世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

だから日本はダメなんだと思うな 杉田水脈議員

杉田水脈議員の言動が話題になっています。LGBTについて新潮45に彼女が書いたのです。日本中の多くの人たちが思ったはずです。「ああいうことが通用するんだ」と。

日大アメフト部の騒動に関しても同じだったと思うな。前監督に関しても、切れた広報に関しても、今だにそれなりの対応をしたとは思えない日大のトップにしても

 

ボクシングの騒動も同じだったと思うし。体操界の問題もやっぱり同じだったはずです。

 

前にアメリカのビジネス書を読んで「アメリカでもこういうことがあるんだ」と思っています。

 

その本の著者が当時勤めていた会社の社長があまりにヒドイことをしてしかも法的に問題があることだったので裁判にしようと思っていたという話なのです。でもそのひとの奥さんから「その件は社長がおかしいって私はわかってるし裁判にすれば勝つのもわかってるけど裁判で何年も家の中でかき乱されるのはイヤだからそういうことはしないで」といわれているのです。結果そのひとはその会社を離れて今は立派にやっているのです。

 

何日か前にヒドイ状況だった漁港が回復したというリポートをみました。みやぞんがリポーターだったのですが。港で魚を箱詰めする場面があったのです。そこであるオヤジがギャーギャー怒鳴りだしたのです。ナレーションとテロップで「地獄の雰囲気」だとかなんかいっていたしみやぞんがこの雰囲気をなんとかしよつと思って関係ないリポートを始めるくらいのことです。そのオヤジはその漁港の元トップだったらしいのですがソイツがやったことに私は心底呆れました。今は若い女性がそこのトップです。そのオヤジが六次産業というものがあると知ったらしいのですがすぐにあきらめるのです。「自分には無理だ」と。でもソイツは何もしていないのです。する前からあきらめています。こういう考えと態度のやつがトップの組織がダメになるのは当然です。そして今トップをしている女性のある仕事を丸投げして、しかもそれをタダでやらせています。私には見積もることはできませんが50万とか払ってもおかしくない仕事なのです。

 

これは私の想像なのですがそこの漁協にも優秀な人たちはいたはずです。でも恥も何にもしならいで都合悪くなるとギャーギャー喚きたてるジジイが心底イヤになってやめていったと思うのです。やめていった人たちには実力があるからよそでもやっていく自信があるという理由もあったと思うのです。

 

ちょっと気に食わないと異常にギャーギャーわめきたてるジジイって「男山根」がそうだったはずです。

 

こういう時にはこういうことをするものだという共通認識があるものです。それから外れた言動をとられるとどう対応していいのかわからなくなるのです。

 

日大アメフト部の騒動で記者会見の司会をしていた広報が切れましたよね。なにか理由があったのかもしれません。でも理由があったら切れていいんだった私は仕事上で1万回以上切れています。でも私は切れていません。あなたもそうでしょう。業務上で気に食わないことがあったら切れていいんだったしょっちゅう切れていますよね。理由があっても切れてはいけないというのが大人の普通の考えであるはずです。でもあの広報は切れていたのです。

 

アメフト部の前監督と前コーチも本当にダメでした。問題は「責任の所在」なのです。「つぶしてこい」程度のことをいうのは普通なんだとかそういうことではまったくありません。事実日大の選手は危険なタックルをして相手の選手はケガをしているのです。この事実に対する責任の所在はどこなのかということをどう考えていてどう対応するのかということを記者会見で述べるのが当然なのです。監督とコーチはそのことがまったくわかっていないままに記者会見を開いていたのです。

 

別に日大に恨みはありませんしなんでもかんでも記者会見をやればいいとも思わないのですが今回の件について日大トップは日大トップとしてどう考えていてどういう対応をするということをなんらかのカタチで明確に発言する必要があるのです。内容がちゃんとしていれば日大のホームページに載せるだけでもいいと思うのですが。そういうことはしていません。

 

ボクシング界の騒動も体操の騒動も全部一緒でした。異常に幼稚な人たちが良いポジションについているのです。

 

男山根とか良い年していうんですよ。体操の塚原夫妻だって腹が立ったから怒ったから言いましたということでしかないのです。

 

コーチの体罰は別問題です。これはまったく別問題です。

 

ただテレビ朝日のオバサンは本当にひどかった。報道ステーションでオバサンのリポートを観たんですが「事実と自分の感想と自分の想像」がごちゃまぜなのです。リポート基礎が全然わかっていないしできてないのです。何十年もやってて仕事の基本もできていないのです。一言でいうと最低でした。パートで働いてるオバチャンでもああいう仕事をしたらダメです。仕事のレベルが低すぎるのです。

 

ミヤネ屋を観ていてあのひとがボクシングの話題に関して「こうだ」といっていたのです。私はすごく腹が立ちました。

 

何故そう思ったのかです。私も何度か似たような連中に煮え湯を飲まされているからなのです。

 

杉田水脈議員も同じです。彼女の考えの正当性を問題にしているわけではありません。彼女がしたこと(新潮45にある記事を書いたこと)で結果安部さんにまで迷惑が及んでいるのです。

 

二回目ですが「彼女の考えの正当性」とは別に彼女が言いたいことを言ったということで彼女が所属する自民党にも自民党のトップである安部さんにも迷惑をかけていることについての反省がないということを問題にしているのです。

 

私が知りたいのは杉田議員が自民党のいろんな人たちに迷惑と心配をかけて申し訳ないと思っているのかです。そして彼女をかばう発言をした人々に感謝を気持ちを持っているのです。そしてそのお詫びとお礼を彼女をしたのかです。

 

こういうことができていないようなら彼女は職業人失格なのですが。

 

そういうことが時々あるのです。「こんなことで潮目が変わった」ということが。杉田議員の件で安部さんやわかりやすい保守に対する風向きが悪くなったと感じています。

 

時々そういうひとがいるのですが「あんたの言動であっちこっち死ぬほど迷惑したんだよね」とこっちが思っているのに知らん顔をしているひとたち。そういう人たちって事実認識の能力がないようです。

 

(これは不明ですが)杉田議員が新潮45に書いたことで世間が大騒ぎになるとは思っていなかったような気がするのです。思っていたとすれば炎上商法ですよ。彼女には自分の言動で世間がどう動くのかという観測する能力にかけている可能性があります。それは政治家というよりも職業人としての能力にかけているということです。

 

「自分が新潮45に記事を書いた」から「自民党に迷惑かけた」から「自民党に申し訳ないと思う」から「あの記事に書いたことに関する考えは変わっていないがカタチだけ世間に謝罪する」という風に思考が流れていかないひとであるような気もするのです。

 

私が言っているのは仕事仲間に対する配慮の問題です。自分が所属する政党や同じ政党の先輩政治家って彼女の仕事上仲間や先輩なのです。

 

私はあんなひととは一緒に働きたくありません。ああいうひとと働くとバカみたいにフォローしなきゃいけないのが目にみています。しかもいくらフォローしたってお礼一ついわないとしか思えないのです。

 

知ってはいました。

 

知ってはいたんですよ。

 

哀れなくらいにヨウチな人々がいいポジションにいるんですよね。

 

知ってたよ。

 

ああいうヨウチな連中になんども煮え湯を飲まされてきたんだから。

 

だから日本はダメなんだと思うな。

あれは実験だったのだが 嫌韓 亀田大毅 憎悪

その頃嫌韓のムーブメントが来ていた。なんとなくユーチューブで嫌韓がらみの動画を続けてみることにした。関連動画が表示されるのでそういうことが可能なのだ。

 

半日そういうことをしていたら私は韓国のことが大嫌いになっていた。でもそれは実験だったので自分がそれまで関心がなかった韓国を自分が異常に嫌っていることが不思議だった。

 

亀田大毅内藤大助の試合が話題になっていることを知りテレビで二人の試合を観た。私はボクシングのことがまったくわからないのだが。試合を見て「ボクシングって殴りあいのはずなんだけれども殴りあわないな」と思った。

 

そしてこの件に関するテレビ報道を見ていたら自分はどういう気持ちになるんだろうと思いながらテレビを観ていた。そうすると亀田大毅のことが心底憎らしくなっていたのだ。でもそれは実験だったのでボクシングにも亀田大毅にもまったく関心がなかった自分がこれほどの憎悪にかられていることが不思議で滑稽でもあった。そして夕方のストレートニュースの時間に亀田大毅の記者会見が行われた。つめかけた記者たちは彼をつるしあげていたのだが。

 

自分でもわからないのだが自分で驚くほどの憎悪が二回とも膨れ上がったのだ。

 

私は自分が自分で怖いのでもうこういうことはしないが、みなさんは大丈夫ですか。

 

マスコミ関係各位はその時その時の報道を観ないわけにはいかないんだろうけれども。

ネット時代は結局「ひと」

新潮45は当然紙媒体です。

 

私自身ある記事から謎のウェブマガジンに飛んで「ああこんなホムペがあっただ」と驚いている。

 

インターネットには問題があまりにも多い。

 

ただインターネットの特徴に「検索ワード順内800位」の存在にヒットするというものがある。

 

テレビに代表されるプロマスコミは真逆だ。

 

検索ワード上位のものを取り上げる。

 

ずっと私が深い興味をもっている安部さんがニュース23(だったと思うが)に出演した時に「(〇〇という件を)取り上げてもらえなかった」と言っていた。

 

その時は「子供じゃないんだから」と思ったのだが。

 

インターネット以降明らかに「情報の絶対量」が増えている。「情報の流通の絶対量も情報のストックの絶対量も」だ。

 

安部さんがやる気になれば国会すべてのネット中継も各党からの告知もできなくはないのだ。(ヒドイ批判もあるだろうが)

 

こういう時代に明らかに入ってるのだから

 

・ネットナビゲーター(ネット案内人)

・ネットパイロット(ネット水先人)

 

は需要がある。

 

たとえばアマゾンで何か見たり買ったりすると「あなたへのおすすめ」が出てくる。

 

でもいろんな風に事業を広げているライザップにはパーソナルトレーナがついている。

 

彼らがどういう感じで顧客に接しているのかは知らないが「それ食べちゃダメですよ」といってくれるひとがいるからライザップの顧客は結果を出せているはずだ。

 

今の日本で「それをやったらダメです」とか「それやってください」という存在は職業になるようだ。

 

アマゾンのおすすめが電話かけてきて「あれ読んだかな。感想が聞きたいんだけれども」ということはないのだ。

 

私にはSNSで知り合ったひとでそういうことを言ってくれるひとがいる。そのひとがそういうことを言ってくれるから読んだ本もあるのだ。(自分のチョイスなら読むはずがない本だった)

 

実際「あの本の感想が聞きたいんですよね」とネット上でいわれたこともあるのだ。

 

最近コールセンターははやってないようです。

 

電話応対をするとカネがかかるのでしょう。実際ある件で電話をかけたら外国のひとが対応したので驚いたこともあったし。

 

つまらない話だけど「結局ひと」だ。

山本KID氏中中傷コメントの話から

www.huffingtonpost.jp

 

どうも格闘技は語りたくなるものらしい。以前違う流派の空手をやっている二人の話を聞いて笑ったことがある(もちろん二人にはわからないようにだが)。

 

カタがいろいろあるらしいのだが「こうツキが来たらどう受けるですか」とか二人でずっとやっていたのだ。

 

その様子をみて「空手が一つにまとまるのが難しいわけだ」と思いもした。

 

私の周囲だけではないと思うのですが格闘技好きで格闘技について死ぬほど語る人々がいる。

 

宗哲マニア(宗教哲学マニア)と一緒なのかもしれない。

 

宗教は実践することに意味がある。

 

人間関係をどう考えてどうしていくのかとか

仕事が自分にとってどういう意味なのかを考えてどう働いていくのかとか

日々の暮らしと重なるものだ。

 

宗哲マニアっとちょっとバカにするのは彼らは彼らの勉強や思索を日々の暮らしと結びつける気が最初からないからなのだ。

 

そんなに格闘技が好きなんだった君たち格闘技をやればいいと思う。

 

君たちは「しない」から語りたくなるんだと思うんだよね。

 

今回の中傷コメントも「しないヤツ」の言い草なんだと思うな。

 

君が何歳かしらないけど「やれば」いいと思うんだよね。

 

人生はするかしないかだけです。

 

しないでなおかつしたひとの悪口をいってる連中は後悔の多い人生を送ることになると思う。

 

これのオリジナルは正直不明だ。諸説あるのが普通だし。

 

薩摩の教え 男の順番

(1)何かに挑戦し、成功した者

(2)何かに挑戦し、失敗した者

(3)自ら挑戦しなかったが、 挑戦した人の手助けをした者

(4)何もしなかった者

(5)何もせず批判だけしている者

 

何かをすれば失敗するのが普通だ。プロ野球選手でも2割打てればいいはずだ。だから8割は失敗だ。それもチームによっては大観衆の前でテレビ中継もされている中で彼らは日常的に失敗している。そういうことが素晴らしいのだ

 

ああいうことが普通の習慣になっていることも私は正直気に食わない。サッカーで自分が応援しているチームがゴールにシュートを打ち込んで外した時に「あー」というため息を集団につくのだ。

 

ああいうことをされると確実にパフォーマンスが落ちるのだが。どういうつもりで彼らは「あー」というため息をつくのだろう。

 

私も何かして失敗しているが、そういう時に「ほらやっぱり」みたいな態度をとった連中をいちいち覚えているし今は深く軽蔑している。

 

30代に親しかったひとのやっていたことが不思議だったしさっぱりわからなかった。

 

ある件でブレインストーミングをしようと持ち掛けたのだ。ある件についてのアイディアが欲しかったのだ。

 

「どんなにくだらいものでもいいからどんどん安全にアイディアを出そう」と何度も言っているのに彼は(1、まず全然アイディアを出さない 2、ひとが出したアイディアにケチをつける)のだ。

 

私は「これはブレストだからそういうことはやめてくれ」といったのだが・

 

「安全にアイディアが出せる」ということがブレインストーミングの大前提だ。

 

「どんなにくだらないことを言っても笑われないしバカにされないし批判もされない」という条件を設定するのは「安全にアイディアを出す」ためだ。

 

でも彼はブレストすらできないひとになっていた。

 

名前は出さないが討論番組の出演者にもそういうひとがいた。そのひとは一切自分の考えを言わないのだ。討論番組は嫌いだが、そのひとは討論番組に出演しているのだから「自分はこう思う」というのが当然だ。でもそのひとが自分の考えをいうことはまったくない。そしてひとの発言(どころかひとの存在)を罵倒していた。「なんとかだから(お前はダメだ)」としか言わないのだ。しかもカッコ内の(お前はダメだ)は言葉になっていなかった。姑息なひとだとその時は思っていたのだが。

 

「アイディアを出す」とか「意見(というか)考えを述べる」ような時に「ケチをつける」「バカにする」「笑う」「批判する」「ダメ人間のレッテルを張る」ことしかできなくなっている連中が実は山のようにいるのかもしれない。

 

「自分で何かをする」ということを思うこともできなくなっているんだ。ただただひとの悪口をいうのだが。

 

どういう理由があるのか知らないが男の順番の1,2,3は思い浮かびもしなく人間になり果てていて、それを疑うこともできなくなっているのだ。

 

でも大人だったらそういうことは自分でなんとかするものだとは思うのだが。哀れだとは思う。

この記事は誰が書いてるのかな こういうことはやめようか

KIDさんに4秒殺された五輪代表 実は「中学の時、仲良かった」…追悼ツイート

 

私は格闘技について全然知らないが富田選手のアゴにキッド選手のヒザが入ってKOになっただだけだ。

 

アゴに入れられたのはダメだけれどもアゴにヒザが入れば場合によっては骨折もするというだけのことだ。

 

三回目だけれどもアゴに入れれらたのはダメなんだろうけれども4秒だろうと何秒だろうとアゴにヒザが入っただけのことだ。

 

四回目だがアゴに入れらたのは富田選手が悪いのだろうが出会いがしらみたいなものだ。

 

たぶんこの記事を書いたヤツはネットでちょっと見て「これがいいかな」とか思ってるんだろうな。

 

これはある種の「火事場泥棒」だ。

 

火事場泥棒 人々が混乱している時に利益を得ること、得るひと

 

プロマスコミもそうとうヒドいね。

ベタをちゃんとやりましょう ベタと技術

ベタの定義が必要だと思われるのでまずそれから。

 

「型どおり」だとか「見慣れた」だとか「ありふれた」という意味だとここではしておきます。

 

昨日始めてドラマ「過保護のカホコ」を観ました。

 

役名は知らないのですが高畑充希竹内涼真が大声で言い争っている場面があったのです。

 

美男美女の二人がケンカをしてい場面なのですが、私はこういう場面を久しぶりに観たと思いました。

 

こういう場面は「型どおりの場面だ」という意味でベタだといえるはずです。

 

物語でも本当に昔からある「型どおりの物語」があります。

 

「ベタベタの物語」です。

 

私が年を取ったからというだけの理由だとは思わないのですが。

 

本当に型どおりという意味でベタベタでなおかつクオリティが高い仕事に接したいのです。

 

批評性が高くなるとベタをバカにします。

 

こういう流れで話題に出していいものかどうか不明ですが古典落語とか時代劇とかにそういう要素が多分にあると思うのです。

 

二回目ですが型どおりという意味でベタベタなのだがクロリティが本当に高い仕事(それが映画でもドラマでも小説でも演劇でも)に触れたいのです。

 

これを成立させようと思うと技術が必要になるのですが。腕がないとベタは難しいのです。

なぜハッピーエンドじゃない物語があるのか コメント社会 事件のドーナツ化現象

映画や小説はハッピーエンドであってほしいというひとがいる。その気持ちもわかるのだが。

 

通俗小説と純文学の違いを人物像の違いで説明する。

 

一面的な人物像をフラットな人物像といい多面的な人物像をラウンドな人物像という。

 

フラットな人物像というのは「悪人」とか「善人」とか「立派なひと」とか「だらしないひと」ということだ。

 

ラウンドな人物像というのは「立派なところもあるし卑屈なこともずるいところもあるのだが親孝行でもあるしカネに汚くもあるし・・・」というようなことだ。

 

登場人物がフラットな人物像なら「あの悪人がイヤな目にあって善人は良い思いをしました」というようなハッピーエンドの物語を作れる。

 

だが登場人物がラウンドな人物像の場合は誰が悪人で誰が善人でという描き方ができないのだ。

 

そうするとよくわからない(いわゆる)勧善懲悪の物語は描けないし成功話だとしても、成功をする人物が結構イヤなところもあるということになるので、カッチリした物語が描きづらいのだ。

 

現実社会の人々は当然ラウンドな人物像なのだ。

 

純文学のほうが通俗小説よりも地位が高いということには理由がある。

 

ラウンドな人物像をつかって面白い物語を成立させるのは難しいからなのだ。

 

ただ「物語の群れ」が存在することがとても重要なのだ。

 

「物語の群れ」というのは種種雑多な物語たちという意味だ。

 

音楽で考えるとわかりやすいと思う。

 

バッハとベートーベンとスイングジャズと演歌とアイドルポップスとビートルズとエグザイルがたとえば存在しているような状況だ。

 

同じひとであってもバッハばかりを聴いていることはあまりないはずだ。

 

その時その時で聴く音楽が違っているのが普通なのだ。

 

物語も同様だ。

 

物語の群れからその時その時である物語を選ぶ状況が好ましいのだ。

 

これから後半です。

 

いろんな事件がおきます。それが事件報道であっても物語にしないと伝わらないはずです。

 

その法幢の物語があまりにもチープな場合が多いすぎるのです。

 

「このひとは良い人です。このひとは悪人です」のような。

 

そんなに世間がわかりやすいはずがないのです。

 

日本は相対的な社会ではあります。それはそうですが、ある事件に関するコメントが明らかに前のコメントを受けて方向性を変えているんだろうとしか思えない場合が多すぎるのです。

 

別に二次取材三次取材があってもいいのです。

 

でもシンプルにある件の渦中のひとに会いに行ってもいいし取材に行ってもいいと思うのです。

 

もうずいぶん前ですが古賀茂明さんが報道ステーションで(私は観ていませんが)"I'm not ABE"と書かれたモノを出して番組を降板しましたよね。今ググったら田中龍作氏はインタビューをしていたようです。しかも田中氏のセンスがよくて「田中龍作の取材活動支援基金」という名前で郵便局の口座番号が掲載されている。クラウドファウディングとかいわない感じが大好きな感じだ。

 

どういう事情でそうなるのか私には不明だが普通に一次取材すればいいのにと思う状況で、その件に関しての意見や感想が出ることがものすごい多いのだ。

 

ある事件に対する意見考え感想が一人歩きをし始めるのだ。

 

事件のドーナツ化現象というか。

 

結果いろんなテイストのコメントだけが残るような不思議な様相を呈している。

 

たとえば「あのひとは良い人だと思われているが実は」みたいなこともある。

 

でも事件とその事件に対するテレビ報道を見ていると「このひとは良い人なんだ」としか思えなくなっていることも多々あって、そのひとが批判されると腹が立つのだ。

 

そういう時の私は本当にやすっぽいドラマの視聴者でしかない。

 

そういう時事実私は「このひとは善人でこのひとは悪人だ」と普通に信じているのだ。

 

そしてハッピーエンドにしてほしいと願っている。

 

私がいうハッピエンドとは私が悪人だと決めつけているひとの致命的な破滅なのだ。

 

自分で自分が本当に残虐だと思う。

 

そういうこともあって報道(特にテレビ)は見ないようにしている。

 

自分の残虐さが自分で怖いのだ。

 

私はわかりやすいハッピーエンドは小説や映画で楽しむようにする。