まだお名前を覚えていますが高校時代に担任までお世話になった恩師に高橋先生という方がいました。
私は高橋先生に評価されていました。たぶんキッカケは古語を現代語訳した時に私の現代語訳がキッカケだったと私は考えています。
古語で「思わるる」というのを私は現代語訳する時に何故か「思われる」と訳すのがとてもイヤだったので「思うことができる」と現代語訳していたのです。
私には(たぶん)もってうまれた障害があって私は日本語のネイティブスピーカーなのですが日本語の文法や日本語単語の語釈がわかっていないとどこかうまく日本語を使えない小学生だったのです。
そういう私は熊本の方言の日本語文法を小学生の時から解析していました。
そしてたとえば「アクセント」がそもそも違うともどこかわかっていたのです。日本語のアクセントは基本イントネーションアクセント(音程の上下によるアクセント)なのですが熊本のアクセントはストレス(強弱)アクセントなんだとわかっていた小学生だったようです。
さらに「この活用は古語の活用だよね」とかもわかっていたようです。
発音しやすいように発音を変化されることを「音便変化」というのですが。「お母さん」を「おっかさん」というのがたとえば音便変化です。
熊本のアクセントがストレスアクセントなのでイントネーションでは「平板化」していて音程の高い低いはほぼありません。そして強弱のアクセントをつけるのです。
そうすると「食パン」という単語は発音しづらいのです。
そして音便変化して「しょっぱん」と発音するひとも多数います。
このケースでは「しょ」にアクセントがあります。「しょ」を強く発音すると「しょく」とは言いづらいので「しょっぱん」になるのです。
敬語表現も(この言い方に今はほぼ敬意はないのですが)「行かる」「見らる」「さる」という表現があります。
これよりも一段高い敬意をしめす場合は「行かす」「見らす」「さす」といいます。
この二つは古語です。「る」「す」という尊敬の助動詞が今も熊本では使われているのです。
「行かるる」「見らるる」「さるる」というと可能の意味になるのですがこれは可能の助動詞「るる」が残っているのです。
福岡方面で「知っとお」というのは「知っとる」が音便変化しています。活用が「知ってる」ではないのです。「知っとる」なのです。
そしてストレス(強弱アクセント)で「し」を強く発音するので「知っとる」と発音しづらいので「知っとお」になります。
熊本では今も(おそらく古語なのでしょう)「考えがられる」とは言わないのです。「考えらるる」と言います。「見られる」ではなくて「見らるる」なのです。音便変化して「考えらるっ」とか「考えらるう」とか「見らるっ」とか「見らるう」と日常的には使うのですが。
こういう語感で育っているひとにとっては「思わるる」や「見らるる」が基調なので「かんがえられる」や「見られる」が生理的に受けつけないのです。
ただ「思われる」や「見られる」という言い方が現代日本では支配的です。そうなると「ら抜き言葉」の「考えれる」や「見れる」の方が好ましい響きなのです。
まとめますが現代日本語に「見らるる」と「見られる」がもともと混在していたことが「ら抜き言葉」を発生させたはずです。
私は今でもどうしても「見られる」であるとか「考えられる」というのは生理的にうけつけません。
「見れる」や「考えれる」のような「ら抜き言葉」の方がまだましなのです。
熊本出身の国文学者は何十年も何をしてきたのでしょうか。
自慢話ですが私は高校生の時にはこれくらいことはわかっていたのですが(ということは35年くらい前には私には普通のことでしかなかったのですが)。