昔「小沢昭一の小沢昭一的こころ」というラジオ番組があった。スクリプトは小沢昭一ではなかったが私は「オジサンってすごいな」と思って聞いていた。その時その時のはやりものをことごとく否定するのだ。
オヤジもオジサンも私は「はやりもの」が嫌いだと思っている。
でもある時代からオヤジは自信を失っている。「こういのが良いんだ」と言っても「そんなのダサイ」と言われてしまうのだ。そうなるとウカツに「自分はこういうのがいいんだよね」といえないのだ。
この歌は強力だった。
歌詞は森高千里本人だ。たぶん実体験があるのだろう。全然関係ないオヤジに唐突に話しかけられて「ロックンローンがわかってないとモグリといわれる。オレはストーンズを10回見に行った」と言われるのだ。
こういうひとは昔も今もいる。全然関係ないのに突然話しかけてきてひとを不愉快にさせる話を始めるのだ。
そういうことをされても「あなたとは関係ないですよ。とりあえず挨拶をして、親しくなって、それからそれなりの話をするのが筋でしょう」としか思えない。
オジサンが若い人(私は若くないが)に迎合しているように見せてはいるが偉そうにしたいのだ。
ある時に私は若いひとに同情した。あるオヤじが唐突にシュープリームスの話をし始めたオヤジがいたのだ。彼は「このひとは何をいっているんだろう」という顔をして聞いていたが。
ある時期の日本であればエグザイルやAKBはオヤジに無条件に否定される存在でしかなかった。
でも今は違うはずだ。無条件に否定はしないと思うのだ。
ある種の権利運動(たとえばLGBTの権利運動や#me too)は一面「はやりもの」だ。もちろん一面はだ。
そうなるとエグザイルやAKBを否定するエネルギーが一面はやりものであるLGBTの権利運動や#me tooを否定する動きへと向かってしまう。
そしてオヤジ保守が「伝統」というのは歴史的事実に基づいたものではなく「はやりものを否定したい」という精神性に基づいているのだ。