世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

80年代アイドルを説明します① 松田聖子さん 超まどろっこしいのですが

松田聖子さんのデビューは1980年です。聖子さんと少し重なって山口百恵さんが引退されました。

 

山口百恵さんにはどこか哀感のようなものがあって、そこが百恵さんの魅力の一つだったのでしょう。この哀感のようなものは今年再スタートを切った宇多田ヒカルさんが意外にも引きついでいます。この「哀感のようなもの」をもっているからどうかが芸能人にとってはとても重要なのです。

 

松田聖子さんには、私がいう「哀感」がありません。そこが聖子さんの、おそらく一番の魅力です。声もかわいくて、硬くて、どちらかといえば太いです。ある時期以降は話声もしゃがれていましたし。ある種のしゃがれた声は、百恵さんも同様でした。百恵さんの声は低くてしゃがれた声です。大歌手ですが美空ひばりさんの声はどこか濡れていて太くでやわらかい声です。そしてどこか「哀感」が存在するのです。同世代の越路吹雪さんはもっと乾いた声でした。この言葉や概念はとても難しいのですが、「乾いた」感じはどこか「ポップ」です。そういう意味で越路吹雪はポップ(これはポップスという意味ではありません)の先駆けと言えるのでしょう。江利チエミさんの声もやはりどこか乾いていてしゃがれていましたし。江利チエミさんもどこか「ポップ」だったのだと思うのです。雪村いづみさんは声が高いのです。もちろん雪村いづみさんも大歌手なのですが、雪村いづみさんが長い芸能生活の中でどこかメインストリームにいないことはその声と関連していると私は考えています。いづみさんがメインストリームに存在していなく、なおかつアメリカの音楽の影響を強く受けた歌い手であることが私も含めた多くのひとにはとても魅力的なのですが。日本の女性の大歌手はたいていアルト(低い声)なのです。これが中国になると違うようです。中国の方は地声の高いところを丸く出すことが出来るひと(女性歌手)を好むようです。そこを体現していたのがテレサ・テンさんです。テレラ・テンさんは地声の高いところを丸く歌うのがとてもうまい方です。これは「声」の話です。

 

美人論をおこなうつもりはありませんが、テレサテンさんの顔立ちは中国(どこからどこまでが中国なのか私にはわかりませんが)のかたにとっては美人そのものだったはずです。日本人の私にはかわいい方だということでしかないのですが、中国のかたにとっては「あんなに美人で地声の高いところが丸く歌える女性はいない」くらいの魅力があったはずです。どういう顔立ちが美しいのかということは男性女性を問わずに難しいものですし、その事に関する共通了解が存在する状況は必ずしも一般的なものではありません。当然ですが、ヨーロピアンのかたの顔立ちとアフリカンのかたの顔立ちと東洋人の顔だちはまったく違いますし、その中である地域や仲間で「(男性、女性を問わず)こういう顔立ちが美しいものだ」という共通了解が存在するとはいえないからです。

 

あなたが普通に街を歩いていて、(男性、女性を問わず)「この顔立ちはキレイだな」と思っていて、別のひとにすれば「キレイではないとして思えない」ことは普通にあることです。体形がそうです。女性が思っている美しい体形は、ほとんど場合男性にすれば痩せすぎているのです。その違いのどちらに有効性があるであるとかそういうことを問題にしている訳ではありません。「違い(差異)」が存在するのが普通だということを言いたいのです。美人論が混乱してしまうのは、こういう「違い(差異)」があることをおおくの場合に「問題」にしていないからです。女性の顔立ちを問題する場合に書き手や、そもそもその女性が美しいかどうかをジャッジしているひとの「主観」に左右されるものだからです。もちろんそれは「主観」なのではなくて「絶対性のある美なのだ」という反論はありえますし、否定もしません。事実「黄金分割」なるものが存在するのですから。「黄金分割」というのは顔だちでいえば顔のある部分とある部分とある部分を分けた場合にその比率がある絶対値になった場合に私たちが「美しい」と感じるという考え方に基づいているものです。「黄金分割」はありうるのかどうかは私にはまだ不明です。これは、たとえば脳科学や物理学や種々の学目領域の専門家があつまって専門的な研究や議論を重ねないと結論はおそらく出ないと思われるからです。ここで問題にしているのは「美」です。何を人間が「美しい」と感じるのかという議論は古代から存在していて今でも結論が出ていません。それが「美しい」のかどうかジャッジするのはもちろん人間です。動物の求愛行動があるのですが、求愛行動における「声」や「姿」に、「人間存在と無関係に『美』(あるいはそれに類する魅力)」が存在するのならば、それは「人間存在とは無関係に『美』(あるいはそれに類する魅力)」が存在することになります。そこは「美」に関する議論をする場合に踏まえておかなければならないところです。人間存在とは無関係に「美」が存在していて、その「美」は全人類にも動物にも虫にも共通して「美」でありうるのか、それとも「美」は人間存在とのかかわりの中でしか存在しないのかという部分を抑えておく必要性があるのです。ここは私には言及不可能です。でも面白い問題です。興味深いというべきなのかもしれません。

 

若干変わってきていますが、私の人間の「美」の基準は大幅にハリウッド映画の影響を受けているはずです。私は当然東洋人ですし、日本人です。ですがヨーロピアンのかたの顔が、その顔立ちが美しいかどうかの「基準」になっているはずなのです。男性・女性をとわずモデルの方の顔を「私は美しいと感じます」が、日本人のモデルであったとしても、そういう顔はどこかヨーロピアンの顔立ちをふくんでいる場合が多いのです。東出昌大さんの顔が日本人顔ですよね。東出昌大さんに日本で人気があるという現象はそういう「美」の共通了解を考える上ではとても興味深いと私は考えています。

 

女性に関してもある女優さんが好きな友達が「ああいうひとが近所にしてくれればそれだけでうれしいのに」と言っています。その方は「日本人顔」です。目が切れ長ですし。

 

この問題に関しては私自身がいわば「当事者」で私の「美」の基準にある共通了解がある、つまり何らかの影響やバイアス(歪みのようなもの)があった上での、「私にとっての『美』なのである」ということが存在するので、私自身の議論はどうしても錯そうしてしまいます。私自身が「私はこれを美しいと感じる」ことに何らかの影響やバイアル(歪みのようなもの)が存在することが大前提になっているのです。

 

ですから「人間存在と無関係に『美』が存在する」という決めつけてしまった方が楽です。あるいは「『美』はしょせん主観(やその集合体)としてしか存在しない」と決めつけてしまった方が楽です。まだこのことに一定の結論が出たという話をしりません。

 

こういうことを踏まえていないと「美人論」を行おうとしても混乱してしまうのです。

 

「美人」というと、それは基本女性のことになってしまいます。美しい男性は「美男子」ですし、「ハンサム」という表現になります。大河ドラマ「八重の桜」のモデルになった新島八重は「ハンサムウーマン」とよばればひとです。こういうことでもわかるのですが女性が「ハンサム」だということは基本例外的な事柄なのです。

 

今はしりませんが、「モテ服」、「モテメイク」という言葉が一般的に使われていた時期があります。これは女性の場合に「男からみて魅力的かどうかが基準になっていること」を意味しています。女性自身が「この服が素敵だ」、「このメイクが素敵だ」というジャッジをするのではなく、「男から見て魅力的な服」が「モテ服」ですし、「男から見て魅力的なメイク」が「モテメイク」なのですから。

 

前にも書いたのですが、女性自身が不愉快な思いをしているとしても「女性の身体」はとても重要なのです。人類という種の存続のためには女性が魅力的にふるまって男性をひきよせて、性交渉をもち、子供を生むことがとても重要だからです。

 

もちろんだからといって私は女は子供を産めばいいというよな乱暴な議論をするつもりはありません。

 

もちろん若い男性が周囲から見ると過剰なくらいに「カッコつける」ことはあります。前にも書いたのですが、その場合に重要なのは「彼の身体」ではないはずです。「彼のふるまい」が重要なのです。フェロモンという言い方がありますが、「この男性の何かが魅力的なのだけれども、どこに魅力があるのかよくわからない場合」が女性から見ると多々あるはずです。だから「男の性的な魅力はよくわからない」のです。私にもわかりません。(私は当然男性ですし)極論なのですが「お金持ちはモテる」ことが多いと思うのです。それは「お金そのものが魅力」なのではなくて「お金を持っているからこそできる行動が魅力」であるはずです。たとえば彼女と食事に行くときに高級な料理的にすぐ入れるのかどうかということです。それは「ふるまい」であるはずです。私はある世代の男性ですし、マニュアルをたくさん読みました。それは雑誌等によく乗っていて、私が実践することはほぼなかったのですが、「こういう男性化粧品をつかうのがカッコ良いんだ」であるとか「こういう店に入ったらこういう風に『ふるまう』のがカッコ良いんだ」という内容のマニュアルです。

 

 ここでいつものように「新明解さん」に聞きます。(つまり新明解国語辞典第二版を引きます。ケンボー先生いつもありがとう)

 

かっこいい(「かっこ」は「恰好」の短呼)(若い人たちから見て)彼らの感覚・趣味を反映していてすばらしい。

 

「恰好」というよりも「かっこ」が問題なのです。

 

学研現代新国語辞典改定第四版さんにも聞きます(つまり辞書をめくります。金田一秀穂先生お世話になります)

 

恰好 一、1、形や姿 「星のーをしたブローチ」「妙なーの男」 2、整った形、体裁。「ノーネクタイではーがつかない」 3、・・・した様子。「便りもなく忘れ去られたーだ」 二、ある条件にちょうど適しているようす。「避暑にはーの地」 三、(年齢を表す数の下につけて)(およそ・・ぐらいの年齢)の意 (年配の人を指す場合が多い)「五十ーの男」

 

学研現代新国語辞典改定第四版 の用例(使い方)をみればわかるのですが、たしかに一の1では「かたち」です。しかし他の用例(使い方)では「状態」ですよね。「かたち」というよりも「状態」に基づくのが「かっこいい」か「かっこ悪いのか」を分けているのです。

 

別に好きではなかったですし、その後アイドルのプロデューサ-になるとは想像していなかったのですが。つんくさんです。バンド・シャ乱Qのボーカルで曲作りも担当していたのがつんくさんなのですが。つんくさんの歌詞に「男ならカッコつけろ、女なら感じろ」というフレーズがあります。

 

シャ乱Qの「いいわけ」です。

 

歌詞をコピペすることに問題があって、ユーチューブのリンクをはるのは構わないことに理由はよくわかりませんが、ユーチューブのリンクをはっておきます。

 


いいわけ / シャ乱Q

 

衣装は当時の流行です。歌詞の物語やその中のエピソードをひろっていきます。こういう歌詞を当時書いていたことがのちにつんくさんがアイドルのプロデュースに成功することにつながっているのでしょう。

 

主人公は寂しい思いをしている(おそらく)若い男性です。

 

自分は寂しいんだというフレーズがサビです。

 

こういう「状態」はみっともない、つまり自分は「カッコ悪い」のだという描写が繰り返されています。

 

この歌の主人公の男性の基本認識は「自分はカッコ悪いヤツ」であるという認識です。若い男性が「自分はかっこ悪い」と思うことはとても普通です。私も(事実もそうだったのですが)「自分がかっこ悪い」ことがとても気になった若い時期を過ごしました。若い男性にとって「自分はかっこ悪い」と思うことはつらいことなのです。

 

エピソードをひろうと「自分が夢中になった女性に逃げられた」、「自分がいなくなったら誰か泣くのかなと考えた」、「バイトで貯めたかねをはたいて遊びなれた女に服を買った」、「あいつみたいな顔にうまれたら(つまり男前だったら)良い人生なのかもしれないと考えた」という風です。

 

これは若い男性や(元若い男性には)わかることなのですが、このすべての「ふるまい」、「状態」は「とてもカッコ悪い」「ふるまい」であり、「状態」なのです。ほとんどの男性はこういうことを実は経験しているのです。

 

この歌のタイトルの「いいわけ」の内容がとても重要です。「いい男には勝てない」と思っていることが彼にとっての「いいわけ」だからです。これが事実ではおそらくないとこの歌の主人公が考えているから、つまり「いい男が勝つということが間違いである」という認識が彼にはあるのです。これは男性はほぼわかることです。事実「いい男が勝つ」ことも多々あります。ただ「いい男だから勝てるのは誤りである」という基本認識を全男性は実はもっているのです。これは「男性の基本認識」です。

 

(こういうまどろっこしさが橋本治さんに似ているのですよ。橋本治師匠!)

 

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

 

 

蓮と刀ーどうして男は”男”をこわがるのか?という本のリンクをはりましたが。男は自分の中に自分には制御不能な暴力性を抱えていることがわかっています。DVの加害者のほとんどは男性です。もちろん身体的に男性のほうが強い場合もあるでしょう。ただ男には自分でも理解もできないし、制御も不能な暴力性を持っていることがわかっていて、自分と同じ男性にもそれがあることがわかるから同性がある男がどこか怖いのです。

 

そういうことを私はしたことがないのですが、多くの男性は「実はこういうことがあった」ということを親しい女性に語っているようです。その相手は親しい女性でしかありません。男性ではないのです。原因は「暴力性」にあると私は考えています。

 

ここは非常に難しい問題で、「はじける」というか、ケンカの場面が典型なのですが、「切れます」よね。あの「切れ方」が女性と男性では違います。ある場面で(適切な)ケンカが出来る男性は同じ男性に女性にも好まれるのです。

 

この「切れ方」や「ケンカにしかた」もやはり「状態」であり「ふるまい」です。

 

「ハンサム」にあたる日本語は関西の言葉に中になって関西のひとも気がついていないと思うのですが「男前」です。関西のひとならわかることなのですが、女性が同じ女性の先輩に大して「あのひとはホントに男前なの」という場面が多々あるのです。そういう女性が美しいかどうかは、そこでは基本問題にされません。「ある状態」、「あるふるまい」が出来る女性が(関西弁でいう)「男前の女性」なのです。

 

男前を新明解さんに聞きましょう

 

男前 (いい)男ぶり 「彼はなかなかのーだ」

 

男前とは見た目が美しいであるとかいうことではありません。

 

「振り」をまた新明解さんに聞きます。

 

振り 1、「振ること」2.(外から見える)様子 3.(演劇・舞踏などで)しぐさ

 

1の「振ること」というのは、つまり「ふるまい」です。

 

「ふるまい」も新明解さんに聞きます。

 

振舞(ふるまい) 1、人前で物事を行う態度 2、来客に対する酒、食事のもてなし

 

振舞の2はある種の典型です。来客があったときに「酒や食事をもてなす」ことは「ある状態」を作れるのかどうかが問われる場面ですし、「あるふるまい」が行うことが出来るのかどうかを問われる場面です。

 

女性であってもこういうことが出来るひとは「男前」なのです。つまり「ハンサムウーマン」です。

 

新島八重にはこういうことが出来る女性だから「ハンサムウーマン」なのです。

 

ここが男と女の差異(つまり違い)なのです。

 

否応もなく(本当に文字通りにハイもイイエもなく)女性はみずからの「身体」を問題にせざるを得ず、男性はみずからの「ふるまい」を問題にせざる得ない非対称な存在なのです。

 

この「男と女の非対称性」に私はしつこく説明してたどり着きたかったのです。(こういうことをするので私は説明家という謎の職業名称を名乗っているのです)

 

ここで松田聖子さんにやっと戻ってきます。

 

聖子ファンには実は二種類います。ある人たちは「聖子さんが『かわいい』ことが好き」です。もう一方はJポップオタクで(私もそうなのですが)「聖子さんがポップであることが好き」なのです。

 

聖子さんには「哀愁のようなもの」がどこかないのです。それが私のいう「ポップ」です。

 

「かわいい」という言葉を実は私は長年重要視しています。

 

これは勝手に私が現代語訳したのですが、清少納言の「枕草子」があります。

 

清少納言の結論は二つだけです。「をかし」と「わろし」の二つの結論しか清少納言はつかわないのです。

 

これは1980年代の若者言葉に翻訳すると「をかし」は「かわいい」です。「わろし」は「ださい」です。

 

1000年前のおそらく天才であって清少納言は本当に緻密で正確でちょっと意地の悪い描写をした後に「これはかわいい」であるとか「これは超かわいい」であるとか「これってダサいのよ」であるとか「こういう風にダサいのはイヤなの」というひとなのです。

 

今の日本文化については岸田秀先生の言及もあるのですが、ある種内向きになっています。この内向きというのが外来の文化を輸入することに必死になっていないということを意味しています。

 

各地に古代文明が存在しました。古代文明に関しては諸説あるのですし私は言及をさけます。ただここでは英語と日本語の似通った部分を指摘しておきます。

 

これは三好助三郎先生の新独英比較文法からの引用です。

 

英語ではゲルマン語系のたとえばbookとローマン語系の言葉のvolumeが混在しています。

 

bookは日本語の語感でいうと「本」です。一方のvolumeは「書籍」です。

 

日本語の中に「硬い響きの言葉」がありますよね。「音読み」です。「・・研究開発機構」であるとか「・・・財団研究施設」であるとかです。こういう日本語の響きはどこか「硬く」てどこか「難しく」どこか「かっこ良い」響きです。輸入した「言葉」だからです。いわば「外来語」です。輸入して数百年は経過しているはずなのですが、今だにどこか「硬く」どこか「難しく」どこか「かっこ良い」ことには理由があるのです。「外来語」だからなのです。

 

これが現代日本人であるとするならば「英語」をイメージするとわかりやすいと思います。「英語」が出来るひとってどこか素敵です。私は世間話程度はできますが、実用性はほぼありません。日常生活のなかで世間話程度の英語ができるこからと言って使う場面はほぼないのです。しかも世間話程度の英語ができることをほぼ言いません。見せびらかしているような気がしてイヤなのです。でも「英語」が出来るとどこか「かっこ良い」んですよ。

 

これは「英語が代表している文化・文明の辺境に日本が存在していること」を意味しています。

 

 

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 

 

日本辺境論という仕事は内田樹先生の手によるものです。

 

どこが「中心」でどこが「辺境」なのかは時代は地域、あるいは個人的な趣味によって違うのかもしれません。

 

日本人であってもイスラム教徒であるならば中近東が「中心」になるのでしょうし、アフリカ音楽の愛好家であるならばアフリカが「中心」になるのでしょうし、俳句の愛好家にとっては中心は「奥の細道」の舞台になった日本なのかもしれません。近代人にとっての中心は「パリ」を中心とするヨーロッパなのかもしれません。

 

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」はある種の三面記事を小説にしたという意味で斬新だったのでしょう。

 

 

この小説の舞台はロシアなのですが、パリに留学して(当時の最先端の)思想を覚えてきた登場人物がその内容を意気揚々と語る場面があります。ちょっと前の日本人であればアメリカに留学したひとやヨーロッパに留学した人が、そういうことをしていたのです。

 

今の日本はある種内向きではあるのですが、それは海外の文物を今はそれほどまでに輸入する必要性にせまられていないことによります。

 

松田聖子さんは声も存在も「かわいい」かたです。

 

当時の女性たちが何をみても「かわいい」といって当時の大人からヒンシュクを買っていました。今の若いひとが「やばい」と言って今の大人(つまり私のようなひと)かヒンシュクを買っているようなものです。

 

昔の流行語であった「かわいい」は約1000年ぶりに日本語の中にかえってきた「をかし」だったのです。ですからあの頃(つまり1980年代)から日本文化はどこか海外の文物を必死に輸入する必然性を失い始めていたのです。それはフェミニンな時代の訪れでもありました。男性の結論は多いのです。理由は不明なのですが、男性の結論は多いものです。しかし女性の結論は少ないのです。この言葉を言われると私にはどうすることもできないのですが「生理的に無理」という言い方をする女性がいます。もう押し付けようがありません。

 

ここで現れているのも「女性の身体」です。「彼女の身体がどうしても受け入れることが出来ないこと」を表明しているからです。

 

これは実は男性にとっても非常に重要な「感覚」です。私自身「生理的に嫌い」なひとが実はいます。あるいは「生理的にイヤな仕事」があります。この「感覚」が現代日本を生きるひとにはとても重要です。この「感覚」は何かを否定するときに非常に有効なのです。この「否定」が現代日本社会を生きる上で必須なのです。

 

私自身「生理的に無理」なことをずいぶんしてきました。イヤでした。でも「無条件にするものだと信じていた」からしていました。私には「学校」は向いていなかったのです。嫌いでした。外に仕事に行くことも嫌いでした。でもしてきたのです。

 

これは人それぞれ「違う」んです。別に学校が悪いとかそういうことではありません。「生理的にムリなことは一人ひとの生理が違うので一人ひとり違う」のです。現代日本社会に生きるひとは自分の体から出ているネガティビティを把握する必要性があるのです。

 

現代日本社会はそういう社会です。

 

批判も多いですし今後の動きは不明なのですが、私はシールズがとても好きです。彼らの「考え方」が「好き」な訳ではありません。(これはほめているのですが)代表の奥田愛基さんは私には一つのこと言い続けている方に思えるのです。

 

「戦争ってイヤなものですよね」ということだけを言っている方だと思うから「好き」なのです。

 

ここは普通は飛ばすんです。「戦争はイヤなものですよね。だから私はこうやって頑張っています」あるいは「戦争はイヤなものですよね。でもそんなことを言っていても戦争はなくならないから私は努力しています」という風に。

 

「身体」が抜け落ちています。私がいう「否定」を無視してしまうのです。あるいは「あまりにも当然だから受け入れます」。事実私がそうです。

 

「戦争」というと大げさですが、これが「学校」や「仕事」や「人間関係」ならどうでしょうか。知人にもいくらでもいます。私もそうでした。

 

「仕事は9割はイヤなことだから」と普通に言っていました。これは「体がイヤだといっている」ということを受け入れて、その「否定」を無視して仕事をしているということです。

 

これは8割なのかもしれません。そういいながら普通に働いているひとがいくらでもいますし、事実そういう言葉を耳にします。

 

これは「体が悲鳴をあげているのにそれを無視している」ということです。「体が悲鳴をあげているのにそれを無視している」と「壊れます」。事実私がそうです。

 

何らかのカタチで壊れます。そのカタチは私にはわかりません。人それぞれです。でも「壊れます」。そういう経験が必要な場合もあるのかもしれません。ただある時に「体が悲鳴を上げていることを認めて何らかの対応が取る」必要があるのです。

 

これは現代日本社会が抱えている問題なのです。

 

いったん筆をおきますが、松田聖子さんを見たり、歌を聞いて「かわいい」と感じられうこと、「ポップ」だと感じられることは実は「身体」の反応です。

 

これが異常に重要です。今のアイドルが誰なのかは私には不明です。ただあなたはそういう存在に「かわいい」あるいは「ポップだ」と「感る体」をいたわる必要があります。

 

「体をいたわる」のです。これが現代日本人にとって必須のことです。

 

あなたはあなたの体をいたわって、体が悲鳴を上げていることを自覚して対応を取る必要があります。

 

大げさですが、それをしないと死にます。

 

現代日本社会はそういう社会です。

 

あなたは、ただ「あなたの体をいたわる」のです。整体やマッサージもよいのですが、そういうことはただの対処療法にすぎません。あなたはあなたの体の声を真摯に受け入れるだけのことをすれば良いだけです。そうしないと壊れますから。

 

命にかかわります。