世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

さようなら 子供たち

そのひとはそうとう良いひとなのですが私はもうおつきあいはしないと思っています。

 

「子供」なんです。「幼稚だ」というか。

 

事実そういうひとであってもおつきあいをするひともいるのでしょうが今は正直そのひととはおつきあいはしたくありません。

 

前に橋本治さんが「自分は男の料理が嫌いだ」と書いていらしてその時にはその意味がわからなかったのですが彼の件で私も同意見になりました。

 

彼は料理に目覚めたらしいのです。そして何故かラーメンを作ったといっていました。

 

彼は「難しいとされているラーメンでできて」とかいっていたのです。

 

私は「ダシはなんで取ったんですか」と聞いたのかな。多分「鶏ガラ」だったと思うのですが。

 

私は彼にちょっとイライラしていたのでイヤミは言いました。

 

「飲食店では原価率はだいたい3割だと言われていて違うという話もありますけど」と。

 

すると彼は「そうするとあのラーメンは何千円だ」とかいっていたのです。

 

そんな「何千円もするラーメン」をするラーメンを食べるひとは普通いません。

 

ラーメンの麺で「手打ち」は普通ないので彼は麺は買っているはずです。

 

彼の腕ではチャーシューは作れないはずです。

 

ナルトも当然作れないはずです。

 

(私はやろうと思えばチャーシューとナルトは作れますが)

 

だいたい料理に目覚めて選んだメニューが「ラーメン」だったということじたい私にはわかりません。

 

鶏ガラのスープだって特別難しいものではありませんし。

 

彼の中では達成感があったらしいのですが私は完全にげんなりしていました。

 

彼の言動で私にはわからないことが多々あったのですが彼を「子供なんだ」と思ってみると筋が通るのです(というより子供がしていることなんだと思わないとはらわたが煮えくり返るのですが)。

 

私は「いい年をしたお子様とはもうおつきあいはしません」よ。

 

でもそういうのを「人徳」と呼ぶのかもしれませんがそういうひとであっても私が「このひとは許せるな」というひともいるのです。

「決断」と「自由」

あなたも「このひとっていい年して」と内心思っているひとがいますよね。

 

ここは私にも何ともいえませんが「だから許せない」というひとと「だけれども許せる」というひとに別れるのです。この違いは私は不明です。

 

ただこれはあくまでも私に経験上ですが「社会経験はどうやら見た目ではわからない」ようです。

 

事実いろいろな経験を積んでいてもそういう社会経験から学習できていないとしか思えないひともいますし社会から隔絶されたような環境に長くいたひとでも人間的に成熟しているひともいるのです。

 

この件に関する一つの解として「決断の数が実は違っていた」ということが考えられます。

 

「決断」は頭の中ですることですから「目には見えない」のです。

 

ある友人の件があるのですがそれはちょっと生生しい話ですし本人の了承を取っていないので書けませんが彼は一般社会から隔絶された環境でずいぶん長い間生活していたのですが「自分の中での決め事」をそうとう作っていたようです。

 

「自分の中での決め事」とはいえそれらを彼は「自分で作って自分で守っていた日々」がずいぶん長くもあったしその決め事の数もそうとうあったようです。

 

「自由」という言葉があります。

 

自由という言葉は「自ら(みずから)に由る(よる)」という意味です。

 

その彼は「自分の中で決め事をずいぶんたくさん作ってその決め事を自分で守っていた」という意味では「自ら(みずから)に由って(よって)いた」ともいえるのです。

 

彼が長く過ごした環境は正直いって素敵だとはいえない環境です。

 

そうなのですが彼はそういう環境の中にあったにも関わらず「自ら(みずから)に由って(よって)」つまり「自由」に暮らしていたともいえなくはありません。

 

違う視点からみれば(正直いって過酷な環境だとしても)「自ら(みずから)に由って(よって)決断をくだせる可能性あることは否定できない」といえます。

 

自由って言葉の意味の通りに「自ら(みずから)に由る(よる)」ものなのであって「誰かの自由を奪うこと」は不可能なようです。。

 

6:4で相手に勝たせるのが人間関係のコツ

もっと年と取れば考えが変わるのもしれませんし全ケースに当てはまる訳えではないのですが「6:4で向こうに勝たせる」の人間関係のコツです。

 

ひどい言い方ですが頭が悪い相手には使えませんが。

 

普通に接していて人間関係が構築できている場合なら向こうにも「このひとはオレに勝ちを譲ってるな」とわかるのです。

 

わかりやすい例が「話をする」「話を聴く」です。

 

「話をする」「話を聴く」なら「話をする」方が「勝ち」で「話を聴く」方が負けです。

 

頭が悪い人は(たとえばあなたが)そうとう意識的に(相手に勝ちを譲って)「話を聴いている」ことがわかりませんからこういう考えは通用しません。でも普通のひとならわかるのです。

 

そしてあなたも話を聴いている(つまり負けている)だけではツライので4割は話をします(つまり勝ちます)。

 

頭が悪いひとは(たとえばあなたが)「そうとう意図的に話を聴いていること」がわからないのでそういう場合は「このひとはそういうひとなんだ」と思って距離を置いた人間関係を取った方が良いでしょう。

 

私がいっているこの比率が「6:4で自分の方の勝ちが多くてもいいんじゃないか」とあなたは思ったかもしれません。

 

何故あえて「6:4で相手に勝たせなきゃいけないだろう」とか。

 

こういうことはそれほど極端ではありません。「ケンカしてしまう」ということがありますよね。

 

私自身経験があるのですが「6:4で向こうに勝たせる」ことの最大の意義はそういう場合にあります。

 

ある時にケンカをしたとします。当然お互い気まずいのです。

 

こういう時に五分五分の人間関係であったとするならばその後の人間関係のイニシアティブは五分五分です。

 

ですが「6:4であなたが向こうに勝たせている場合」はケンカしてしまった時の人間関係のイニシアティブを取るのはあなたの方なのです。

 

あなたの気まぐれで「仲直り」してもいいし「もうアイツはいいや」と思って縁を切ってもいいのです。

 

仲直りするにしても「どういうタイミングで仲直りするのかを選べる」のはあなたの方です。

 

だから「6:4で相手に勝たせるのが人間関係のコツ」なのです。

半知既(はんちき)は消えてくれ

方言なのでしょうか。「半知既(はんちき)」という言葉があります。

 

「半分既に(すでに)知っている状態やひと」が「半知既(はんちき)」なのですが。

 

おもえば私は高校生の時にはすでに「半知既(はんちき)」連中に苦しい思いをしていましした。

 

ネットが一般化して以降なのでしょうか「論破」という言葉が普通に使われているようですが。

 

「半知既(はんちき)」連中を普通に論破しようと思うと異常に高度な知識や論理を構成する能力が必要になるのです。

 

私は論破できた場合も事実ありましたがたいてい「このひとがいっていることって全然違うだけれども」であるとか「このひとは誰とかいう思想家の名前を出しているんだけれどもその思想家の考えがこのひとには全然わかってないし」と思いながら流してきました。

 

世間では気軽に「論破」とかいっているようですが日本は勝負を明解につけてその後「ノーサイド」というお国柄ではありませんから当時の私に「論破が可能だった」としても「この後のこのひととの人間関係に差し障りがでるしこのひとのプライドを自分がいたく傷つけるのもいかがなものなんだろう」とも思っていましたし。

 

当時の私に十分な知識や論理を構成する力がなかった場合もあるのですが。

 

これは釈徹宗さんが書いていたか内田樹さんとの対談でおっしゃっていたのですが日本の普通のカレンダーには「友引」とか「大吉」とか書いてありますよね。役所か何かが配ったカレンダーにも書いてあったらしのですが「これは政教分離の原則」に反しているのだというひとがいたらしいのです(そうとうあいまいな引用ですが)。

 

「私レベルでも論破が可能なほど愚かなクレーム」です。日本で『月曜とか火曜とかあってこの曜日は7個あるのですが、これはキリスト教ユダヤ教の聖書の教えに基づていて「神様が天地創造を始められて7日目に休まれた」という記述にもとづいています。あなたがそんなに宗教性が嫌いなのだとしたら曜日という概念も否定してください』という論破は私にも可能なのです。

 

私は基本「角を立てる」のが嫌いなのです。

 

(ここでは女呼ばわりしますが)ある職場である女性に"I don't know"というクセみたいなものがあったのです。それに関してある若い女が何故か私に「ネイティブ的には"I don't know"は違うんですよ。"I have no idea"なんですよ」と超偉そうにいっていました。

 

そういう場面で「私には英語圏出身のお前がいう英語のネイティブスピーカーの友達がいてそういう連中が"I have no idea"とかいうのは聞いたことないけど」とかいうと私がものすごくイヤなヤツになるでしょう。だから黙っていましたが。

 

ぺらぱら自分の知識をひけらかしている連中ほぼ半知既(はんちき)」だから。あなたは違いますよね。

 

あなたも思っていますよね「半知既(はんちき)連中頼むから消えてくれ」と。

 

私は子供のころから「論理的一過性」や「論理的整合性」がとても気になるひとだったのですよ。

グレー(灰色)の消滅と発生

これは「感覚的」な話です。

 

私は今(2017年)に50代なのですが私の「感覚」では日本社会で「グレー(灰色)の存在」がどんどん私には見えなくなってきています。

 

私は1963年生まれですから60年代にはその動きはもう出ていたはずです。

 

昔話としてする訳ではないのですが「この人ってどういう人で何やって食べているのか不明な人たち(すなわちグレーな人たち)」がある時期までの日本社会には普通にいたのです。

 

私は本当に日本語を総ルビにしてほしいのですがずっと名前が読めなかった笠原嘉(かさはらよしみ)先生と加賀乙彦先生の著作に「嫌われるのが怖い」という本があります。アマゾンのリンクを張っておきます。

 

 

嫌われるのが怖い―精神医学講義 (Lecture books)

嫌われるのが怖い―精神医学講義 (Lecture books)

 
嫌われるのが怖い―精神医学講義 (1982年)

嫌われるのが怖い―精神医学講義 (1982年)

 

 

私はこの本を若い頃にずいぶん読んでいます。この本に書いてある内容は本当に理にかなっているのです。ですが若き日の私にはその理にかなっている風にはどうしても思えなかったので「先生私を説得してください。先生がおっしゃっていることはどう考えても100%正しいのですが私にはどうしてもそう思えないんです」と思ったから何度も読んでいたのです。

 

結果私はこの本を影響を自覚なく受けているようで「土本さんはその言葉をしょちゅう使っています」といわれてある時に驚いたのをおぼえています。その言葉は「灰色」なのですが。

 

私の中でもう変化していますがこう一節があったのです。(たぶん当時灰色高官という言葉があったからなのでしょう)

 

『君たちは現実を見て「白」とか「黒」とかすぐ言いたがるでしょう。でも冷静に現実を見てごらんなさい。現実は「灰色」でしょ。君たちはそもそも「灰色」のものをつかまえて「白」とか「黒」とか思いたがるし言いたがっているんだよ。事実「灰色」でしょ。そもそも「白」でも「黒」でもないよ。「灰色」でしかないものをつかまえて君たが「白」とか「黒」とかつけたがるから君たちは苦しみもするし場合によっては病んでしまうんだよ。そもそも「灰色」でしかないんだから「灰色」だって認めなさい』

 

私の中でずいぶん変化してしまっているはずので多分元の文章ではこうではありません。

 

場合によっては「白黒つける必要もあります」。それはそうです。

 

私の感覚でいうと日本の中のグレー(灰色)がどんどん薄れていくとともに「ブラック(黒)が増えています。

 

日本の中で普通に違法行為が行われています。女性が体を売るのは日本では明らかに違法であるはずなのですが普通に行われていますしパチンコ店も賭博である訳ですから本来違法でしかないのですが普通に営業しています。

 

あるいは暴力団なる存在はそもそもどういう風にとらえて良いのかが私にはまったく不明です。

 

多くの国で反マフィアという動きがあります。暴力団がマフィアなのだとするとある種の国(それもそうとう多くの国々)ではそのひとが何の罪もおかしていなくてもその人は「マフィアなのだ」と認定されただけで無条件に投獄しているはずなのです。

 

私たちの認知認識が先だったのかもしれません。あるいは「思想」が。

 

『日本には「白」と「黒」しか存在しない』という思想がある時に日本人にとって自明になってしまった可能性があるのです。

 

「嫌われるのが怖い」に書いてあるように「これは誤謬でしかない」のです。

 

それを「白」ととらえても「黒」ととらえてもともに間違えです。

 

答えは「灰色」なのですから。

 

ただ物事は極までいって反転するものです。

 

(これも感覚的な話でしかありませんが)日本国中が「白」と「黒」に分離した瞬間に全部「灰色」になるという(これは本来健康健全な状態です)可能性があります。

 

「保守」と「リベラル」の訳の分からない対立もそういう読解も可能ですね。

私も国家公務員にしてください 国はcrazyな人やばいいひとを飼うべきです

私は好きでそうしている訳ではなくどこか一般社会から逸脱しています。悪いいえば「危なかったしいひと」です。

 

そういう人たちはどういう時代であってもどういう地域であっても一定程度はいます。

 

そういうひとは(現代日本でいえば)「国が飼う」のです。

 

「国が飼う」と結果国家公務員になります。

 

お二人の説が当たっているのかどうかは不明です。一応アマゾンのリンクを張っておきます。

 

資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか (NHK出版新書)

資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか (NHK出版新書)

 

 

水野和夫さんは経済学者なのですが「日本経済には成長はない」という論者です。その理由は「もうフロンティアがないから」なのです。あまりにもザックリした説明なのですが。

 

私は経済学の門外漢なのですがやはりアマゾンのリンクを張っておきますが菅原晃さんの考えが100%正しいとは思いませんが。

 

高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学

高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学

 

 

ただ菅原さんの本で私は「デビットリカード」の存在を知りましたし日本だけではないのでしょうが日本も含めた国々で普通に今信じられていることに多く間違えが含まれていることも知りました。

 

その話は稿を改めますが。

 

社会学者の大澤真幸(おおさわまさち)さんがこの対談本の中で「桐島部活やめるってよ」という小説と映画の話をされていたのです。

 

こちらも私は未見なのですが大ヒットした「シン・ゴジラ」のざっくりとしたあらすじは一応私は知っているのです。

 

「桐島部活やめるってよ」と「シン・ゴジラ」には同じ話だといえる部分があります。

 

「桐島部活やめるってよ」はいわば「学園に危機が発生する」のです「シン・ゴジラ」は「日本に危機が発生する」のです。

 

「危機が発生する」というところが同じです。

 

でもその「危機状況」を救うのは誰なのでしょうか。

 

これも共通しています。

 

「こんなヤツいたって意味ないよね。むしろ邪魔だよね」くらいに思われてたひと(あるいは人たち)なのです。

 

私も悪く転べば凶悪犯罪をおかしかない要素はあります(もちろん個人史であってもイフはありませんし今の私にそういう経歴はないのですが)。

 

私がITが若干好きだからわかるのですが一流企業がネット上で危機管理を試みても「ITが大好きなひと」ならその企業(あるいは国の)セキュリティを破ることができますしある種のITが好きなひとにはそういうことは娯楽なのです。

 

お国柄があると思うのですが日本の場合は日本全体のリスクヘッジを考える上では「そうとう危ないよね」というひとを公務員にするのはそうとう言いリスクヘッジの方法です。

 

もちろんそのひと(たとえば私)は死ぬまで役に立たないのかもしれません。でもそのひとを国家公務員にすればその「危なっかしいひと」が凶悪犯罪を起こす可能性が低くなります。

 

そして昔からそうなのですがマッドサイエンティストが山のようにいて一人の優秀なひとが成果を出すのです。

 

日本ではもっと「投資」を「ひと」に(それは主に)民間の一人一人がするようにもっていく必要があります。

 

ただこっちはクラウドファンディングのカタチで徐々にカタチが見えはじめています。

 

今の日本で一番欠けているのは「投資家」です。

 

そういうことで雇用も税金もまかなえるですから純粋に数字だけとってもペイすると私は踏んでいますがたとえば日本でビル・ゲイツやスティーブン・ジョブズが3,4人表れてくれることの経済効果は計り知れないのです。

 

ああいうひとたちは場合によっては平均的な国の国家予算くらいは稼ぎますから。

 

今現にアマゾンが第二本社を作る都市をアメリカで探しています。

 

あの方は立派な方ですが山中伸弥さんを一人生むためには膨大な失礼なのですがモノにならなかった学者が必要なのです。

 

文系は違うという話があると思います。

 

あるいは芸術系は違うであるとか。

 

でも今の時代では文系とか理工学系とか芸術系とかそういうジャンルが壊れてきているのです。

 

さっきあげた本でも社会学者と経済学者が対談していますし。

 

天才だったのかどうか私にはわかりませんが岡本太郎さんはそうとうの変人であったということはおそらく事実です。

 

これは本居宣長の「神」の定義を今の若者言葉に私が勝手になおしているだけなのですがこの本居宣長がなしている日本語でいう「神の定義」が私が知っている中で一番適格だと思える定義なのです。

 

『日本語でいう「神」と「やばい」存在だ』と本居宣長が書いているのです。

 

良いとか悪いとかそういう問題ではないのだとのが本居宣長の考えです。

 

こういうことを書くのはイヤミなのですが私に小銭が入ったら白川静先生の「字通」が欲しいのです。

 

白川先生は当然日本人ですがここ300年くらいのレンジで観てもNo.1の漢字学者です。白川先生は人格もご円満だったのでしょうが。白川静を一人を生むためにはモノにならなかった学者が死ぬほど必要だったのです(それは本居宣長であっても同様です)

 

だから純粋に経済効果だけを考えてもcrazyなヤバイひとを国が買う(それは今の日本では国家公務員にする)ということは十分ペイするはずですしとてもいいリスクヘッジなのです。

 

ああいうことにはなったのですが当時さすがだと思っていたのです。あるプロ野球選手(かもしくはこれからプロ野球に入るはずだったひと)が性犯罪を犯したのです。当時清原さんが「そういうヤツをプロ野球の世界にいれるべきだ」といっていたのです。

 

そういう扱いはイヤなんだという方もいるとは思いますが芸能界も「あなた大丈夫ですか」というひとがそうとういるのが筋の世界です。

 

ある種のヤバイcrazyなひとでアスリートも芸能人も違うというひとは国家公務員にする(つまり国が飼う)のが筋です。

 

二回目ですが純粋に経済効果だけを考えても十分ペイするはずです。

これは「傾向」の話ですよ 私は運命論者ではないから 占いの捉え方

ある時に知人の息子さん二人と同席したことがあったのですが私はその時に驚きました。

 

そこは男兄弟二人だったのですがそこの弟と(初対面の上で年齢もずいぶん違うのに)急にお互い話し始めてずっとなんやなんや話しを続けていたのです。

 

私も次男坊なので「生育環境ってあるんだな」とその時に思ったのです。

 

ただこういう議論はいつの世にもあるのですが(そんな事実はないのですが)「次男は優秀だ」というひとがいたとします。

 

この説には問題があります。

 

「それじゃあ長男に生まれたひとは生まれつき無能にしかならない」ということを暗にいっているからです。

 

私は「自分は運命論者ではない」と書いています。

 

次男は優秀だ」(つまり長男に生まれたら無能なんだ)という説(あるいは発言)「運命論」です。

 

優秀な占い師の皆さんはそういうことがわかっているはずです。

 

「これは傾向にしかすぎない」のだが「この傾向には一定程度の精度がある」ということがわかっているはずです。

 

この話は生命の実相という私が若い頃にずいぶん読んだ本からの孫引きでそういう知識があるひとが細木和子さんの番組を面白がってみていたのを覚えています。

 

昔の中国の話だったと思うのですがあるひとが子供のころに占ってもらってその占いが全部あたっていたそうなのです。そしてそのひとは自分は占いの通りに死ぬとも思っていたらしいのです。

 

そのひとの精神のありようは現代人へのヒントにもなります。現代日本社会は「死を隠蔽している社会」ですから。

 

人間で死なないひとはいないのですが「ひとは死ぬ」という本来当然のことを日本社会全体が「考えないようにしている社会」ですから。

 

あるお坊さんがそのひとの様子から「このひとの精神性はとても深い」と思っていろいろ聞いていたら「占いが全部当たっているから」という答えが来たので納得して「あなたの心持ちが変化すれば占いは外れていきます」といったというのです。

 

ある種の占いは統計学なので事実「傾向」はつかめるはずです。

 

でもそれはあくまで「傾向」です。

 

運命に100%の意味を持つと考えると「個人の努力に意味はない」という結論にしか達することができないのです。

 

ある才能あふれるひとを私は知っているのですがそのひとは才能を開花させることができませんでした。そのひとには明らかに「もって生まれた才能があった」のですが。

 

「占い」には一定程度の精度はあります。ですが当然100%の精度ではありません。