今テレビはボクシング界の騒動でおおわれています。ああいう話題でテレビがおおわれることにまともなひとであれば批判的になります。それは当然です。
ですがあの騒動から私たちが読解できるものがあるのです。
バチは当たるのか
名前は出しませんがコメンテーターの中に法的にも道義上も問題があるとしか思えない発言を繰り返している人たちがいます。そういう人たちが右だとか左だとかそういうことではないのです。ただ面白くて刺激的なことを言いたいがためにそうなっているようなのです。
こういうことで社会的不正に対する自分の立場が問われます。
社会的不正に対しては
1、自分で動く
2、バチが当たるのを待つ
という二つの選択肢があります。2のバチが当たるのを待つというのは不合理なようです。でも実は多くのひとがやっているはずです。
そしてボクシング界の騒動では悪いはずのことをしている人たちにはずっとバチは当たっていなかったのです。
バチは当たるものです。よくメディアに汚いことをしてはいるが大金を手にしている人たちが登場します。もちろん大金をもっていることはとてもうらやましいです。ですがああいうポジションには立ちたくないのが普通です(私はああいうポジションには立ちたくありません)。ああいう人たちは自分の命を削る対価として大金や権力を手にしているのです。実際そういう人たちは全員どこか疲れていてどこか苦しそうです。法的な処罰を受けるであるとか社会的に破滅するということではなく命をお金や権力に変えていることがバチが当たっているということです。
社会変革の勉強
ある時期以降の日本で勉強に値打ちが出ています。
ボクシング界の騒動に関して「対応が遅い」という発言がありました。明らかにおかしなことが行われていたのを大人たちは知っていたのだし学生諸君もかかわっていることでもあるしもっと前にどうにかすべきだったという意味です。
そういうことをいう人たちは世間のことを知らないのです。
日本中でボクシング界みたいなことはいくらでもあります。そしていくらこっちに分があるとしても普通は負けるのです。
こういう戦いについてはタイミングを読むことがとても重要になります。
タイミングを読んで数限りないネゴシエーションをすることで
しか勝ち目はないのです。
そういうことでいうと未見ですが映画「リンカーン」が参考になるはずです。
あるいはチェ・ゲバラも。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
「トラベリング・ウィズ・ゲバラ」
「美貌の青空~チェ・ゲバラ、魂の錬金術」
グレートリセットは存在しない
ただグレートリセット(何もかもチャラにする、何もかもチャラになる)はそもそも存在しません。苦しい状況に陥るとグレートリセットを求めるのは人情です。
でもそれが革命であれ維新であれ戦争であれ大規模変革は最悪の選択肢です。当然グレートリセットではないのです。
日本史上でいうと日本が明治維新を経てやがてWW2大東和戦争への道へ向かったことの一つの理由が明治維新にあります。
明治維新では勝ち組と負け組がいます。(私は熊本のひとで熊本はどちらかというと勝ち組です。でも熊本の中の勝ち組は東京に行ったはずです。明治維新勝ち組藩で地元に残っている人たちはざっくりいうと負け組です。佐賀、山口、高知、鹿児島の明治維新勝ち組の4つの県が正直冴えないのは似たような事情があるからと思っています。似たような構造が国会議員あるようです。国会議員は子供を教育環境がいい東京で育てたがるのです。だから二世議員三世議員の多くはは東京生まれの東京育ちなのです。そして東京以外の地域のから出馬するという奇妙な状況があるのです)
明治に入って明治維新勝ち組が権利を握ります。そこからはじかれた人々の怨嗟とはじかれてなお優秀な人々には軍人になることでしか出世できない構造があったことが戦争への道を作ったともいえるのです。(ここは勝手に調べてくださ)だからもとをただせば明治維新の歪みがWW2への道につながっていたといえるのです。
私が言いたいのは「大規模変化はあまりにも傷が深くなるという意味で最悪の選択だ」ということです。
若い人たちが大規模変化を求めるのは当然です。でも年寄りにはそれをいさめる仕事があります。
今なら面白いと思うのですが毛沢東やレーニンも重要です。
赤い星は如何にして昇ったか――知られざる毛沢東の初期イメージ (京大人文研東方学叢書)
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私が言っているのは左翼革命の教材という意味ではなく社会変革の教材という意味です。
姿は似せがたく意は似せやすし
コラムニストの中野翠さんは編集者をされていた時期があります。ある件に対するコメントを「このひとがふさわしい」と思うひとに連絡を取って頼むと断られるのでコメントをしてもらうのが本当に大変だったと昔書かれていました。
ある件に対する知識があるひとにはその件のコメントがヒドク難しくなるのです。
するとコメントするひとは知識がないひとばかりになります。
結果ワイドショーはド素人の世間話になってしまうのです。
知識人intelligentsiaのほとんどが硬直した発想しか持てない時期があったのです。
このことも問題です。
そして発言では発言内容コンテンツよりも「言い方」「書き方」が大事です。
結果「言い方」「書き方」は面白いが「中身」「コンテンツ」に問題があるものがあふれています。
これが面白いところです。
「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」と本居宣長が書いているのです。
逆だというひともいるでしょう。
でもそのひとそのものは本人の意図とは無関係にカタチになるのです。それが本居宣長がいう姿です。意にはカタチがないからとりつくろえるのです。
テレビにはそういう特性があるはずです。「いい人」とか「イヤなヤツ」とかわかるのです。「このひとは嘘をいっている」こともわかるはずです。
カタチ(姿)になっているから。
これをわかりやすく書くと「自分は日本を愛している」といっているひとが事実日本を愛しているかどうかをそのひとの言動から読み解けます。
日本は恥の文化です。そのひとが恥知らずなことを日常的にしていたら(そういう姿に日常的になっていたら)そのひとは日本を愛していないひとでしかないのです。
そういうひとがいくら大声を出しても屁理屈をこねてもそうです。
もっと簡単な例です。「そのひとがハンバーガーを食べている」という「姿」は「そのひとはハンバーガーが好き」だということを伝えるのです。
だから(本人たちは気づいていないようですが)「ハンバーガーを食べている姿」をメィデアに散々さらして「自分は茶漬けが好きだ」といいつのっている人々がたくさんいます。それは嘘です。
凡庸な悪
NHKラジオで貧困当事者の若い女性が役所の対応がひどかったと発言していた時に同席していたひとが「役所の担当者がそんなに悪いものだとは思えない」という趣旨の発言をしていました。
デジタル大辞林からです。この解説は素晴らしいのです。
凡庸な悪(ハンナ・アーレント)
第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる、という考え方
私もいろんな場面でおかしくなっています。私自身が「凡庸な悪」になっているのです。
「仕事を首になってもいい」と思ってもなお「凡庸な悪」を演じていることがあります。
こう書くと性差別のようですが傾向として女性の方が「凡庸な悪」に反旗をひるがえす感性があるようです。
即座に「それは違う」と言える瞬発力があるのです。
自分がそうなるからわかるのですが役所の担当者も「凡庸な悪」に侵されるとひどいことをしてしまうのです。そういう人たちは基本良い人たちです。
ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)
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ボクシング界の騒動で悪人だと思われている人たちも当然「凡庸な悪」という意味で結構いい人たちであるはずです。
オルタナティブ(既存のものにとって変わるもの)
ディスる(悪口をいう)のは今のトレンド(傾向)から外れています。それは倫理のも代でもあります。でもそれだけではなく既存の存在とはあまり関わりを持たないで勝手にやることに意味や意義や可能性がある時代になったという理由もあるのです。
今の日本人がマスコミに不満があるのならオルタナティブアルタナティブを作れる可能性があるし、自民党に不満があるのならオルタナティブ自民党(昔の新自由クラブです。あの時は違っていたのですが)の可能性があるし、ボクシング界に問題があるのならオルタナティブ日本ボクシング界を作ることに可能性がある時代が今なのです。
今の日本そのものに深い不満があるとしても革命や維新ような選択をする必要はかならずしもなく既存のエスタブリッシュメントした日本とは無関係に新しい日本を作っていける可能性がある時代なのです。