私は今(2017年)に53歳なのですが「結構おとなみたい」です。
いうと自慢話になるのですがたいていことには対応できるようになっているのです。今も私は問題を抱えていますが(たぶんではあるのですが)なんとかなるのでしょう。
ただそうなるためにはやはり実体験として一定程度の経験も必要だったのだろうし自分の中では「思い決断」を下す経験も必要だったのでしょうし「知識」も必要だったと考えています。
あれは40歳くらいの時なのですが「二日何も食べてない」という友達の世話をしたことがあります。私は「このひとの胃は空っぽだからいきなり重いものを食べると戻すかもしれない」と思ってそれなりの対応をしました。
とか彼にはずいぶんあっていませんが彼のお父さんが失敗して彼に家になくなるということが起きたので他に方法も思いつかなかったのでしばらく居候をしていてもらったこともあります。
彼らの状況はともにヒドイ状況だったのかもしれません。でもそもそも誰が不幸で誰がしあわせだと誰かに決める権利などないとも私は思うのです。
あるいは私の母が他界した次の年に年賀状をもらったこともあります。私はただ寒中見舞いを返しました。「この方はご存知なかったんだ」と思ったからです。
あるいは自分の個人的な話をしてもかまわないような状況の時に私が自分の話を始めると相手のひとが「わかる」といって相手の話を始めたので黙って聞いていたこともあります。
別のひとは「自分の自慢話」ばかりをするひとで私に話をするスキがなかったので黙ってそのひとの話をその場では聞いて「こういうひととはつきあえないな」と思ってそういう関係だと思っていたのですが別の場所でそのひとにあったらそのひとが懐かしそうに話しかけてきたので私はもうそのひとはひとの話は聞かないひとだとわかっていたのですが一応挨拶だけはしておきました。
こういうことを書くと「ストレスたまるでしょう」とあなたは思ったかもしれません。ストレスは事実長年溜まっています。
だけれどもいろんなことがあった(イヤなことも含めて)しそういう時にそれなりの対応ってどういうものなんだろうと考えながら対応して来た歴史が私を「おとな」にしてくれたようです。
ただイヤな言い方になりますがもう「面倒くさいことはたくさんです」。そういうことはもう十分してきたと思っていますし。
これからは楽しく暮らしていきますしつきあう相手も選ばせてもらいます。