が友達でも、その二人から借りたお金を「なんとか事業で成功して返す」必要にせまられます。金を貸した二人は、友達なのですが「貸した金の回収したい」と思って必死になります。この回答はあまりにすばらしかったので小山昇さんは本当にカリスマ経営者なんだと思ったことを覚えています。

 

「俺たちの店」が存在しないというのは別に私が偉そうにしたいという意味ではなく、彼がいくら友達でも私が代表を務めた場合には彼の首を切る場面がありうるし、そういう組織の状況を作っておかないとどうしても会社も店もうまくいかないものだからなのです。また私にすればそういうことを誰か言ってほしくはなかったのです。「友達」という存在はとても難しいのです。実際その話を聞いた人も友達だったので「友達なんだから安くしてね」と言っていました。「友達」という存在はそういうものです。でもいくら友達でも会社や店は値引きはしません。そういう事をする人もいると思います。でもそういう人は経営には向いていません。友達でも他の客と同じ扱いをする必要があるからです。他の客にすれば、「アイツはなんだか安くていいサービスを受けている」という事が当然納得できないからです。これはクライアントでも同様です。あるいはもっと一般的なことであれば「常連客」の問題があります。「常連さんは自分は常連だからいい扱いは当然だ」と思うものなのです。でも「常連客」があまりに固まっている店にあなたは入りづらいと思います。だから「常連客の扱い」はとても難しいものなのです。おそらくスナックはほぼ常連客なのだと思います。私は酒は基本飲みませんしナイトライフも楽しみませんから、知らないことではありますがスナックはある期間経営を続けたら、それ以降そうとう長く続けられるという話を聞いたことがあります。それはほぼ常連で固めているからだと私は思うのです。そういうカタチは一つの「常連客」にたいする答えです。ユーチューブで観て「これは年配の女性の店の特権なのかな」と思いもしましたし、面白くもあったのですが、年配の女性が基本一人でやっている店の様子の動画でした。その年配の女主人は店が忙しくなると常連客に店を手伝わせていました。そんなに難しいことはできませんから、料理をテーブルまで運ぶようなことです。その常連さんが「オレ客なんだけどな」とイヤがってもいるのですが、どこか嬉しそうでもあったのです。これも一つの常連客への答えです。店によっては常連客をどこか冷たく扱う場合もあります。これは「店」と「客」との距離の問題です。あなたが客として、どこかの店にいく場合に「自分の事をあまりによく知っている店主や店員がいる店」をどこか避けたい場合があると思います。「店」と「客」があまりに近くなってしまうと「客」は「あの店は避けたい」と思うのです。「店」と「客」は友達ではないのです。お金がからんでいるからです。たとえばお金持ちが自分のお金を使って仲間を引き連れてどこかにいった場合に周囲から見た場合にとてもイヤなモノになります。そのお金持ちは「この店の払いは全部自分がするのだし、それなりの態度を取らせてもらう」という気持ちになりますし、仲間は「ここの払いはあのひとがするから」と思うのでどこか卑屈にならざるをえないのです。この関係はフィフティフィフティにはなりえないので周囲から見るととてもイヤなものになるのです。お金持ちのひとはこういうことをよく知っています。「お金」にはそれだけの力があります。「店」と「客」でもこういうことがあります。「客」にすれば「自分はお金をはらっているのだから」という気持ちがどこかあるのです。経営のセンスがない店員が客ともめることの原因の一つにこういうことがあるのです。経営のセンスがない店員が「友達」のつもりで「客」と接してしまって「客」がイヤな気分になることがあるのです。

 

彼が「俺たちの店」とか「マスターに何か作ってもらえ」と言いたいのはわかるのですが、その店の元になる資金は普通は借金です。金融筋の厳しい審査を受けて社長になるひとが借りるのです。私がマスターをやるとしても、その彼と他の社員のわけ隔てをする訳にはいきませんし、彼のイメージでも私が一番地味でツライことを彼にはまったく知らせないままでする必要があります。税金のことも、宣伝のことも、経営のことも、パートさんやアルバイトさんにどういうシフトで入ってもらうのかであるとかは重要です。パートさんやアルバイトさんの話はわかりやすいと思います。あなたが主婦でパートに出る時に子供が急に熱を出したら休む必要がありますし、月にいくらほしいのでこれくらいは「拘束してほしい」と思うはずです。アルバイトさんは学生さんが多いですよね。当然お金も欲しいでうよね。でもたとえば定期試験の前は休みたいはずです。そういう難しさが他の領域にも存在していて、そういうことが彼にはあまりわかっていないようだったのです。教えればいいではないかとあなたは思ったのかもしれません。ただそれは私の場合は働きながら覚えてきたことです。「座学」という言い方があります。「座って学ぶこと」が「座学」です。本を読んで学ぶことも「座学」です。バランスなのですが、「座学」と「実践学」の両方があって、私が書いてきたことが初めてわかるのです。だから「教える」のはとても難しいのです。

 

たとえばこのブログはアフィリエイトも目的にしたものではありません。アフィリエイトについはググってください。アフィリエイトでなくても、このブロクを多くのひとに読んでもらうためには「単語の選択」が重要になってきます。たとえば「ダイエット」はあまりにおおくのひとが使う単語なので、あなたが「ダイエット」で検索をかけてもこのブログがヒットする可能性はほぼありません。もっとニッチ(隙間)な言葉を使った方が効果的です。それはたとえば「足つぼダイエット」のような単語です。「足つぼダイエット」で検索をかけるひとの絶対数は「ダイエット」で検索をかけるひとに比べると圧倒的に少ないからです。それは一つのアフィリエーターの「座学」であり「実践学」です。あなたは複数の単語で検索をかけることもあります。「ダイエット」の場合でも、「ダイエット」と「筋トレ」で検索をかけることもあるでしょうし、「ダイエット」と「業者」と「激安」で検索をかける場合もあるはずです。そういうことを「座学」で知っていることと、自分の経験でわかること(つまり実践学)がからみあってあなたはいろいろなことがわかってゆくのです。

 

こういうことを「友達」あいての「教える」のはとても難しいのです。いっそお金も払ってもらって生徒になってもらうほうがずっと楽です。彼が生徒になってくれるのならコチラも「お金をもらっている」のですから「教えるのに必死」ですし、彼も「お金をはらっている」のだから「学ぶのに必死」になりますから。

 

でもそういうことを「友達にいう」のはあまりにも「奇妙」です。難しいです。

 

何かと難しいのです。