世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

洗脳の恐怖  寓話「チケット」

1、養老孟司バカの壁

 

洗脳という言葉をここで使うのが適切なのかどうか不明だ。

 

だけれどもフロイドさんのブログを読んで「オレ洗脳されてる」と思った。

 

www.byosoku100.com

 

前に同年代の友人とそんな話をしていた。そういうことが自分にあったのだ。

 

「自分は病気してなかったら過労死してたと思うんだよね。しかも喜んで過労死してたとしか思えなくてね」と。

 

友人は「オレたちは洗脳されてるからね」と言っていた。

 

養老孟司さんが人気だ。

 

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

バカの壁」もヒットした。

 

養老先生が「バカの壁」を書いた理由があるのだ。(これはバカの壁には書かれていないが)

 

養老先生の教え子(?)がオウム真理教にかぶれてしまって麻原彰晃が水中に長くいれることの証人になってくださいと頼まれたのだ。

 

養老先生は「水中にいれば当然酸素の供給が絶たれるから水中に長く居続けるようなことはありない」と思って断ったらしいのだ。

 

そしてその学生(の人柄に対してではないのだが)の様子が「気持ち悪く」感じたらしいのだ。

 

2、ジョージ・オーウェル 1984 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 
1984年 (まんがで読破 MD100)

1984年 (まんがで読破 MD100)

 

 

1984年はディストピア小説だ。理想世界は「ユートピア」だがディストピアユートピアの逆だ。

 

ネタバレは避ける。

 

1984年(まんがで読破 MD100)でも十分楽しめる。

 

救いのない話だ。でもこの物語の救いのなさに力がある。

 

1984年の影響があったのかもしれないが、ある寓話を書いていたことがある。その話はまだ書けてはいないが。

 

それは「チケット」という話で主人公は気がついた時にはチケットをもっている。そしてそのとてもいいチケットを使うためにガンバルのだ。最初のチケットを使ったら次のチケットを手に入れるためにガンバルのだ。チケットはとてもいいものだから。

 

この話を暗く終わらせるか明るく終わらせるかで悩んでしまって終わりまでかけていない。

 

悪い終わり方の方は「もうチケットはいらない」と思って逃げるのだが、手を見るとチケットをやっぱり持っていることに驚いて終わる。

 

良い終わり方の方は、チケットを捨てて生きる決意を固めて、それに成功する。体はボロボロになっているが、なんとかなると思って終わるのだ。

 

これは両方とも自分の実体験だと思う。

 

3、気持ち悪い

 

養老先生がその学生にたいして「気持ち悪い」と感じたという話を最初に読んだ時には正直ピンとこなかった。

 

でも古典的な物語だが主人公のよく知っている友人がモノスゴク変わって、しかも話がまったく通じなくなって、その友人が「主人公のことを本当に心配して、本当に考えて、しかもよかれと思って」主人公のことを苦しめたり、殺そうとするという話がある。

 

この話のポイントはその友人は「よかれと思って」主人公を苦しめたり殺そうとするというところだ。

 

しかも、その友人は主人公のことを本当に心配しているし、本当に考えいてくれるのだ。

 

それが悪意だったら話は違う。

 

そういうことは今の日本に普通にある。私が「その友人」だった時期もあるのだ。

 

それは怖いだけではなくて「気持ち悪い」はずだ。

 

今書いてみて「この話はおもしろい」と思ったので書いてはみるが。

 

今も私は洗脳されてはいると思う。

 

苫米地英人さんの洗脳や洗脳を解く話を読むと異常に苦しくなっていたのは自分が洗脳されていた時期があったからだ。

 

今も洗脳は続いているとは思う。

 

でもそういう物語が浮かぶのは洗脳されて暮らしていた時期があればこそだ。

 

あのままだったら自分だけではなく周囲にひどい迷惑をかけていたはずだ。

 

でも自分がいつ洗脳されたのか、どういう風に洗脳されたのかがわからない。

 

そして誰が洗脳したのかもわからない。

 

寓話「チケット」はこういう風に終わればいいんだ。

普通に考える時代 習慣化

1、ラッキーアイテムの構造

 

朝のテレビでたいてい占いをやっている。「今日のラッキーアイテム」というものもある。

 

あれは自由な都会人には必要なのだろう。私はずっと束縛を受けていたので必要なかったが。

 

物語として考えてみればラッキアイテムの構造が見えてくる。

 

なんとなくテレビを観ていたひとが「あなたの今日のラッキーアイテムは赤いものです」と言われたとしよう。(どういうものがラッキーアイテムなのか私は知らないのだが)

 

そのひとは赤いものを探し始める。冷蔵庫を開けてトマトを見つけるかもしれないがトマトは携帯できない。いろいろ探して赤いハンカチを見つけて「これもっていこう」と思う。そして安心する。

 

ラッキーアイテムはなんでもいいんだと思う。

 

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」という本がある。

 

自由という状態は大変なのだ。

 

ある程度の束縛があったほうが楽だ。

 

ある程度のワクの中での自由が楽なのだ。

 

一定程度の束縛を受けている状況は「善か悪」という観点ではなく「楽か大変」という観点でみると「楽」だ。

 

2、運命論としての占い

 

「占い」にはいろいろあるがたいてい「傾向だ」という。

 

血液型占いは世界中で行われているわけではない。

 

でもO型はこういう傾向があるという話は実体験と結構あっている。

 

たぶん星座でもそういうことがあると思う。

 

長男か次男とか親の仕事が自営業か会社員かということでも傾向があると思う。

 

ただこういう占いの致命的な欠点は「運命論」になりかねないというところにある。

 

以前「次男坊が今はいいんだ」という本を書いたひとがいた。私は正直バカにしていた。

 

理由は「それではあなたは長男に生まれたら、そのひとがなにをどうしても、そのひとがうまくいくということはありえないというんですか」という反論がありうるからだ。

 

たとえばそういわれたら「次男坊がいいんだ」という説のひとは「そうは言っていませんが・・・。でも事実次男で成功しているひとが多いんです」とでも答えるのだろうか。

 

たぶんそのひとがもって産まれたものは事実あると思う。

 

でもそれだけですべてがきまるわけでは当然ない。

 

ここでいう「運命論」とはそのひとが産まれた瞬間にそのひとの人生がすべて決まっているというものだ。

 

そんなことはありえない。

 

 

ただ人間を何種類かに分けることには意味がある。

 

「このひとはこういうタイプだから、このタイプのひとにはこういう接し方をするとうまくいきます」という接し方のパターンを提示する場合には特にそうだ。

 

 

3、スピリチュアルなるもの

 

他界されたが哲学者の池田明子さんと現代インテリの長老養老孟子さんともう一人優秀な学者3人の鼎談があったらしい。

 

この3人共通で「日常生活がわからないこと不思議なことであふれているので死後の世界とか霊とかそういうことが格別不思議だとは思えない」と話になったと前に読んだ。

 

性別が関係しているのかどうか不明だが「なぜなの」とずっと聞いている子供がいる。

 

問いにはざっくりわけると2種類ある。

 

Why(なぜ)

How(どうやって)

 

だ。

 

こういうことを大人になっても考えているひとはあまりいないと思う。青は青いことが多いが「なぜ空は青いのか」。(これはWhyだが)

 

でも朝焼けと夕焼けの時には赤いこともある。

 

私には正直すぐには答えられないが光は波長の長さで色が違うはずだというあたりから考えていくと答えが出ると思う。

 

太陽の光が大気にぶつかったときに何かあるのかなとか。

 

こういうことを日常的に考えているひとにはスピリチュアルななにかが特別にどうだとは思えないのだろう。

 

皮肉な現象だが「科学的な啓蒙する」と日常生活の中にある不思議さを見失う人々が出てきて、そういう人々がスピリチュアに惹かれるという構造があると思うのだ。

 

私は数学は専門外だが「1,2,3,4,5」といった数字を自然数という。自然数は人間だったら誰もが使える。

 

だが「なぜ私たちは自然数を当然のように使えるのか」という風に思うんとそれは優秀な数学者にしか答えられないことになってしまう。

 

 

4、学校の終わりと始まり

 

今の学校は兵士と工場労働者とオフィスワーカー(事務職)を養成する場所だ。そういう意味での学校はもう終わっている。

 

私には何をどうした方がいいという力はないが、「今当然とされていることを疑う力があるひとが次世代の教育のことを考える時代」に入ったようだ。

 

そういう意味でいうと本が有効だと思える。

 

たとえば本の中では対談本というジャンルは軽いものだ。読みやすいのだ。でも対談本を出すためには10時間くらい話をするのは普通だ。

 

これをテレビやユーチューブでやるとはとても難しい。

 

メディアの特性上そうなる。

 

本には結構キツイことが書いてあることも多い。

 

 

 

藤野英人さんはファンドマネージャーだ。「GG資本主義」がなんであるとは明快には書いてはいない。

 

でも発音してみればわかるはずだ。

 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 

堤未果さんは右とか左とかそういうことではなく真摯に仕事をされているジャーナリストだ。

 

事情は知らないが藤野秀人さんも堤未果さんもテレビで観ない。

 

私はテレビが悪いとかネットが悪いとかそうは思わない。

 

「時間の使い方」の問題なのだ。

 

一日に数時間テレビとネットに費やすと結果として他のことができなくなるのだ。テレビもネットも基本楽しいものだから。

 

テレビもネットも共通で「習慣性」があるのだ。

 

習慣化についてはこの記事が良いと思う。

 

習慣化の3つのポイント!【今日からやってみる人限定】 - 一生つなわたり

 

ホメオスタシス(恒常性を保とうとする働き)があるので誰であっても「変化」はひどく難しいのだ。それは意志の力が強いとか弱いとかそういうことではない。

 

でも習慣になってしまえば「考えるまでもなくやっている」のだ。

 

頭の中は目には見えない「なぜだろう」とか「どうすればいいんだろう」と考えることが習慣になっているひとは普通にそういう風に考えるものだ。

 

 

武道に関する物語から学ぶ 姿三四郎

1、保守とリベラルが口汚く言い争ったら

 

保守とリベラルが口汚くなく言い争ったら保守が勝つ。これは構造上そうしかならない。

 

この場合、保守とリベラルをわけるものは「理性」であり「合理性」だ。

 

「理性」や「合理性」をどこか信用しないのが「保守」だ。

「理性」や「合理性」を重要視するのが「リベラル」だ。

 

「保守」と「リベラル」をこういう風に考えてみるといろいろ見えてくる。

 

保守とリベラルが企業経営について話している場合に

 

リベラルが「それはまったく筋が通らない話だ」と言い、保守が「あなたがいうことはその通りだが、筋を通すと会社がつぶれるんだよ」と言い返すことがありうる。(ある種のブラック企業でありそうな会話だ)

 

ある時期以降の日本での反論として「じゃあお前がやってみろ」という文言がある。

 

実際民主党はやってみてダメだった。そうではなかったというひとはいないはずだ。

 

もっと気楽な例をあげよう。年賀状だ。

 

保守は「年賀状の意味はまったくわからないが一応やってきたことでもあるし続けてもいいんじゃないか」といいリベラルは「あんな意味のないものは辞める」というはずだ。

 

リベラルは「理性」や「合理性」を重要視するので「なんらかの一貫性を求める存在だ」という側面がある。

 

口汚く言い争う場合には「合理性」や「理性」や「なんらかの一貫性を持っている側」や「なんらかの一貫性を求める側」は負けるしかない。

 

口汚い言い争いはそもそも「非合理的」であり「非理性的」であり「一貫性はない」からだ。

 

2、森田剛にはなにかある

 

M君という若い友人がいるが、ある時に「最初に会った時森田剛だと思った」といった。

 

ランチの女王 DVD-BOX

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ドラマ「ランチの女王」の再放送を友達とみていた。竹内結子演じる女性に森田剛が会いにくる場面だ。レストランなのだが彼女は森田剛に会いたくないので出ないのだが森田剛はイス(だったと思う)を取ってドアの上の飾りがついたガラスの部分を割るのだ。

 

(今書いてみてわかったが、もちろんこれはドラマの中のことで二人は演じているだけだ。私はテレビドラマを役柄ではなくてその役を演じている本人だと思って見ているらしい)

 

私の友人も私も「これイイな」と言っていた。

 

(私はケンカは弱いが)ある場面で「これは普通しない」ということがパッと浮かぶひとは強いのだ。

 

そして「これは普通しない」ということは場面場面で変わる。

 

その場面でイスでドアの上のガラスを割るのは「想定外」なのだ。

 

そういうことが普通にできる役柄がかっこよかったのだ。

 

森田剛にはなにかある。

 

3、余白 熊本地震ドラえもんユーミン阿久悠

 

熊本地震を振り返ると集まりがあって出席した。その時に私は「あの時は水を3リットルもらうのに5時間とか待って大変だったけれども、あの時の方が気持ちは楽でした。今の方が気持ちは苦しいんですよね」と言っていた。

 

昔作家の新井素子さんが「私が育ってきたときにはドラえもんの世界はもうなかった」と言っていた。

 

ドラえもんの世界でとても重要な役割を果たす場所がある。

 

「空き地」だ。

 

「空き地」には土管があるのだ。

 

のび太ジャイアンスネ夫はしょちゅう「空き地」で遊んでいる。

 

私も子供の頃通称「天神さん(の森)」というところで遊んでいた。「天神さんにいってくる」と言っていたはずだ。

 

ユーミンガゼボの"I like Chopin"の日本語の歌詞を書いている。「雨音はショパンの調べ」だ。

 

DREAM PRICE 1000 小林麻美 雨音はショパンの調べ

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 この歌詞で「気休めは麻薬 Ah」という風になんども「Ah」という意味がない言葉を使っている。

 

阿久悠も意味がない言葉を使う。

 

ゴールデン☆ベスト フィンガー5[スペシャル・プライス]

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沢田研二 A面コレクション

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意味がないとはいえないがフィンガー5恋のダイヤル6700」の冒頭は「リンリンリリンリンリンリリンリン」というだけだし沢田研二勝手にしやがれ」では途中で歌詞がなくなって「アア」というのだ。

 

それが地域であっても日常生活であっても歌詞であっても「意味や価値がない何か」がないと苦しくなるものだと私は考えている。

 

「空き地はないけれども公園があるからいいんだ」という考えは間違っている。

 

公園には意味や価値があるのだ。

 

私が「意味や価値がない何か」というのは「余白」のことだ。

 

公園は公園という存在で「余白」ではない。

 

日本社会の問題点として「余白がない」という問題点があると私は考えている。

 

4、メタ認知

 

大昔上司から私はひどく怒られていた。取引先の前でだ。その点だけを考えれると理不尽だった。実際私は悪かったのだがそこまで怒る必要はなかったからだ。

 

でも私と上司という認知からワンステージ上がって、その状況を見ると納得できる。上司は取引先にはったりをかましていたのだ。

 

「空き地」には意味がない。それはそうだ。「空き地は余白」なのだから。そもそも「意味を含まない存在が余白であり空き地」なのだ。

 

でもメタ認知すると意味が見えるのだ。

 

以下はウィキのコピペだ

 

メタ認知能力

現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力。

 

意味や価値があること、意味も価値もないことは明確にあるが認知のレベルで変化もする。

 

「空き地」も歌詞の「Ah」も「リンリン」もある認知では「意味も価値もない」が違う認知では「意味も価値もある」のだ。

 

5、やっと姿三四郎 (「力まない」「こだわらない」という「理性」と「合理性」のありかた)

 

 これは否定形でしかいえないのだが「力まない」「こだわらない」という「理性」と「合理性」の在り方が存在する。それは実は一貫性なのだ。

 

これは三省堂「新明解四文字熟語辞典」よりだ。

 

行雲流水   空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行動するたとえ。また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。▽「行雲」は空行く雲。「流水」は流れる水。諸国を修行してまわる禅僧のたとえにも用いられることがある。「流水行雲りゅうすいこううん」ともいう。

 

ちょっと考えてみればわかることだが「力んだ状態」では「感度が鈍くなる」ものだし「とっさの対応もとれない」ものだ。

 

「力まない」「こだわらない」という否定形でしかいえないのだが。これはとても知的なことだ。

 

メタ認知能力」を使えばわかることだ。

 

格闘技人口は増えているらしい。格闘技を観る人口はたいして増えていないらしいが格闘技をやる人口は増えているらしいのだ。

 

「頭がよくなるためのスポーツ」という存在が21世紀に入って浮かび上がっている。

 

私はスポーツや武道をそういう「感覚」ではずっととらえてこなかった。

 

でも「頭をよくするためのスポーツ」なる存在が浮かび上がっている。

 

保守とリベラルとの不毛とも思える争いを解くカギもメタ認知にあると私はにらんでいる。

 

口汚い言い争いという存在そのものに対する思考のアプローチもやはりメタ認知にあると思うのだ。

 

 

何がポイントなのか 時代の潮目

1、新潮45に掲載された杉田水脈議員の論文の何がポイントなのか

 

保守のリベラル憎しがポイントだ。以前週刊朝日橋下徹さんの人格攻撃をした。意味はあれと同じだ。

 

もちろん普通は発言や原稿を読んで、その内容について、考えるべきだ。でもそれは発言当の内容にポイントがある場合だ。

 

そもそもリベラル(リベラル的なもの)を攻撃することにポイントがある以上(私はそう読解している)ポイントはリベラルへの憎悪だと読解するのは当然だ。

 

そこまで来たら「保守とリベラルの間の憎悪」が次のポイントになってくる。

 

昔の左翼的な言動もポイントは(もちろんそうではないひともいたであろうが)「なんだかつっかかりたい」という衝動のようなものだった思っている。

 

「なんだかつっかりたい」と思うことはそんなにヘンなことでも病的なことでもない。普通だ。

 

2、なぜディスる時代ではないのか

 

マチュアスポーツの世界でいろいろあっている。ああいうことでテレビがうめつくされることを批判するひとがいる。私はバカだと思う。

 

何故か。

 

ある好ましくない現象がおきている時に

 

1、何故そういう現象が起きているのか という問題を設定して挑むこと

2、どうすればそういう現象が収まるのか という問題を設定して挑むこと

 

は今の日本に生きるひとであれば当然することで、できることだからだ。

 

ディスる」(批判する)ことが時代にあわなくなっているは、今(2018年)の週刊文春のことを考えてみればわかる。

 

今私が文春砲を打ってほしいのは週刊文春編集部の皆さんだ。

 

「あんな記事を書いて出版している編集部の人たちはそんなに清廉潔白なのかな」

 

と思うからだ。

 

ある時期以降日本の政治状況が変わった。理由は政権交代があったからだ。昔は野党はずっと野党だったのだ。

 

だから「自分たちは政権運営をしない」という前提で発言したり批判したりすることが多かったのだ。

 

そういう前提だから筋が違う発言や批判もあった。でもそれは「自分たちは政権運営はしない」という前提だけではなく「自分たちには政権は取れない」という前提でもあったのだ。

 

かつてテレビで芸能リポーター全盛期があった。彼らは結果そこいらの芸能人よりも有名になった。つまり芸能リポーターが結果芸能人になったのだ。

 

政治状況に重ねると野党の政治家が政権入りした(つまり与党になった)のだ。

 

ディスっていると結果自分がディスっている存在と同じ存在になってしまうから(あるいはそれが多くのひとにわかったから)ディスりは時代にあわないのだ。

 

人気のニュースキャスターやコメンテーターに対する批判も「お前が批判している権力者とお前は権力者という意味で同じだ」という内容のものがあります。

 

3、ふるまいの重要性

社会党が世間から見放された時のことを私は覚えています。

 

きっかけは「牛歩戦術」でした。少数派が投票をとてもゆっくり行って違法ではないカタチで議事の妨害をするのが牛歩戦術なのですが。

 

牛歩戦術をとっている時の野党議員の態度」を見て国民は社会党を見限ったのです。

 

今でも抗議の意味で「牛歩戦術」は有効ですが。

 

その時の社会党の議員たちはとても楽しそうにしていたのです。

 

ポイントは牛歩戦術ではなく「楽しそうに牛歩戦術をやっていたところ」にあったのです。

 

麻生さんが責任を取った方がいいとか責任を取らなくてもいいという話がでています。

 

この件に関してのポイントは「麻生さんの態度」だと思うのです。

 

子供でも問題にされます。

 

「態度が良いのか悪いのか」。

 

麻生さんの思想や力量は私には不明です。でも「態度は明確に悪い」のです。

 

そして政治家でなくて「態度」はそのひとの力量の一つなのです。

 

政治家でなくてもそうです。

 

榎本美恵子さんが時のひとになってテレビバラエティに出たり写真集を出したりしました。

 

正直私は浮かれていると思って、そこは好きではなかったのですが。

 

ただ榎本美恵子さんのご主人が田中角栄の秘書で榎本さんは田中角栄がワイロを受け取ったと証言したのです。

 

その時に彼女は「ありの一刺し」といっています。

 

その意味は「この証言の代償はとても大きい」という意味です。

 

その頃に林真理子さんが榎本美恵子さんの食事の写真を見たようで「静かに箸をねぶっている彼女は信用できると思う」と書いていたのです。

 

多くのひとはそういうことで「ひとを判断する」ものです。

 

思想とかそういうことではありません。

 

4、時代の潮目

 

ただ榎本美恵子さんは「自分の証言で本当に何かが大きく変わる」という確信はなかったと思っています。

 

当時の田中角栄の力は絶対でゆるぐはずがないと思えるものでしたから。

 

でも徐徐に崩れていくのです。

 

立花隆さんの「田中角栄金脈の研究」であるとか。

 

田中角栄新金脈研究 (朝日文庫)

田中角栄新金脈研究 (朝日文庫)

 

 

私は田中角栄とリチャ-ドニクソンと同じくくりで、安倍さんとトランプさんを同じくくりでみています。

 

田中角栄は1918年生まれ、リチャードニクソンは1913年生まれでともに1910年代生まれなのです。

 

1910年代生まれの共通点が(たぶん)両者にはあるのです。

 

いっぽう安部さんは1954年生まれ、トランプさんは1946年生まれなのです。政治の季節の後の世代です。

 

角栄さんとニクソンさんには「絶対ゆるがない感じ」があったのです。

 

いっぽう安部さんとトランプさんには「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」があります。

 

トランプさんの過激な言動も私には「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」に見えるのです。

 

そしてその「頼りない感じ」が今のリーダー像にあっています。

 

ある時代が変わるときには意外なことで大きく変わっていくのです。

 

「こんな小さなどうでもいいことで」と思うようなことです。

 

そこだけ見ると不思議なのですが、これはヤカンの水をずっとコンロで温めているようなものです。ある時に沸騰します。でもそれはそれまでヤカンをあたため続けてきたからにすぎません。

 

それを「こんなことで変わるなんて」というひとはわかっていないバカです。

 

トランプさんはわからないのですが安部政権はいつ終わってもおかしくない状況です。

 

別に安部さん批判ではないのですが事実そうです。

 

バブルも終わったのです。一頃は「東京の土地の値段は絶対下がらない」と言われていたのです。でも事実バブルは終わったのです。

 

余計な話ですがテレビでバブルの映像として流れるジュリアナ東京の浮かれ騒ぎはバブル崩壊後です。

 

大きな変化が起きたときには多くのひとは気がつかないものなのです。

 

今普通に「近代という時代」が終わろうとしています。でもあなたは気がついていないでしょう。

ヤフーテレビみんなの感想が面白いの「半分、青い。」への悪口 と ある元地方議員を言いまかした件

ある元地方議会の議員を言い負かしたことがある。彼女は障害を持っているのだが。

 

ある席でグループになったブライドの女性に私は「あれ困りませんんか」と聞いた。多目的トイレが普通のレバーではなくて小さなスイッチで水を流すようになっている件だ。あのトイレの名称も今は多目的トレイというのが一般的らしい。

 

多目的トイレは赤ちゃんのおむつ替えもできるし、お子さんがどこかに行かないように同じ個室で用を足してもいいし、荷物が多い旅行者も使っていいしという前提があったはずだ。

 

ということは、車いすのひとだけではなく、小さな子供がいるひとも、荷物がとても多いひともそれまではトイレに実は困っていたということでもある。

 

そのブラインドの女性は講演に行って「パワーポイントで作ったスライドを使いながらやります」と言われると悲しくなるとも言っていた。

 

話が元に戻すが、彼女は「困りますね」と答えたのだ。そうしたら元政治家が話に割り込んできて「点字が書いてあるんだけどダメなの」というのだ。

 

私は目は見えます。あるところのトイレが多目的トイレだけだったので、そこで用を足した時にレバーが見つからなくてヒドク困った経験があるし、あんなにスイッチがたくさんある中で、それに点字があるとしても、普通流すボタンを探すのが大変なのは当然のことでしかない。

 

それを「点字が書いてあるんだけど」というのはあまりに的外れすぎるのだ。

 

私は時々「普通に考えて」というが、その元政治家はさっぱり普通に考えられないのだ。

 

それにあまりにモノを知らない。あるひとがお金をキャッシュディスペンサーでおろそうとしたのだけれども暗証番号を押せないので銀行員のひとに「暗証番号を教えますから変わりに押してお金をおろしてください」と頼んだら断れたという件に関して「その銀行員の対応はなったない」とかいうのだ。

 

暗証番号を銀行員がしってしまうことは大問題だ。彼らは一般のひとではないのだ。そういうひとが顧客の暗証番号を知ってしまうことにはあまりに問題が多すぎる。

 

そして銀行側が「それじゃ二人用意しますから一人に上二けた、もう一人に下二けたを教えてください」という対応があったという話が聞いて私が「いいアイディアですね」とか言ったのだが「なんでそんなことするんだろう」とかいうのだ。

 

結果言い負かしたのだが。

 

私が腹を立ててそうしたのは「何をどう言っても話がさっぱり通じないことにいらだったから」だった。

 

読んでいなかったのだがヤフーのトップページからヤフーテレビにいくと「みんなの感想」が読める。

 

悪口が多いのだが、そうとう面白い。

 

半分、青い。」に関しても死ぬほど悪口が書いてあった。

 

その原因を想像したのだが今書いた例と同じだと思う。

 

半分、青い。の脚本家北川悦吏子は話がさっぱり通じないヤツだ」といういらだちがあったと思った。

 

それが良いことかどうかは別問題だが日常生活でも仕事でもいろんなそうというイヤなことに多くのひとが辛抱しながら働いている。

 

それが良いことかどうかは別問題だのだが。

 

私は「半分、青い。」は一回も見たことがないのだが北川には「私はイヤなことに辛抱なんかしない」という感じがある。そして「イヤなことにそうとう辛抱しながら暮らしくているひとを理解することができない」という感じもある。

 

みんなの感想の罵詈雑言はドラマの構成であるとか具体的なエピソードに対する批判というよりも「私にはイヤな思いをして暮らしていくことの意味が分からないの」という北川が意図してなかったメッセージが視聴者に伝わったことによりものであるはずだ。

 

事実イヤな思いを押し殺して生きていく必要はないのかもしれない。

 

別の脚本家が同じことをしても、そんなにイヤな感じはしなかったと思うのだが。

 

たとえばツイッターで北川は事実の検証をしている。以下はその文章。

 

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「すみません、怒られるかもしれない、と言った舌の根も乾かぬうちに、また質問です。(だって、どうしたってツイッターで聞くのが一番早い!!)。
1971年前後生まれで、地方公立高校出身の方。兼部ってありました?体育系と文科系の兼部です。ふたつ入ってる。テニス部と美術部、とか」

「1971年前後生まれの方に質問です。高校3年生の時、自分の部屋に(家族と共に暮らしていると想定します)、テレビってありましたか?
音楽は、何で聞いてましたか?オーディオセットは自分の部屋にありましたか?」

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文章に厚かましさがにじんでいる。厚顔さだ。でももし北川がこの文章を読んだとしたら

 

「あの文章のどこに厚かましさがにじんでいるんですか」と質問するような気がする。

 

そういうことを何も考えないでひとに質問できる感性が厚かましい感性に他ならないのだが。

 

それにこのドラマのタイトルの「半分、青い。」というタイトル内に句読点を入れて意味やニュアンスを求める感じ(センス)も厚かましいと私は感じる。

 

ドラマの予告を自分のツイッターでして「神回」と書いてしまう感じ(センス)も厚かましい。

 

「神回」とかそういうことは本人がいうことではなく、ひと様に言ってもらうことだ。

 

さらに朝ドラの後のワクの出演者の中から博多華丸だけを相手に収録で対談を申し込んだのも厚かましい。

 

華丸は「仕事だからやるけどさ」と思って引き受けたはずだ。私は正直「華丸仕事とはいえ大変だな」と思った。北川には「イヤなら華丸さんは断るはずだ」というくらいの仕事観しかないんだと思ったし。

 

「イヤなことでも仕事ならやる」ということが素晴らしいかどうかは別問題だ。

 

だけれども今の日本人の多くは悪口を言われても、屈辱的な思いをしても、耐えて、働いてお金を稼いている。

 

北川悦吏子って何をどう言ってもさっぱり話が通じやしないようなヤツだよ。そういう連中は世間にいくらでもいるよね。世間でそういう連中にイヤな思いをしてるのにNHKの朝の連ドラでもイヤな思いをするのはたくさんだ。みんなの感想で悪口を書こうかな」と多くのひとが思ったとしても私は当然だと思う。

 

実際話がさっぱり通じやしない連中が山のようにいる。

 

たとえば北川悦吏子がこの文章を読んだとしよう。

 

そうしたら「なんであなたはそんな風に感じるの?」と質問するような気がする。

 

あんたがそんなことを普通に質問するようなヤツだからだよ!

校則について考える 自分に意味がわからないことを命令しろと言われている状態の危険性

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まず仕事について書くのだが仕事をしている時にはたいていのひとが何かを切り捨てている。そして切り捨てられないひとは仕事ができないひとだ。

 

極端な例で考えてみる。軍事作戦でこの作戦で500人仲間が死ぬがこの作戦によって10マン人助かる(と言われた)のだという場合には目の前で死ぬ500人の人たちに対してとても冷淡になれるひとが有能なのだ。

 

これはトロッコ問題とは違う。あれはレバーを使わなければある人数が死に、レバーを使うともっと多くのひとが死ぬという設定だからだ。あの事例を経験した人類はほぼいない。

 

軍事作戦であげた例ではその判断は別のひとがしている。

 

仕事にはそもそも分業の要素があるのだ。

 

だけれどもそういう働き方が行き詰っているようだ。

 

わかりやすい例が「スーツ」だ。スーツを着た時は「生活」は切り捨てるものだ。

 

都市にもそういう要素がある。

 

生活も生活の匂いも出さないというルールが存在する。

 

この話は別の機会にするが。

 

「本来こういう目的だったはずだ」ということの意味がなくなった後に物事は混乱するものだ。

 

学校で服装や髪形を問題にすることには本来は「外見(姿勢等)を整えることにより内命を整える」という意味があったはずだ。

 

制服って黒か黒っぽいか白いのが普通だったことにもそういう意味があったはずだ。

 

禅宗の言葉で「調身調息調心」がある。姿勢を整え、呼吸を整えると、ココロが整うという意味だ。

 

校則にはそういう意味があるはずだ。

 

そして教師にも外見の変化で生徒学生の内面の変化がわかるという意味もあったはずだ。

 

だけれどもある時期以降校則の指導をしている教師たちは上司からやれといわれているからしている仕事だという以上の意味はないはずだ。

 

物事の原因がわかる比較的自由がきく立場であれば融通がきかせられる。

 

だけれども意味もわからず、命令だからという理由、ルールだからという理由でしているのなら指導をしている方にそもそも意味がわかっていないし裁量もないのだから、指導を受けている側はどうしようもなくなるのだ。

 

この状況では「先生この校則ってなんで守らないといけないんですか」と生徒に聞かれても教師は答えられない。

 

ただ「守れ」というしかないのだ。

 

校則に限らず、今書いた状況はとても危険だし、今の日本のあちこちにある。

 

これを単に校則の問題だと思わないでほしい。

ワイドショーの罪 あれは素人の世間話 ホンマでっか!TV 訳が分からないプロ

ワイドショーが素人の世間話であることには理由があると思うのですが、まだ私にはわかっていません。

 

でもワイドショーは明らかに日本社会に害毒を流しています。

 

この発言そのものを今回は問題にはしません。なぜ政治家がこのような発言をするのかが論点です。

 

lite-ra.com

 

発言内容がワイドショーのコメンテーターの感覚(センス)だと私は思うのです。

 

ワイドショーのコメンテーターは基本素人です。あそこにスペシャリストは基本いないのです。

 

そういう意味であそこは「(架空の)お茶の間」なのです。

 

だけれども今の日本の多くの家にお茶の間は存在しません。

 

現実にはないお茶の間をテレビの中に再現することが不可能な時代なのです。

 

結果ワイドショーのコメンテーターは暴走しています。

 

あの人たちがどういうつもりで発言したかは別問題です。

 

問題は発言内容。

 

私が観た範囲でも「問題がある発言」が多々ありました。

 

ああいうことでコメテーターをやってお金ももらっているのだから責任を取るのが当然です。

 

でもワイドショーのコメンテーターが自分の発言内容の責任を取ったという話を私は聞いたことがないのです。

 

私が言っているのは「自己規制しろ」ということではないのです。

 

「自分がしたことには責任を取る」という当然のことをしろということを言っています。

 

世間でもそうとうヒドイ内容の世間話はいくらでもありますし私もします。

 

でもそれは仲間だけでしていますし、そういうことでお金を稼いでもいません。

 

テレビでそういうことをして金を稼いでいる人たちとは意味が違うのです。

 

ネット民もボチボチ動くと思うのです。

 

それでやった片山さつき氏なのですが、片山さんの発言のセンス(感覚)が私にはワイドショーのコメンテーターのセンス(感覚)だとしか思えないのです。

 

いろんな発言をされていますが、ああいう発言をしたことに対する責任を取るセンス(感覚)がないようです。

 

それがSNSだろうと何だろうと政治家が発言した内容はオバサンの世間話ではなくてその政治家が責任を取るのが当然の発言ですが本人にはそういうつもりはないらしいのです。

 

ただホンマでっか!TVが始まり待ったことはとても大きい変化だと私は見ています。ある領域の専門家は発言内容だけではなくて人としてもとてもおもしろいのです。

 

実際ネット上では「先生たちの話をさえぎらないでほしい」という声もあります。

 

あの番組に出演している専門家にイライラすることもあるのです。発言内容というより「人柄」みたいなものにイライラしているのです。

 

でもそれくらいに「あくがつよい」ひとたちです。

 

さんまさんくらいじゃないと司会はできないような人たちです。

 

30分でマスター! 植木理恵の行動心理学レッスン

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 私がこのひとの本を読むことは死ぬまでないと思います。植木理恵さんですが。だからと言ってネガティブキャンペーンははりません。どこか好感がもてるのです。お近づきにはなりたくない方ですが。

 

私はもう素人の世間話は時代の流れの中で力が薄まっていると感じています。

 

スペシャリストは発言内容以上に「ひととして異常で訳がわからない」のです。