ある局面で 「うらみをとく」
ちょっと張っておきますが、辺境ラジオのある場面です。
カミュの『反抗』(La Révolte)vs『怒り』(トラウマ) 西靖 内田樹 名越康文
「切れる年寄り」ってこういうことだろうと私は深く納得しました。
ちょっと個人的な話をするのですが、高校時代に私が体が「怒っていて」困っていました。
髪がそうとう今うすくなっていてイヤなのですが、高校時代に髪がうすく予兆があったんです。
「髪の毛が立つ」んですよ。
立たせたくはないのに「髪の毛が立って」しまって、困っていました。
19歳くらいの時にはやっぱり体が反応して困っていました。
寝る前は金属製の洗面器を枕元に置いて寝ていたのです。
理由は「いつ吐くかわからない状況だった」からです。
ただその時期は「吐きそう」だっただけで実際しょっちゅう嘔吐することはありませんでした。
30代くらいにはいると嘔吐がクセみたいになっていて困っていました。
お酒を覚えたての時にそういう経験があったひともいると思います。
せっかくおいしいものを食べたのに戻してしまうのがイヤだったような経験です。
「怒髪天をつく」というではないですか。
あれは本当で、高校時代の私がそれです。
あんまりイヤなことがあると「むかつく」とか「吐き気がする」のも事実です。
実際に「吐き気」で私は悩みましたし、「吐いていた」のですから。
創作物でもそうとう学ぶことが出来ます。
30歳くらいのときには明確に感じていました。
「今は頑張るときではない」と。
理由は「自分がうらんでいるから」です。
殺人事件がおきる物語で、別に悪いひとではないのだけれどもというひとが犯人だということがあります。
ネタバレになるので書けないのですが、カラ兄と省略されることもあるドストエススキーの「カラマーゾフの兄弟」でも殺人事件が起きます。
カラ兄は「文学」という以上に「古典」でしょう。
そこまでいかなくても一般のミステリーでもそういうことがあります。
物語を紡ぐひとや、そういう感性があるひとにはわかるのですが、
「このひとは別に悪いひとではないんだけれども、このひとが殺人レベルの凶悪犯罪を起こすというカタチでしか落とせない」ということがあります。
あるんですよ。
マイノリティが犯人というミステリがあるのも、物語の構成上、そうならざるを得ないのが物語に触れていて、物語に対する「感性」があるひとにはわかります。
そういうひとたちって「どこかうらんでいる」んですよ。
そういうカタチじゃない墓穴の掘り方もあります。
ある企業のトップになったひとが財界のひとから「なんだ、アイツ」と思われているという記事を読んで「わかる」と思いました。
昔ですよ。
その方は財界のパーティに行くときに取り巻きをつれてとても偉そうにしていたというのです。
ほかのかたからみると「このひとはなにを考えているだろう」と思われて当然のことです。
「うらみ」があるひとが頑張ると本人が自覚なく何らかのカタチで墓穴を掘ります。
本人が悪いとか、本人に非があるとか、そういうことではないです。
「うらむ」のには「うらむ」だけの理由があるから「うらんで」しまうのですから。
「うらむ」時期があっても良いと思います。
実際私だって「うらんでいた」時期があるのですから。
ただ「うらみ」を解けるのは本人だけなんですよ。
だからそこはそうとうハードなのですが、ある局面が来てからでいいんです。
今すぐである必要はまったくありません。
「うらみ」をときましょう。
もちろん難しいことです。
ただ「うらんでいる」と自覚なく墓穴を掘るから。
それはそういうシステムがどこかあるとしかいえません。
ある局面が来てからでいいです。
「いま」やる必要はまったくありません。
ただしつこいのですが、ある年齢とかある状況とか、そういうのが来ます。
そこで自分の「うらみ」を自分で「とく」んです。
誰かに手伝ってもらってもいいです。
ただ、それは「手伝い」です。
やるのは、あなたなのです。
思い当たったひとがいますよね。
今である必要はないです。
今じゃなくていいです。
ある時、ある場面で、そこはそうとう(私もそうでしたが)ひとさまや世間に迷惑をかけても良いところです、時間をそうとうかけてもいいです。
そこで「うらみをとく」んです。
損とか得とか良いとか悪いとか、それ以前というかそれ以上の問題です。
「うらみをとく」んです。