私は葛藤をおおく抱え込んでいます。自分で自分の葛藤がうっとうしいのですが。持って産まれたものなのか後天的なものなのかは今となっては不明です。
私の好きな日本語は名詞では「わだまかり」で動詞では「わだかまる」なのです。
小学校高学年の時に何もかもとてもスムーズに私も私の周囲も動いていて時期があってとても怖くなったのを覚えています。それ以降ずっとわだかまり続けています。
橋下徹さんに関してもある程度わかる気がします。
どの程度自覚的だったのかは不明ですが(私は橋下徹さんの議論めいたことはほぼ観ていません。観る必要がないと思っていたからです。その理由を以下に書きます)議論や討論であればそこにはルールが存在します。
若い友人と話していて「君悪かったんだね」と思ったのですが彼は「格闘技が強くてもケンカは別物だ」と言っていたのです。前に書いたこともあるのですが「一番強い男」というのはファンタジーの産物です。というのはどういうカタチにせよ戦う以場合には「共通のルールが必要になる」からです。なんでもありなのだとしたら「核ミサイルのスイッチを押せるひとに勝てるひとはいません」から。
単純に考えても「打撃立ち技系」と「関節技寝技系」との闘いは不可能です。
「プロレスはショーで弱いんだ」というひとがいますがそうではありません。私の仮説では「日本はグレーゾーンが広い国で日本人の行動様式にもグレーゾーンの広さ」が今でもあります。(これが伝統的なものなのかどうかは不明です)
単純に極端にいうと「日本人にとって多くの場合『白黒つけたがるのはバカ』でしかない」からです。これを話し言葉で書くは「それはまあそういうことだから。そういうことじゃない。だから穏便にまあそういうことで」という結論のつけ方があるのです。これを日本人の非論理性の表れだとみるのは間違いです。この話し言葉にはもちろん一貫した論理が存在するからです。
プロレスは他の格闘技なら危険なので絶対やってはダメだということを明確にルール上ダメなんだとしていないのです。グレーゾーンが広い格闘技なのです。
余計な話ですが現タレントの北斗晶さんとライバル神取忍さんの試合を最近ユーチューブでみて私は楽しめませんでした。今だにユーチューブの上位表示だということは今だに語り継がれるほどの名勝負なのでしょうが「明らかに危ない」のです。
この試合は神取さんがコンスタントに責めて北斗さんがカウンター一発を繰り返していたのですが両者の命にかかわる事故が起きても全然おかしくない内容だったのです。
そういう試合内容だったので私は楽しめなかったのです。
私は余計な話をして本題に行けないひとなのですが「型どおりの物語や描写が数多く含まれているという意味」で私は「時代劇」を再興して欲しいですし「落語」をラジオで多く放送して欲しいのです(私見ですがテレビと落語は相性が悪いのです。実際落語のCDは多く出ていますがDVD付きで落語家が自分の話を出しているのは桂枝雀さんだけで枝雀さんは私が知っている範囲に唯一テレビで観て面白い落語をやる方でした)。
これは時代劇の決まりきったパターンの物語の一つです。とても強い剣士が他流試合を挑まれます。でもそこの流派は他流試合を禁じているのです。だからその剣士は悩むのです。おまけに彼は他流試合を挑まれた相手から罵倒されるのです。「オレからの挑戦にこたえられないお前は弱いのだ」と。でも彼の師匠は「他流試合は絶対ダメだ」というのです。時代劇にはこういう型どおりの物語があったのです。
こういうリポートをするのは吉田豪さんなのですが私がプロレスを観ていた最後の方で新日のプロレスがしょっちゅう他流試合をしていました。私はそれを何回か見ているのですがまったく面白くなくて結果プロレスを観なくなったのです。
その件について吉田豪さんが新日の名レフリーだったミスター高橋が「ガチでいけ」という指示を出していた事をずっと後になってしって「そういうことだったのか」と納得しました。
文筆業界で一二を争う男くさいひと椎名誠さんがケンカについて昔書いていました。「ケンカは一瞬で終わるしケンカなんて勝っても負けてもあんな後味の悪いものはない」と。
私がプロレスを観なくなる前にプロレスはある種の行き詰まりを見せていたのです。「プロレスラーって実は弱いんじゃないか」とか「あれはしょせんショーで格闘技ではない」という見方が出ていたのです。
ミスター高橋の判断は間違えなのですが当時のプロレス界の行き詰まり状況での打開策が他に浮かばなかったのだと私は想像しています。
ただ「ガチの試合」を観ていた私は「これホントにつまらないな」としか思えなかったのです。「ガチの戦い」なんてつまらないモノなのです。
一流のプロレスラーの条件の一つとして私は「ルールの変更が試合中にできること」を間違えなく上げます。
アントニオ猪木さんにはこれが出来たのです。
猪木さんのライバルはジャイアント馬場さんです。馬場さんは「いるだけでスター」でした。ですから猪木さんには「考える必要」があったのです。そして猪木さんには「天才性」がありました。
猪木さんは「ルールを試合中に突然変える能力がありそれが私が考える猪木さんの天才性」でした。
ここから橋下徹さんに話を持っていくのですが「議論」や「討論」は当然「ルールがある」のです。そのルールはあまり当然すぎて「議論」をしている(あるいは「討論」をしている)ひとのほとんどには意識できないほど当然すぎることなのです。
橋下徹さんの議論とか討論を私は見る必要がないと思っていたのは「他流試合」を意図的に橋下さんがしていたからです。
「議論」や「討論」をここでは野球だと考えてみましょう。皆は野球をやることにも野球のルールにも何の疑いもありません。
そういう場面で橋下さんは意図的にサッカーをやっていたのです。
これが私がいう他流試合の意味です。一方が野球をやっていて一方がサッカーをしている状況でどちらかが勝ったであるとか負けたであるとかいう判断をすることは不可能ですしそれは「試合」として成立していないのです。
だから私は「これは見る必要がない」と感じていたので観ていないのです。
橋下さんが「学者が嫌い」でした。
私は説明紹介家として今の日本の言論状況の複雑怪奇さに挑むのですよ。もはや虚数方程式にまで至っているようでもありますし「その議論を読んだり聴いたりするとそれなりの筋が通っているようには思えます。だけれどもそもそもその議論には有効性があるのでしょうか。私にはその議論の出発点さえ出発点にするにふさわしいポイントであるとは思えないのでその議論そのものを無効だと考えます」というとても面倒なことを私は考えていたりするのです。
言い方は難しいのですが橋下さんはテレビでのパフォーマンスがとてもうまいひとでした。
橋下さんの議論めいたこと(という書き方を私がするのは橋下さんはそもそも議論をする気がなく別のルールの何かをしていたと考えているからですが)をするときにはパターンがありました。私はそれを1,2回見て覚えました。
橋下さんの専門分野について相手に「これを知ってるか」と聞くのです。それは言ってみれば些末なことで議論の本筋ではないことです。そして「これを知らないあなたはダメなんだ」というのです。また議論であれば「話して聞く」「聞いて話す」の繰り返しなのですが橋下さんは相手が話しているのにその話と重ねて自分の話をしていたのです。
別にこれは橋下徹批判ではありません。
ただ橋下さんの議論めいたことはそういうことでしかなかったので私は見る必要がないとしか思えなかったのです。
二回目ですが野球をひとがしているのにそこで唐突にサッカーを始めるひとがいたとしてどちらより有効だったのかなどという判断をつけるのは不可能ですし橋下さんの議論めいたことを観たり聞いたりしてもその内容から私が何かを学んだりする要素は極めて少ないと感じていたから観る必要がないと感じていました。
私は説明紹介家として面倒くさいことを(今となっては好んで)しています。
論破ということではありません。世間に流通している「考え」のようなものを解きほぐして場合によっては「その考えはそもそも存在する価値がないとしか思えません」という失礼極まりないことをいうのです。
私がしていることは場合によっては「相手の考えの否定」ですらありません。「あなたの考えは存在する必要性がない」と断じてしまうのですから。
「あなたの考えは間違っています」というのであれば「相手の考えの否定」ですが「あなたの考えはそもそも存在する必要がないと私は考えます」と断じてしまうのでこれは「相手の考えを無効化」していることになるのです。
私の考えに共感するひとがどの程度いるのか不明ですが「その考え議論ってそもそも存在する必要があるのですか。私にはないとしか思えません」というのが私がいう「相手の考え議論の無効化」です。
私は現代世界中に「無効化」した方が良い考えが山のようにあると考えているのです。
そして「私はその無効でしかない議論に参加するような愚かなことをするつもりはない」のです。
と「考え」「議論」の「無効化」の後に付け加えるのです。
宮崎哲弥もそうしたら。あんたの議論の相手はたいていバカでしかないよ。