(ほんとにどうでも良い話でスイマセン)
今「逃げ恥」を見入るんですが「引用」がモノスゴク多いのです。
映画「私をスキーに連れってて」とかNHKの選挙の時の放送とかエヴァンゲリオンとか(もちろんそういうものを知らないでも楽しめますが)。
これは明らかに「本歌取り」です。
パロディではないはずです。
これはウィキからのコピペですが新古今和歌集の特徴は「唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的」なのだといわれています。
だから新古今は評価というより「好き嫌いがわかれる」のです。
正岡子規は評価しなかったというより「嫌い」だったのだとしか思えません。もちろん正岡子規は「写生」を重視していたから相いれないものがあったのでしょうが。
逆に北原白秋は評価しています。
新古今にはある種の「退廃」があるのです。デカダンスというか。
嫌いなひとは当然嫌いなはずです。
(立派なブログが多いのに本当にすいません)
この発言のもとは大貫妙子さんなのすが「文化は腐ったもののなかから出てくるもの」なのです。
「腐ること」と「発酵すること」は同じ化学変化です。
ある種の豊かさや時間がないと「腐ること」も「発酵すること」もありません。
一方では「素朴であること」であることの「美」もあります。
たとえば丸太の木をノコギリで切ったようなアートもあります。そういう素朴で雄大な美もあるので。
でも一方には凝りまくった技巧を凝らしたガラス細工のような
「素朴さ」が好きなひともいるでしょう。
「素朴さ」や「純朴さ」と「文化的洗練」は相容れないものです。
今の日本は「文化的洗練」の時代なのでしょう。
今の日本で「分かりやすい男らしさ」はパロディとしてしか存在しえないはずです。
だから普通に筋トレできるのです。
「男らしさ」は今の日本ではそれだけで"too much"(やりすぎ)です。「男」であることで十分なのです。
80年代にはもはや「それまでの物語」が通用しなくなっています。それはアメリカでも同様です。
差別の問題があって私たちは観ることができないのですが西部劇の男性像が大きく揺らいでいたのです。
あるいは「父親像」も大きくゆらいでいます。
DVだけがこれだけ問題になるのも女性側の問題というより「男なるもの」の揺らぎが原因なのです。
失礼なのですが「逃げ恥」で「星野源なんかがなんでガッキーの相手役なの」と怒っていたのですが星野源さん演じる男性も他の男性像も「ただの男」で全然「男らしくないところが一番の魅力」なのです。
「逃げ恥」は原作も脚本も女性です。
ある時期は女性の男に対する要求は無茶だ(なんでもかんでもハラスメントですか)とかとも思っていたのですが、やっとニュートラルな状況に立ち至りつつあるようです。