世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

あなたの家は大丈夫です。 なぜなら「すべての家は壊れかけだから」吉本隆明さん 今なら日本の古典を読んでも良いのかも

「お茶の間」っていうでしょ。「お茶の間」っていうとすごく安定していて良い場所みたいじゃないですか。でも違いますよね。「お茶の間」は一触即発の危険でしかない場所です。子供の時はそこがわかっていなかったのです。ウチは途中で壊れてしまったのですが。「お茶の間」は危険だらけです。すべての家がそうです。

 

吉本隆明さんが戦後を代表する思想家です。今は娘さんの方が有名なのかもしれません。二人姉妹なのですが、お姉さんは漫画家のハルノ宵子さんで妹さんが小説家のよしもとばななさんです。

 

吉本さんのある種の励ましが、一言でいうと面白いです。内容は「君はダイジョブだよ。君の家は壊れかけでしょ。当然だよ。すべての家は壊れかけなんだから」なのです。

 

テレビにはそういう機能があって、テレビってツッコミながら観るでしょ。家族が向き合うと危険なんですよ。そういう人間関係が渦巻いているのが家だから。お互いが向き合わないでテレビを全員が観ている状況がある種安定した状況です。

 

「家」ってそんなものなんですよ。

 

ノスタルジーっていうでしょ。郷愁みたいなものです。そういう対象になりえます。だけれども実際はそんなにいいものではないです。

 

友達とそういう話をしていたことがあるんですよ。「昔のことって苦しかったことの方が良い思いでになる気がする」ってお互いに言っていました。

 

家がノスタルジーの対象になるというのはそういうことだと思うのです。「あれは苦しかったんだけれども、今となっては良い思い出だな」ということです。

 

どの時代もどの地域も同じだと思います。

 

シェークスピアの「リア王」ってあるんですが、これが親子の対立を描いた物語なんです。父親と娘との親子喧嘩のはてに父親が追い出されるような話なんですよ。でも近松の方がもっと新しいという説があります。

 

これはウィキのコピペなのですがシェークスピアイングランドののひとなので誕生日よりも洗礼日のようです。 「1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)」に生きた人です。近松門左衛門は「承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉」に生きた人です。二人の共通項は二人とも小説家ではないのです。芝居の台本を書くひとたちです。近松人形浄瑠璃が多いですね。歌舞伎もやっているのですが。近松といえば「心中もの」なのですが、これが当時あまりに人気で実際に心中する若い男女がいたらしく幕府がこまってしまって「心中という言葉はつかうな相対死ににしなさい」という命令をだしたくらいのものです。言葉狩りなのですが、実際に心中してしまう人たちがいるのですから江戸幕府も困り方はただごとではなかったはずです。

 

近松の方が確かに今に近いのです。でも近松門左衛門の新しさは独特なのです。「普通のひとを登場人物に据えたんです」。「リア王」は今読むと身につまされるひとが多数いると思うのですが、「王様」とかそういう人が登場人物なんです。

 

ファンタジーとかでリアルでしかないのだけれども設定が「魔法使い」とか「王家のひと」ってあるじゃないですか。ゲームにもそういう設定がありますよね。その方が結果リアルに描けることがあると思うんです。私はあんまり見ていないのですが、エロ漫画で、SFとかファンタジーの設定を使っている場合があるでしょ。ああいう設定の方が伝えやすい場合が多々あるんです。

 

池上彰さんと佐藤優さんの対談本を読んで「そういう事だった」と思ったんですが、

変体仮名」っていうひらがながあるんです。ひらがなって一つの音に今は一個ですよね。でも江戸時代までは複数のかな文字を当てはめていたんですよ。そこに私は萌えるのですが、学芸員の方で古い文献をすらすら読めるひとがいますよね。子供の頃からあれにものすごくあこがれていたんです。他界されたのですが中島梓こと栗本薫さんにもそれがあったようで同じ飛行機か何かで杉内日名子さんと隣どうしですわっていて杉内さんが黄表紙を読むのが「良い」と思っていたみたいです。「杉内日名子さんって黄表紙が詠めて素敵だ」みたいな。黄表紙って挿絵が大胆にはいった物語本みたいなものかな。黄表紙が訳がわからないといえば訳がわからない世界なんですよね。角川ソフィア文庫がこういうあたりを専門にしているようなのですので現代語訳して欲しいのですが。黄表紙って訳わからなくていいんですよ。そのポルノグラフィーってエロ本のことなんですが、江戸時代には春画とかあるんですよ。春画はポルログラフティですしエロ本といえばそうなんですが、基本「絵」です。ただエロの「絵」の域を超えているので意味があるんです。でもエロではあるのだから日本で春画博覧会が出来ない事情があったんです。そこの元総理が出てきたんです。細川護熙さんです。あの方が元総理で元大名屋敷を美術館にされているので、そこで春画展覧会を開いたんです。細川家は室町時代にはあったと思うのですが、細川護熙元総理は細川ガラシャとか細川幽斎とかの子孫なんです。あのかたはそういう血筋なんです。

池上彰さんと佐藤優さんの対談本で「日本人は日本の古典が読めてはまずい」という政治判断で変体仮名はやめたし、いろいろ当時の偉い人が日本語をかえているようなのです。

 

ホントに明治の日本人が黄表紙を読んだり、近松を読んだり、春画みてはいけないのです。最近までヌード論争みたいなものが日本ではあった訳ですから。ヌード論争の意味が若い方にはわからないと思うのですが、これは反権力闘争みたいな意味がありました。政府にをとなえるといった要素です。しょせんエロではないかと思われると想像しますが、反戦運動とかに近い意味があったのです。

 

でも明治とか大正とか昭和の日本の一般のひとに日本の古典を読まれてはまずいんです。源氏物語でも危ない要素がたくさん入っているんです。約1000年前の古典文学なのですが。

 

今(2016年)の日本人なら日本の古典を読んでも良いのでしょうが、長くそうはいかない事情があったのです。

 

性的な表現に関しても春画では具体的に性器が描かれているのです。それをある時期の日本人がみるのは違うでしょ。日本の当時のえらいひとはそういうことを考えて日本語を分断したんで明治以降の日本人にとって、江戸以前の日本の古典が我々には普通に読めなくなっています。

 

ただそこまでの力があるのは凸版印刷だと思うのですが、ITを使って古典を現代語訳する機械を開発したと思うんですよ。そうすると私にも日本の古典が読めるのです。私はうれしいのです。