世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

石原慎太郎さんは「かっこいいオジイチャン」だったことが災いしたと私は考えています

ゲイの世界では昔からノンケ(異性愛者)はわからないといわれています。

 

そこは詳しく書きませんが。

 

わかる部分もあるのです。男だろうと女だろうと「いつも気を張っているひとたち」がいます。

 

ある種の女性が結婚して離婚していますが離婚された元亭主には「なぜ離婚されたのかがわかっていない場合がある」のです。

 

今もレンタルで観ることができるはずですが「クレーマークレーマー」の映画があってこの映画の現代は「クレーマーVSクレーマー」です(これは小林信彦さんのコラムからの受け売りです)。

 

映画の方にはその描写はないのですが小林さんによれば原作にははっきり書いてあるそうなのです。ダスティンホフマン演じる男を元夫人が亭主に選んだ理由は「休みかったから」なのだそうです。

 

実際当たっているとは思います。「決断の数がそのひとを育てる」という言葉があるのです。それは本当に事実だとは思います。でも「決断」はつらくて厳しいのが普通です。

 

女性が「休みたい」というのは私の考えでは主に「頭の中のこと」であったはずです。

 

離婚をされた男は具体的なことはできていたのでしょうが元奥さんの「頭の中を楽にする」ことができなかった上に離婚という重大な決断まで奥さん一人に(そういうつもりが彼になかったとしても)させているのです。

 

だいたいそういう女性は働いている訳ですから「仕事のこと」「自分の身の回りのこと」をすでに考えて「疲れている」のです。

そして結婚したら「亭主のこと」も考えて子供ができたら「子供のこと」まで考えていているので「頭の中が疲れ果てている」のに亭主はまったくそのことに気がついていないのです。

 

二回目ですがそして離婚という重大な決断まで奥さん一人に押し付けているのです。そいう人たちの元奥さんの「感じ」と元亭主にはどこか「似ている」ところがあるのです。

 

元奥さんは「美人が多いのですが中身はそうとう男」で元亭主は「やさしくてかわいい」のです。

 

そういう男と女を私は何組が知っています。

 

男でも私もそうだったのですが「甘えるのが苦手な男」がゲイとかノンケ以前に「支配されてしまってまったく自分は考える必要がない。そして強制的に甘えさせてくれるひとが欲しい」と思って男に走ることがあるのです。

 

ここからが本題なのですが私は哲学科中退なので当時読んでもまったくわからかったのですがカントとかヘーゲルとかなんとなくは読んでいます。

 

そして若き日の私は「カントが(全然わかっていないのに)嫌いでヘーゲルは(やはり全然わかっていないのに)好きだった」のです。

 

その原因は私が父と葛藤があるひとだったことにあったのでしょう。

 

当時の私にとって「カントはいかめしいオジサンでヘーゲルはやさしいオジイチャンだった」からなのです。

 

それはアメリカのゲイがらみのウェブでの記述だったのですが「ストレート(のんけ異性愛者)ってなんでオールドマン(オジイチャン)が好きなんだろう」とタイトルがついていたのです。

 

ナチスに異常にゲイが多かったというのはそうとう事実だったと私は考えています。

 

父親との葛藤を抱えているひと(私もそうでしたが)がゲイに走るとか父親的と真逆なひと(そういうひとと性愛は結ばないにしても)に走ることがあるのです。

 

あるいは父親的な存在からワンクッション置いてオジイチャンみたいなひとを求める(性的な意味ではなくても)ということは事実あります。

 

ベースにある問題は「ファーザーコンプレックス」だと私は考えています。

 

男の場合のファーザーコンプレックスは「1、父親から認められたい 2、父親から虚勢される恐怖を抱える」であるはずです。

 

ファーザーコンプレックスを持っているひとが自分の実父を乗り越える存在に惹かれることがよくあります。

 

やっと本題に入るのですが石原慎太郎さんはあきらかに「カッコいいオジイチャン」でした。

 

ファーザーコンプレックスを抱えている男性が慎太郎さんにどこか惹かれていったという事象が事実私にはあったと私には思えるのです。(これは必ずしも性的な意味は含みませんが)

 

complexというのは劣等感のことではなく「いりくんで複雑化した精神のありようのこと」であったはずです。

 

こういう文脈では誰の名前も出せませんが私が書いていることはそんなに奇矯なことではないはずです。