映画や小説はハッピーエンドであってほしいというひとがいる。その気持ちもわかるのだが。
通俗小説と純文学の違いを人物像の違いで説明する。
一面的な人物像をフラットな人物像といい多面的な人物像をラウンドな人物像という。
フラットな人物像というのは「悪人」とか「善人」とか「立派なひと」とか「だらしないひと」ということだ。
ラウンドな人物像というのは「立派なところもあるし卑屈なこともずるいところもあるのだが親孝行でもあるしカネに汚くもあるし・・・」というようなことだ。
登場人物がフラットな人物像なら「あの悪人がイヤな目にあって善人は良い思いをしました」というようなハッピーエンドの物語を作れる。
だが登場人物がラウンドな人物像の場合は誰が悪人で誰が善人でという描き方ができないのだ。
そうするとよくわからない(いわゆる)勧善懲悪の物語は描けないし成功話だとしても、成功をする人物が結構イヤなところもあるということになるので、カッチリした物語が描きづらいのだ。
現実社会の人々は当然ラウンドな人物像なのだ。
純文学のほうが通俗小説よりも地位が高いということには理由がある。
ラウンドな人物像をつかって面白い物語を成立させるのは難しいからなのだ。
ただ「物語の群れ」が存在することがとても重要なのだ。
「物語の群れ」というのは種種雑多な物語たちという意味だ。
音楽で考えるとわかりやすいと思う。
バッハとベートーベンとスイングジャズと演歌とアイドルポップスとビートルズとエグザイルがたとえば存在しているような状況だ。
同じひとであってもバッハばかりを聴いていることはあまりないはずだ。
その時その時で聴く音楽が違っているのが普通なのだ。
物語も同様だ。
物語の群れからその時その時である物語を選ぶ状況が好ましいのだ。
これから後半です。
いろんな事件がおきます。それが事件報道であっても物語にしないと伝わらないはずです。
その法幢の物語があまりにもチープな場合が多いすぎるのです。
「このひとは良い人です。このひとは悪人です」のような。
そんなに世間がわかりやすいはずがないのです。
日本は相対的な社会ではあります。それはそうですが、ある事件に関するコメントが明らかに前のコメントを受けて方向性を変えているんだろうとしか思えない場合が多すぎるのです。
別に二次取材三次取材があってもいいのです。
でもシンプルにある件の渦中のひとに会いに行ってもいいし取材に行ってもいいと思うのです。
もうずいぶん前ですが古賀茂明さんが報道ステーションで(私は観ていませんが)"I'm not ABE"と書かれたモノを出して番組を降板しましたよね。今ググったら田中龍作氏はインタビューをしていたようです。しかも田中氏のセンスがよくて「田中龍作の取材活動支援基金」という名前で郵便局の口座番号が掲載されている。クラウドファウディングとかいわない感じが大好きな感じだ。
どういう事情でそうなるのか私には不明だが普通に一次取材すればいいのにと思う状況で、その件に関しての意見や感想が出ることがものすごい多いのだ。
ある事件に対する意見考え感想が一人歩きをし始めるのだ。
事件のドーナツ化現象というか。
結果いろんなテイストのコメントだけが残るような不思議な様相を呈している。
たとえば「あのひとは良い人だと思われているが実は」みたいなこともある。
でも事件とその事件に対するテレビ報道を見ていると「このひとは良い人なんだ」としか思えなくなっていることも多々あって、そのひとが批判されると腹が立つのだ。
そういう時の私は本当にやすっぽいドラマの視聴者でしかない。
そういう時事実私は「このひとは善人でこのひとは悪人だ」と普通に信じているのだ。
そしてハッピーエンドにしてほしいと願っている。
私がいうハッピエンドとは私が悪人だと決めつけているひとの致命的な破滅なのだ。
自分で自分が本当に残虐だと思う。
そういうこともあって報道(特にテレビ)は見ないようにしている。
自分の残虐さが自分で怖いのだ。
私はわかりやすいハッピーエンドは小説や映画で楽しむようにする。