世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

山本KID氏中中傷コメントの話から

www.huffingtonpost.jp

 

どうも格闘技は語りたくなるものらしい。以前違う流派の空手をやっている二人の話を聞いて笑ったことがある(もちろん二人にはわからないようにだが)。

 

カタがいろいろあるらしいのだが「こうツキが来たらどう受けるですか」とか二人でずっとやっていたのだ。

 

その様子をみて「空手が一つにまとまるのが難しいわけだ」と思いもした。

 

私の周囲だけではないと思うのですが格闘技好きで格闘技について死ぬほど語る人々がいる。

 

宗哲マニア(宗教哲学マニア)と一緒なのかもしれない。

 

宗教は実践することに意味がある。

 

人間関係をどう考えてどうしていくのかとか

仕事が自分にとってどういう意味なのかを考えてどう働いていくのかとか

日々の暮らしと重なるものだ。

 

宗哲マニアっとちょっとバカにするのは彼らは彼らの勉強や思索を日々の暮らしと結びつける気が最初からないからなのだ。

 

そんなに格闘技が好きなんだった君たち格闘技をやればいいと思う。

 

君たちは「しない」から語りたくなるんだと思うんだよね。

 

今回の中傷コメントも「しないヤツ」の言い草なんだと思うな。

 

君が何歳かしらないけど「やれば」いいと思うんだよね。

 

人生はするかしないかだけです。

 

しないでなおかつしたひとの悪口をいってる連中は後悔の多い人生を送ることになると思う。

 

これのオリジナルは正直不明だ。諸説あるのが普通だし。

 

薩摩の教え 男の順番

(1)何かに挑戦し、成功した者

(2)何かに挑戦し、失敗した者

(3)自ら挑戦しなかったが、 挑戦した人の手助けをした者

(4)何もしなかった者

(5)何もせず批判だけしている者

 

何かをすれば失敗するのが普通だ。プロ野球選手でも2割打てればいいはずだ。だから8割は失敗だ。それもチームによっては大観衆の前でテレビ中継もされている中で彼らは日常的に失敗している。そういうことが素晴らしいのだ

 

ああいうことが普通の習慣になっていることも私は正直気に食わない。サッカーで自分が応援しているチームがゴールにシュートを打ち込んで外した時に「あー」というため息を集団につくのだ。

 

ああいうことをされると確実にパフォーマンスが落ちるのだが。どういうつもりで彼らは「あー」というため息をつくのだろう。

 

私も何かして失敗しているが、そういう時に「ほらやっぱり」みたいな態度をとった連中をいちいち覚えているし今は深く軽蔑している。

 

30代に親しかったひとのやっていたことが不思議だったしさっぱりわからなかった。

 

ある件でブレインストーミングをしようと持ち掛けたのだ。ある件についてのアイディアが欲しかったのだ。

 

「どんなにくだらいものでもいいからどんどん安全にアイディアを出そう」と何度も言っているのに彼は(1、まず全然アイディアを出さない 2、ひとが出したアイディアにケチをつける)のだ。

 

私は「これはブレストだからそういうことはやめてくれ」といったのだが・

 

「安全にアイディアが出せる」ということがブレインストーミングの大前提だ。

 

「どんなにくだらないことを言っても笑われないしバカにされないし批判もされない」という条件を設定するのは「安全にアイディアを出す」ためだ。

 

でも彼はブレストすらできないひとになっていた。

 

名前は出さないが討論番組の出演者にもそういうひとがいた。そのひとは一切自分の考えを言わないのだ。討論番組は嫌いだが、そのひとは討論番組に出演しているのだから「自分はこう思う」というのが当然だ。でもそのひとが自分の考えをいうことはまったくない。そしてひとの発言(どころかひとの存在)を罵倒していた。「なんとかだから(お前はダメだ)」としか言わないのだ。しかもカッコ内の(お前はダメだ)は言葉になっていなかった。姑息なひとだとその時は思っていたのだが。

 

「アイディアを出す」とか「意見(というか)考えを述べる」ような時に「ケチをつける」「バカにする」「笑う」「批判する」「ダメ人間のレッテルを張る」ことしかできなくなっている連中が実は山のようにいるのかもしれない。

 

「自分で何かをする」ということを思うこともできなくなっているんだ。ただただひとの悪口をいうのだが。

 

どういう理由があるのか知らないが男の順番の1,2,3は思い浮かびもしなく人間になり果てていて、それを疑うこともできなくなっているのだ。

 

でも大人だったらそういうことは自分でなんとかするものだとは思うのだが。哀れだとは思う。

この記事は誰が書いてるのかな こういうことはやめようか

KIDさんに4秒殺された五輪代表 実は「中学の時、仲良かった」…追悼ツイート

 

私は格闘技について全然知らないが富田選手のアゴにキッド選手のヒザが入ってKOになっただだけだ。

 

アゴに入れられたのはダメだけれどもアゴにヒザが入れば場合によっては骨折もするというだけのことだ。

 

三回目だけれどもアゴに入れれらたのはダメなんだろうけれども4秒だろうと何秒だろうとアゴにヒザが入っただけのことだ。

 

四回目だがアゴに入れらたのは富田選手が悪いのだろうが出会いがしらみたいなものだ。

 

たぶんこの記事を書いたヤツはネットでちょっと見て「これがいいかな」とか思ってるんだろうな。

 

これはある種の「火事場泥棒」だ。

 

火事場泥棒 人々が混乱している時に利益を得ること、得るひと

 

プロマスコミもそうとうヒドいね。

ベタをちゃんとやりましょう ベタと技術

ベタの定義が必要だと思われるのでまずそれから。

 

「型どおり」だとか「見慣れた」だとか「ありふれた」という意味だとここではしておきます。

 

昨日始めてドラマ「過保護のカホコ」を観ました。

 

役名は知らないのですが高畑充希竹内涼真が大声で言い争っている場面があったのです。

 

美男美女の二人がケンカをしてい場面なのですが、私はこういう場面を久しぶりに観たと思いました。

 

こういう場面は「型どおりの場面だ」という意味でベタだといえるはずです。

 

物語でも本当に昔からある「型どおりの物語」があります。

 

「ベタベタの物語」です。

 

私が年を取ったからというだけの理由だとは思わないのですが。

 

本当に型どおりという意味でベタベタでなおかつクオリティが高い仕事に接したいのです。

 

批評性が高くなるとベタをバカにします。

 

こういう流れで話題に出していいものかどうか不明ですが古典落語とか時代劇とかにそういう要素が多分にあると思うのです。

 

二回目ですが型どおりという意味でベタベタなのだがクロリティが本当に高い仕事(それが映画でもドラマでも小説でも演劇でも)に触れたいのです。

 

これを成立させようと思うと技術が必要になるのですが。腕がないとベタは難しいのです。

なぜハッピーエンドじゃない物語があるのか コメント社会 事件のドーナツ化現象

映画や小説はハッピーエンドであってほしいというひとがいる。その気持ちもわかるのだが。

 

通俗小説と純文学の違いを人物像の違いで説明する。

 

一面的な人物像をフラットな人物像といい多面的な人物像をラウンドな人物像という。

 

フラットな人物像というのは「悪人」とか「善人」とか「立派なひと」とか「だらしないひと」ということだ。

 

ラウンドな人物像というのは「立派なところもあるし卑屈なこともずるいところもあるのだが親孝行でもあるしカネに汚くもあるし・・・」というようなことだ。

 

登場人物がフラットな人物像なら「あの悪人がイヤな目にあって善人は良い思いをしました」というようなハッピーエンドの物語を作れる。

 

だが登場人物がラウンドな人物像の場合は誰が悪人で誰が善人でという描き方ができないのだ。

 

そうするとよくわからない(いわゆる)勧善懲悪の物語は描けないし成功話だとしても、成功をする人物が結構イヤなところもあるということになるので、カッチリした物語が描きづらいのだ。

 

現実社会の人々は当然ラウンドな人物像なのだ。

 

純文学のほうが通俗小説よりも地位が高いということには理由がある。

 

ラウンドな人物像をつかって面白い物語を成立させるのは難しいからなのだ。

 

ただ「物語の群れ」が存在することがとても重要なのだ。

 

「物語の群れ」というのは種種雑多な物語たちという意味だ。

 

音楽で考えるとわかりやすいと思う。

 

バッハとベートーベンとスイングジャズと演歌とアイドルポップスとビートルズとエグザイルがたとえば存在しているような状況だ。

 

同じひとであってもバッハばかりを聴いていることはあまりないはずだ。

 

その時その時で聴く音楽が違っているのが普通なのだ。

 

物語も同様だ。

 

物語の群れからその時その時である物語を選ぶ状況が好ましいのだ。

 

これから後半です。

 

いろんな事件がおきます。それが事件報道であっても物語にしないと伝わらないはずです。

 

その法幢の物語があまりにもチープな場合が多いすぎるのです。

 

「このひとは良い人です。このひとは悪人です」のような。

 

そんなに世間がわかりやすいはずがないのです。

 

日本は相対的な社会ではあります。それはそうですが、ある事件に関するコメントが明らかに前のコメントを受けて方向性を変えているんだろうとしか思えない場合が多すぎるのです。

 

別に二次取材三次取材があってもいいのです。

 

でもシンプルにある件の渦中のひとに会いに行ってもいいし取材に行ってもいいと思うのです。

 

もうずいぶん前ですが古賀茂明さんが報道ステーションで(私は観ていませんが)"I'm not ABE"と書かれたモノを出して番組を降板しましたよね。今ググったら田中龍作氏はインタビューをしていたようです。しかも田中氏のセンスがよくて「田中龍作の取材活動支援基金」という名前で郵便局の口座番号が掲載されている。クラウドファウディングとかいわない感じが大好きな感じだ。

 

どういう事情でそうなるのか私には不明だが普通に一次取材すればいいのにと思う状況で、その件に関しての意見や感想が出ることがものすごい多いのだ。

 

ある事件に対する意見考え感想が一人歩きをし始めるのだ。

 

事件のドーナツ化現象というか。

 

結果いろんなテイストのコメントだけが残るような不思議な様相を呈している。

 

たとえば「あのひとは良い人だと思われているが実は」みたいなこともある。

 

でも事件とその事件に対するテレビ報道を見ていると「このひとは良い人なんだ」としか思えなくなっていることも多々あって、そのひとが批判されると腹が立つのだ。

 

そういう時の私は本当にやすっぽいドラマの視聴者でしかない。

 

そういう時事実私は「このひとは善人でこのひとは悪人だ」と普通に信じているのだ。

 

そしてハッピーエンドにしてほしいと願っている。

 

私がいうハッピエンドとは私が悪人だと決めつけているひとの致命的な破滅なのだ。

 

自分で自分が本当に残虐だと思う。

 

そういうこともあって報道(特にテレビ)は見ないようにしている。

 

自分の残虐さが自分で怖いのだ。

 

私はわかりやすいハッピーエンドは小説や映画で楽しむようにする。

複数OSの時代 限定的理性 限定的合理性

 

人間がすることには100%合理性がある。しかし多くの場合理性や合理性は「限定的な理性」であり「限定的な合理性」なのだ。

 

今の時代の特徴なのだがPCでいうプログラムやスマートフォンでいうアプリを開発したりアップデートすることでは対応できない。OSから作ることが必要なのだ。ウィンドウズやアンドロイドやiOSから作る必要があるのだ。

 

OSの上で成立する理性と合理性を「限定的理性」「限定的合理性」と呼ぶ。

 

たとえば私たちは日本という国に生きていて選挙に行き(いかないひともいるが)税金を納め学校や職場に行く。こういうことはとても当たり前だがいつの時代でも地域でも当たり前な訳ではないという意味で「限定的理性」「限定的合理性」に基づいている行為だ。

 

それでは甲子園(それも徳の甲子園)のOSはなんだろう。あるOSに基づいて高校球児たちは存在しているはずだ。そういう意味で彼らの存在にもやはり「限定的な理性」「限定的な合理性」があるはずだ。そしてそのOSは投票や納税や勤労義務教育のOSとは違うとしか思えない。

 

実際甲子園(特に夏の甲子園)を見ると私は本当に感動する。彼らの存在を支えるのは呪術的な多神教的な世界観というOSだと考えている。

 

そういうことを野蛮だという理由で軽蔑するひともいるだろうがアステカ文明で生贄を捧げていたし古代ギリシャでは剣闘士たちが殺し合いをしていた。私は生贄をささげることはもちろんだが剣闘士たちの殺し合いにも宗教的(呪術的)意味があったのだと考えている。

 

プロアスリートたちがあり得ないほどの高額の収入を手にしていてもそれを批判するひとはあまりいない。あれは彼らが多神教の神々のような存在(ということは人間ではない)ので基本的人権から逸脱した存在だということがおおくのひとには当然のことして認めているからなのだと考えるととてもわかりやすい。

 

理性的で合理性がある考えでは甲子園もオリンピックもサッカーやラグビーのW杯もめた方がいい。意味がないからだ。

 

だけれども今使った理性も合理性も「限定的な理性」で「限定的な合理性」なのだ。あるOS上の理性であり合理性だからだ。

 

議論や話し合いをする場合今の日本ではお互いがあまり自覚できないままに使っているOSがどんなものなのかという検証が必要なのだ。

 

誰かと話し合うときや何かを考えるときにはOSの検証からする必要がある時代なのだ。私たちが使っている理性や合理性は「限定的理性」であり「限定的合理性」であることがとても多いのだ。

 

それがわかってないと何がなんだかわからない事態になることがとても多いのだ。

論破とか言っている人たちはなにをいいたいの

あるひととSNSでつながっていたのですがSNSでのお付き合いをやめました。

 

彼がある感情的な言い争いに関して「どっちが勝った」と書いていたからです。

 

ただの感情的な言い争いですよ。ユーチューブにありますが。

 

あるいは「論破」という言葉もネット上にあります。

 

「論破」することに何の意味があるのでしょうか。

 

嫌味もあるのですが私はまったくわからないのです。

 

感情的なだけの言い争い、そのものに私は価値を感じません。

 

「そんなくだらないことはやめたほうがいい」としか思わないのです。

 

そういうものをわざわざみてジャッジすることは私に全然意味も価値も感じないことなのです。

 

ああいうのを見て「勝った」とかいっている人たちが、いったい何に意味や価値を感じているのでしょうか。

 

ホントウに私にはさっぱりわからないのです。

えらいつもりのジジイたちはもう働くのをやめた方がいいよ

ローカルの番組だったと思うのですがいったん定年退職した男性がまた働くとかいうことで取材をうけていました。

 

一言でいうと「エラそう」でした。

 

あのひとが10代とか20代の人々と同じ仲間としてやっていけるのなら働いてもらってもいいと思うのです。

 

でもそれは無理だと思いました。

 

「自分は年上だし、経験があるから、若い連中より偉いだ」という態度しか取れないひとだと思ったのです。

 

厳しいことをいうとそんなに自信があるのなら起業すればいいのです。

 

でもそれはしないのです。

 

でも若い連中と同じ扱いはイヤなのです。

 

家でおとなくしてれば。