「声の系譜」でたどる 中森明菜
この文章を書いている時(2017年6月)に日本の代表する歌姫はおそらく宇多田ヒカルだ。以前に「日本人はアルト(女性の低い声)が好きだ」と書いたことがある。その時にはそうだとしか思えなかった。しかし私はその考えを改めた。東洋人の声は細い。戦後「空前」と言っていいほどの音楽上のブームが起きる。「浪曲」「シャンソン」「ジャズ」とうだ。
「浪曲」と「シャンソン」と「ジャズ」にはある共通項がある。「声が太い」のだ。
私は「早すぎた大歌手」だと考えているのが江利チエミだ。彼女の声は「太くて強くてちょっとしゃがれている。そして明るい」のだ。そういう意味で江利チエミのことを私は元祖松田聖子だと考えている。
宇多田ヒカルの母親の藤圭子はやはり「太くてつよくてちゃっとしゃがれた声だった。でも哀感がある声」だった。
戦後の代女性歌手を「哀感がある声」という系譜でたどると「美空ひばり」「藤圭子」「山口百恵」「中森明菜」「安室奈美恵」「宇多田ヒカル」というつながりを見せる。
一方「明るい声」という系譜の女性歌手は「越路吹雪」「江利チエミ」「中尾ミエ」「南沙織」「松田聖子」というつながりをみえる。
ユーチューブで中森明菜の「秋桜(こすもす)」についていたコメントに私は注意を奪われた。
「このひとは女優だ」と書いてあったのだ。もちろんそのコメントに反発したコメントもあったのだ。
中森明菜の歌である時期以降よく見られることなのだが彼女は「発音が悪い」。「秋桜(こすもす)」の発音もやはり悪い。しかし「十分に聞き取れる」のだ。
発声の問題もある。山下達郎が竹内まりやが「駅」を中森明菜に書いているのだが「歌の解釈に達郎が激怒した」という噂があって真偽は不明だ。
山下達郎はいわば「声帯派のシンガー」だ。加藤登紀子や山口百恵や中森明菜は「話す発声」と「歌う発声」がほぼ同じだ。(追記しておくと特異なひととして森進一がいる。あのひとは内臓で声を出すそうだ)
山下達郎の発声はイタリアオペラの発生にとてもちかい。達郎はブラックミュージックラバーとしてしられているのだがイタリア系アメリカ人の歌に多くの影響をうけている。代表はフォーシーズンんずのフランキーバリだ。
(余計なことなのだが私は日本語に半母音を再び入れて欲しい。wa wi wu we wo ya yi yu ye yo がある方が日本語としては普通だと思うのだ)
彼女の「発音が明らかに悪い」のに「明確に聞き取れる」ことが彼女が「歌のコトバをとても大事につかっていること」をあらわしている。
私は中森明菜にある時期までまったく興味がなかった。松田聖子の聞き方も変わっていたと思う。
高校時代に友人が「松田聖子はもう歌謡曲じゃない」と言っていた。特に松本隆が聖子プロジェクトに参加して以降の作家陣は(当時はそういう言葉はなかったのだが)J-POPの大御所たちだ。最初の頃は財津和夫。松本隆が参加した後はユーミンを筆頭に大御所たちが続々と書いているのだ。
歌番組では「作詞」と「作曲」を紹介するのが普通だった。
松田聖子に関しては「やっぱりユーミンはいい」とか「大滝さんがかいたか」「尾崎亜美は当然かくよね」と私はどこか作家陣を追っていた。
私が中森明菜に興味を持てなかったのは彼女が「歌謡曲」をやっていたからだと今は思う。
ただなんとなく「トゥルーアルバム」というセルフカバーのアルバムを聴いた当たりから彼女への興味ががぜん沸いてきた。
普通歌手が自分のヒット曲のセルフカバーをすると「小ワザ」が増えるものだ。しかし「トゥルーアルバム」では小ワザはむしろ減っている。そして「歌がでかくなっている」のだ。
トゥルーアルバムを聴いて「歌手としての中森明菜」にたいする評価は確定した。
「中森明菜は大歌手なんだ」と思ったのだ。
中森明菜の声が細くて軽い。
彼女のデビュー曲の「スローモーション」の時には彼女は歌手としては凡庸だった。良い言い方をすれば彼女はとても素直に歌っている。
松田聖子の声は「太くて強くて硬くて明るい声」だから素直に歌うだけでそうとう歌の世界が確立する。
しかし中森の声では素直に歌うだけでは歌の世界を確立させるのは不十分だ。そういう意味で「スローモーション」は凡庸だといわざるを得ない。
そして彼女は努力を始める。「鼻にどの程度かけたらいいのか」とか「同じ『アー』だとしても違う音色があるはずだ」とか一頃よくやっていた「大きなビブラート」であるとか。あるいは「リズム感」だ。
それはある種の「演劇性」だということも可能だろう。
中森明菜の声が細くて軽かったがゆえに彼女は女優になったのだろう。
ただ彼女はシンガーソングライターではない。私の彼女に対する疑問は「中森明菜には歌と巡り合うチカラがあるのかどうか」という点にある時期うつった。彼女がヒット曲を連発していて時期以降については私はよく知らなかったし。
でも彼女は確実に「いい歌」と巡り合っている。
「良い歌と巡り合うチカラ」も大歌手に要求されるチカラなのだ。「歌の引きが強いかどうか」だ。
彼女クラスになれば10年に一回で充分だ。彼女は確実に巡り合っている。
中森明菜は大歌手なのだ。
そして中森明菜も松田聖子もスキャンダルと言い方ではちょっと説明できないような出来事があった。
松田聖子はある時期明らかに日本中から嫌われていたし私もその時期の松田聖子は嫌いだった。中森明菜も私生活でいろいろあった。
そういう二人がある時期にアプローチはまったく違うのだろうが「マイウェイ」を歌うのだ。
こういう歌詞をまったく違うアプローチで歌うはずだ。
「私もいろいろあったでしょ。皆知ってるわよね。でも私はそれなりに頑張って来たつもりなの。そして今も歌えてしあわせだと思っている」という内容だ。
松田聖子と中森明菜は「マイウェイ」を歌う「資格」をもった今の日本で数少ない歌手なのだ。
そして宇多田ヒカルの出現でに日本人の「太くて重い声」に対する憧れは大幅に薄れたはずだ。