テレビが伝える「情報」について考える
序
テレビが不振です。これは大きな流れのようなもので誰かの力ではどうにもならないことなのかもしれません。
私は現状のテレビのあり方は変わると考えています。今の日本では「100万」というのが一つの単位です。
「100人動員(たとえば映画)」「100万部突破(本などで)」「100万ダウンロード突破(シングル曲なので)」。
これから私がやるうような数字の扱い方は問題外です。数字はもっと丁寧に扱うものですから。でもここでは仮に今(2017年)の日本の人口が1億人でその1億人がそれぞれにテレビをもっていてそれなりの気持ちで番組を観ているとします。
そういう仮定で考えるとテレビで100万人というのは「視聴率1%」です。
同じ仮定で考えると視聴率10%なら1千万人のひとが観ていることになります。視聴率20%なら2千万人のひとが観ていることになるのです。
そんな巨大メディア(文字通りマスメディア)はテレビ以外には存在しません。
私はもっと多チャンネル化も進むのだろうしいわゆるキー曲が(私は地方在住なのでテレビ東京のネット局はないのですが)NHKの地上波が2局、民間地上波が4局と状況です。
インターネットもありますしチャンネル数は100どころか1000あっても良いと考えています。
テレビもやはり「100万人」というのが一つの単位(もっとも日本は人口減少中なのでずっと100万人が一つの基準であり続けるのかどうかは不明ですが)に落ち着くはずです。
そしてそういう状況であればテレビにかかわる人々ももっと踏み込んだ番組が作れるはずです。それはテレビ番組のスタッフにも出演者にも視聴者にも好ましい状況であるはずです。
養老孟司さんはNHKのニュースが好きではないそうです。NHKのニュースは「かたよりがない」という前提で作られているからです。
「何らかの「偏り(かたより)バイアス」がない報道などそもそも存在しない」と養老先生は考えているからNHKのニュースが好きではないらしいのです。
いわゆるマスメディアの重要性は「キーステーションがある」ところにあります。インターネットの重要性は「キーステーションがない」ところにあります。
この二つの存在は相互に補いあう存在なのです。
たとえば以前に辛坊治郎さんがテレビ番組で発言されていたのですが「自殺報道は基本握っているんです」と。
日本での少年犯罪も凶悪犯罪も事実減っています。そういう犯罪が多かったのは日本が戦争のボロ負けした直後の時期です。
マスメディアが少年犯罪や凶悪犯罪を取り上げないのもちょっとおかしいのです。そして自殺報道もしないのもある種の見識です。
そしてそれはある種の責任者が「これはヤル」「これはヤラナイ」と決められるからです。
インターネットはキーステーションががないという特性があるのでそれができないのです。
2、テレビの情報と本の情報
ある種の事件に関して私はジャーナリストの本を待っています。たとえば女子中学生を本当に誘拐して監禁したヤツがいました。最近では自殺志望者を殺した(のであろう)やつがいました。
私の中で触れたくないという気持ちがずっとあったので読んでいなかったのです「オウム真理教」の地下鉄サリン事件にかかわっているひとに村上春樹さんがインタビューした「アンダーグラウンド」とその続編を最近読みました。
またあの件も触れたくなかったのですが「酒鬼薔薇聖斗」と件を高山文彦さんを書いた「地獄の季節」を手にいれました。
両方アマゾンのリンクを張っておきます。
女子中学生の犯人をテレビで私は見たのですが「結構イケメンなのになんで?」と思ったのを覚えています。
自殺志望者を殺した(のであろう)ヤツのことはテレビで観ていないのですが。
テレビって「この人好きだな」とか「コイツは嫌いだ」とか「このひとは平静をよそおっているけど怒っている」とか「このひとは嘘をいっている」というようなことが分かるメディアです。
だから「良いひと」なら特別な何かなくてもコンスタントに出演されています。
その時に私は病院で昼間検診を受けていて病院の待合室で「ミヤネ屋」を観ていたのです。その時に正直私は唖然としたのです。
その時に「番組で伝えている情報がゼロだ。この番組は情報番組なのに情報ゼロだ。でも番組として成立している」と思って唖然としたのです。
事実「ネタ元」みたいなものがなかったのです。でも情報番組「ミヤネ屋」は普通に成立していたのです。
でも私がその時に「考えていた情報」なるものはある事件に関する犯人像であるとかその社会的背景を指示していました。
テレビが伝える「情報」は「そのひとのひととなり」であるとか「感情」なのです。
その時は私が考えていた「情報」とミヤネ屋が伝えてた「情報」にずれがあったので「この番組は情報ゼロだ」と私は勘違いしてしまったのです。
そして2017年におきた自殺志望者を殺した殺したやつとその事件を背景を知るのには本がとても効果的でそういう本は事件からずいぶん経ってから出版されます。
その事件をそれなりに調査しようと思うと普通に4,5年かかるからですし。そのくらいの時間が経過してからその事件について勉強したほうが私やあなたも冷静に読めますから。
3、テレビ出演者の言動は日常生活の参考にならない
私は正直軽蔑していたのですがある種の人気テレビコメンターターや番組出演者は「無意味にとても感情的」です。
違うタイプの人たちもいます。自分のコメントを数秒でまとめて「オレやるでしょう」みたいな顔をしている人たちです。
昔「朝まで生テレビ」に関して録画しておいて早送りして「あっ大島渚が切れた」というあたりから見るといっていましt。
今(2017年)にはコメントを数秒でまとめて「オレやるでしょう」という顔をしているひとよりは「無意味にとても感情的なひとの方が好ましく感じます。
テレビ視聴者は『自分の発言を数秒でまとめて「オレやるでしょう」という顔をしているひと』に飽きています。
テレビは「テレビ出演者が無意味にとても感情的であること」がとても重要なのです。そしてあなたもそうでしょう。「それはとても冷めてみる」メディアなのです。
事実あなたもしているでしょう。テレビを観ながら番組や番組出演者に「バカじゃないの」とツッコンデいること。
テレビって「ツッコミながら見るもの」なのです。
ということは『テレビ以外の場所でテレビ的な言動を取るとあなたは「あのひとバカじゃない」と内心ツッコまれている」と考えた方がいいです。
テレビ番組の中での言動は日常生活の参考になりません。
4、テレビの国会中継はやめて私たちは新聞やウェブメディアで読んだ方が良いです
国会は「ショー」ではないのです。ですがテレビが入った国会は「ショー」になっています。あんな風になるくらいならテレビの国会中継は辞めた方がいいです。
理由は簡単です。「国会は会議であってショーではないから」です。
そして文字起こししたものを読むのです。新聞は本会議と重要な委員会については文字起こしして解説をつけるのが筋でしょう。
これには別の理由もあります。「読むと時間が取られない」のです。
あなたがジャーナリストであれば話は違います。私はジャーナリストではないので国会中継は基本見ません。
日本は議会制民主主義を取っています。これは「私たちの代理人に基本政治を任せている状況」です。
政治家を代議士と呼ぶのは彼らが私たちの代理人だからです。
だからあなたは基本政治家に政治をまかせておいて良いのです。私も含めてみんな自分の仕事で忙しいのです。
ただ「罵詈雑言をいう」のではなくて「チェックは必要」です。
テレビで国会中継をするとテレビの情報特性上「無意味に感情的になった政治家のショー」にしかならないのです。
新聞は本会議と主要な委員会の議事録を国会開催中は文字で載せるべきです。そしてその解説と自社としてはこう思うという考えも載せるのです。
衆議院と参議院にも議事録があってそれをあなたは読むことができるはずです。
国会のインターネット中継を見るのも良いでしょう。でもそれは「この政治家の人柄はどうだろう」ということを知るために観るのです。
そういうことでわかるのは政治家の人柄です。それも重要です。
でも審議内容は文字で読んだ方が効果的です。
5、テレビはなくならないがカタチが変わる
まとめでもないのですが一言書いて終えます。
「テレビはなくならないがカタチが変わる」