世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

死が隠ぺいされた社会 写真家・幡野広志 哲学者・池田晶子、陸田真志

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ぼくを葬る [DVD]

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いつからか日本で死が隠ぺいされています。私は事実自衛官の方がPTSDでなくなっている可能性があると考えています。そういう事実があるなら戦死扱いにするのが礼儀だと思うのですが、そうなっていません。

 

65歳以上になると部屋が借りずらいといわれています。答えは明白です。なくなったらどうしようと大家や不動産管理会社が思っているからです。でももし亡くなったらも最低限のことだけをするような契約や話し合いをしておけばいいだけです。

 

ぼくを葬る」はフランス映画です。冒頭だけストーリーを紹介します。主人公はゲイのフォトグラファ-です。彼が末期がんを宣告されます。

 

 

お葬式<Blu-ray>

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おくりびと [DVD]

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幡野広志さんという写真家を私は信頼しています。一面識もないのですが。

 

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幡野さんの軌跡を考えてみると運命とかそういうものがあるようにも思えるのです。

 

伊丹十三監督「お葬式」を観たときに「なんでこの映画はやたらと濡れ場が多いんだろう」と思いました。その頃は私もまだ若かったですしわからなかったのです。滝田洋二郎監督「おくりびと」を見て「死を感じる感性と性的な感性ってつながっているだ」と納得しました。映画「ぼくを葬る」でもやっぱり性の描写や話題がとても多いのです。

 

幡野さんはどこか一貫して「死を感じる仕事」を選んでいるように思えるのです。幡野さんは樹海で自殺にまつわる写真も撮っています。でもイヤな感じを私はうけません。イヤな感じになるひともいます。

 

自殺者が性的なことをしたんだろうと思わせることが実際あるようです。事実死と性はどこかリンクしているようです。

 

私は昔の田舎の育ちなので鶏は今でも絞められると思うのです。豚やヤギや牛は勉強しないとできません。鹿とイノシシも勉強しないと無理です。

 

こういうことを書くと残酷だというひともいるかもしれません。でもそういう人たちは必ずしもベジタリアンではないはずです。肉を日常的においしいとかまずいとか言って食べておいて、こういう話をすると残酷だというひとが多数いるはずです。

 

幡野さんの死に対する感性みたいなものがとてもニュートラルに私には思えるのです。いろいろ悩んだ末のことではあるのでょうが。

 

現代日本のインテリ界の長老養老孟司は解剖学者です。日常的に死体に接っする仕事だったのです。

 

私は今は死体に普通に接することができる気がします。祖父の死が大きかったのです。通夜があって葬式もあったのですが問題はそのあとです。祖父はタバコが好きでピースを吸っていました。当時住んでいた家には仏壇があったのでピースをお供えしていたのです。その後なんとなく祖父を思い出すとピースを買ってみたりします。

 

死体をとっている写真家がいるようです。名前は知りません。彼の感覚は私はカンに触ります。好きじゃないんです。

 

そのひとには死に対してときのふるまいの様式のようなものがないとしか思えないのです。気持ちは大事です。でも場合によってはそれ以上にふるまいの様式の方が大事なのです。

 

養老先生がある本で解剖学の学生が花を供えているのを見て「いいな」と思ったと話を書いていました。

 

 

おひとりさまの老後 (文春文庫)

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上野千鶴子の「おひろちさまの老後」が話題になりました。私は口あんぐりでした。誰もが死にます。だから死に方を考えるのは結構です。

 

たとえば上野千鶴子が死んだあとには残された人が発生します。上野には残されたひとにとっての死という観点がないのです。

 

たとえばお墓という存在があります。墓参りするひともいます。墓参りをするひとは残された人たちです。通夜を上げるのも葬式に出席するのも何回忌をやるのも残された人たちなのです。

 

死にゆくひとの気持ちも大事ですが残されたひとはどう考えてどういう風にするのかということを考えるのは当然だと私は思うのですが。

 

映画「僕を葬る」の話に戻りますが、彼は生きている間に自分がすべきことをするのです。上野は消えていくように死ぬイメージのようですが。彼は恋人をどうしたらいいのか、不仲であり続けたひととはどうすればいいのかと考えて行動を起こして良くのです。

 

その映画のシチュエーションではありませんが子供が小さいような考えることもあるはずです。

 

上野千鶴子が平気で「おひとりさま」といえることは彼女の思索が異常に薄く浅いことを意味しています。社会学だからこの程度でいいという言い訳は通らないと思うが。

 

池田晶子さんが亡くなったなあと思って池田さんの本を何冊か読んでいたのですが「死と生きる・獄中哲学対話」(池田晶子陸田真志)を初めて読みました。

 

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

 

 

陸田真志さんはひとを殺した死刑囚で哲学思索に到達しています。池田晶子さんとの往復書簡をまとめたのがこの本です。

 

読んだはずの文章でも読めていないことはよくあります。「無敵のソクラテス」の中で

 

無敵のソクラテス

無敵のソクラテス

 

 大江健三郎氏のノーベル文学賞受賞スピーチについて池田さんが解説しています。

 

ソクラテスが言っているのですが書いているのは池田晶子さんです。これを読んで「大江先生のスピーチってこんなにいいものだったんだ」と思ったのです。マスコミはあてになりません。

 

虚無的にしか思えないと日々に苦しみがあるので「慰め」のようなものがほしくなるのです。無意味に慰めがほしいわけではないのです。

 

でも陸田真志さんは死を恐れていないのです。ある種の突き抜けがあるのです。池田晶子さんが亡くなった後に出た本を読んでいたころには私にも余裕があったようです。「これって発表するとかしないとか無関係に池田さんは書いてたんだ」と思ってちょっとニヤっとしていましたから。

 

今は正直ちょっと苦しいのです。