世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ある種の占い・心理学は二分法です。「おしゃべりとか無口とか」

血液型では人間を4種類に分けます。星座占いでは12種類に分けます。

 

「人間のような複雑な存在をそんな4種類とか12種類に分けて済むはずがないだろう」というあなたの考えはもっともです。

 

ですがある種の占い・心理学はもっと単純です。「2種類に分けてすます」からです。

 

「明るいひとだとか暗いひとだ」とか「おしゃべりなひとだとか無口なひとだ」とかで済ますのがある種の占い師・心理学者の仕事なのです。

 

そういう意味でいうと私は心理学者の端くれです。

 

上沼・高田のクギズケ!」という上沼恵美子さんと高田純二さんの番組をみていて「ここではこの二分法だな」と先日思っていました。

 

バカな二分法なのですが「世話焼きタイプ」と「世話焼かれタイプ」の二分法なのです。

 

私は「世話焼きタイプの男」で同じく「世話焼きタイプの男」の話を聞いてバカにして笑うし私の話を聞いた「世話焼きタイプの男」からも笑われます。

 

私は最近まで頭痛もちでメガネをかけると余計に頭が痛くなるような気がするので普段裸眼ですごしていました。

 

ある日友人が部屋に遊びにきて「この部屋は不潔だ」という対応をしたのでイヤな思いをしたのですが私は普段近眼で裸眼なので部屋のホコリやちょっとした汚れが見えない状況です。

 

「世話焼かれタイプのひと」はいわば近眼の裸眼で過ごしているようなものです。

 

私がその頃普段メガネをかけていたらそんな部屋に友達を入れることはありません。

 

気がついていなかったからそういう状況の部屋に友達を入れたのです。

 

「世話焼きタイプのひと」はいわば「目がいい」のです。「世話焼きタイプのひと」はいわば「目がわるい」のだと考えてみてください。

 

あなたはどっちでしょうか。

 

私は「世話焼きタイプの男」なのですが「世話焼きタイプのひと」にはスキがないのです。まったく付け入るスキがありません。

 

もしスキがあるのならいいます。

 

「別にオカネとかそういうことはいないけど」とか「ありがとうとかそういうことじゃないんだけれども」と。

 

でもスキがまったくないので言えないのです。

 

結果私は友人の縁を切ってしまったことが数回あります。

 

それまでにいろんなことがたまっていたからです。

 

そもそも「世話焼きタイプのひと」には多分どうでもいいことを私は燃え尽きるくらいにしていて「もう限界だと思って縁を切っている」のです。

 

さっきの例だと私は部屋が汚い状態で友達を招くことなど基本しません。ただ当時裸眼だったのでそうしてしまっただけです。でも「世話焼きタイプのひと」は普通にそういう状態でも友人知人を招くはずです。

 

あるいは「そんな恰好で外に出ちゃダメだって」というカッコウでそとに出るはずです。

 

そもそも(たぶん)「世話焼かれタイプのひとにはどうでもいいこと」を「世話焼かれタイプのひと」が必死でしているようなのです。

 

ある女友達は妹さんにとても感謝しています。「妹がナンにもいわないでやってくれる」と。

 

彼女は事実妹さんに感謝しています。

 

でも妹さんにすると「言いだすとお姉ちゃんにもう会えなくなるくらいのことを私は言いかねない」と思うから「何にもいわない」のだと私は考えているのです。

 

そしておそらくあたっていると思うのです。

 

こういう二分法を山のように自分の中にもっていて「このひとにはこの二分法」「このケースはこの二分法」というように自分の中から「取り出せるひと」がある種の占い師であり心理学者なのです。

 

ここはまだAIにはできない領域なのではないでしょうか。

 

事実多くの仕事がなくなるとは私も考えています。

 

ただ私のような仕事は当面なくならないでしょ。

 

何故私にこんなことができるのかって?

 

修行したからですよ。

松居一代さんについての報道について思う

私は今は本は一冊出していますがしょせん無名ブロガーです。

 

「勉強しましょう」とかいうとイヤミでしかないので普段私がいうことはないのですが日本企業は本当に勉強した方がいいとしか言えません。

 

たとえばトイレです。TOTOにしてもINAXにしても「マーケッティング」に関する部署があるはずですが機能していません。

 

これは「マーケッティング以前の問題」のような気もするのですが。

 

私は一人暮らしなのですが自宅のトイレで小用を足すときに「座って」用を足しているのです。

 

理由があなたにはわかると思います。

 

今のトイレで男がたって小用を足すとトイレを汚してしまうのでからです。

 

私は一人モノですしトイレ掃除も自分でするので座って用を足すというとても面倒なことをしています。

 

それから女性でトイレの音が気になるという理由で用を足しているときに水を流すひとがいます。

 

前にいた職場で男がたって用を出していると用を足す音が聞こえて私はとても不愉快な思いをしています。

 

ある時私はあるフレーズを呟いて自分で笑ったことがあります。今更自分がそんな言葉を呟いていたことに笑ったのですがそのフレーズとは「顧客のニーズ」です。

TOTOINAXも「顧客のニーズ」を何十年も無視しつづけています。TOTOINAXもナニをしているのでしょうか。

 

これは「マーケッティング以前の問題だ」と私にいわれてもいたしかたないでしょう。

 

伊丹十三さんに関してあの方がご存命の時にはそんなに興味はなかったのですが他界された後になって「よくあの仕事をしてくれた」と時々思うのです。

 

たとえば若いひとで「バブルの頃はよかったんでしょ」というひとには「マルサの女2」を勧めるのです。日本人が銭の亡者になっていた様子の記録として重要なのです。

 

 

マルサの女2<Blu-ray>

マルサの女2<Blu-ray>

 
マルサの女2 [DVD]

マルサの女2 [DVD]

 

伊丹さんはいわゆる「店」で働いた経験はないはずなのによくわかると思うのが「たんぽぽ」です。ラーメン店の立て直しの物語なのですが

 

タンポポBlu-ray
出版社/メーカー: 東宝
発売日: 2011/11/25
メディア: Blu-ray
購入: 1人 クリック: 11回
この商品を含むブログ (20件) を見る
 

タンポポ [レンタル落ち]
発売日: 2009/01/01
メディア: DVD
この商品を含むブログを見る
 
 
山崎努さん演じる主人公が宮本信子さん演じるはやらないラーメン屋の女主人を助ける物語です。

二人で人気のラーメン店に行って食べ物して帰る場面があるのです。山崎勉さん演じるできる男は「この店の店員たちにはムダな動きが多い」というのです。

店で働いているひとにはぜひ観てほしい映画なのですが私が客で言って「それムダだ」と思うとイラっとします。ある店でオバチャンが大声で話しているのです。良い悪いではなくてそれは「ムダな大声」なのです。全員に伝える必要がある業務連絡なら大声を出す必要がありますがどうでもいいこともそのオバチャンは大声を出しているのです。

ムダなんですよ

 

それからこの言葉も今更いうのも恥ずかしい言葉なのですが「時代はロングテール」です。

 

私がとても尊敬しているポジ熊さんという方のアドバイスを私は基本守っています。

 

これは「時代がロングテール」だから成立するアドバイスです。

 

そのアドバイスとは「腐るワードは使わない方がいいですよ」というものです。

 

松居さん御本人の問題について私は言及するつもりはありません。

 

マスコミのありかたを問題にしているのです。

 

メディアがデジタルに移行してコンテンツ(番組や記事の内容)は長く持つようになっているのです。

 

私は見ませんが「ワイドショー」も一回作って終わりという時代ではありません。一回の放送で10年20年商売をする時代なのです。

 

でもある種のマスコミは「腐るワード」で埋め尽くされています。

 

松居さんもバカにする意味でこれ書くワケではありません。

 

松居一代」というワードは「腐るワード」に他ならないのです。

 

私は細々とコラムを出版したりしています。増刷もあり得ないのですが一応リンクを張っておきます。

 

世の中と私

世の中と私

 

 

全コラムニストが思って(考えて感じて)いることなのですがコラムの出版はコラムニストにとっては苦しいことです。

 

「あのときはそう考えていたのだけれどももう考えが変わっているだが時代の空気を残すという意味がコラムの出版にはあるのでテニオハはなおしても趣旨を治すとコラムをまとめて出版する意味がないから趣旨は治せないから」です。

 

テレビや雑誌のスタッフや出演者も「今はそういう気持ち」が必要なのです。

 

繰り返しますが「時代がロングテールだから」です。

 

商売の勉強をちょっとはしましょうか。

 

(私は今そうとうカッカしていました。そうとう私はこういう件で怒っているみたいです)

ドラッカーがいう「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」って例えばこういうことです。

私も含めて多くのひとが一番疲れることは「考えること」です。お金とか手間とかではありません。「考えること一番疲れること」なのです。

 

ドラッカーはこれから必要な人材として「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」と定義しています。

 

スペシャリストはある種「自己完結脳」です。

 

ある仕事を前にして彼(彼女)は考えるのです。

 

「コレってココから初めてコーやってするとコレがコーなるから。違うか。コッチからやるとコレがコーなるからコーするんだ」

 

と仕事を前にして「強力に考える」のです。

 

スペシャリストは有能です。ただ彼や彼女は自分に脳内の思考を動きをひとに伝えることはキホンしません。

 

スペシャリストにとってそれは「無駄なこと」です。

 

たとえば「一回教える」「一回やってみせる」ことで充分だとスペシャリストは考えています。

 

「見て仕事を盗め」というのも基本同じことです。

 

実際私はある店でフレンチトーストの焼き方を覚えたのですが「見て盗んだ」のです。

 

そのフレンチトーストを食べたことはありません。ただおいしそうだったのです。

 

だからママさんがしていたことを家でああでもないこうでもないとやってみて「出来るようになった」のです。

 

私自身スペシャリストでもあるので一頃よく思って(考えて感じて)いました。

 

「頼むからオレを疲れさせないで」と。

 

スペシャリストは「自分が仕事の前にあるいは仕事中に『考えていること』だけで強力に疲れている」のです。

 

だから「見て盗め」と言ってしまいます。

 

一方ジェネラリストの「脳」は違うのです。

 

ある店で店長兼エリアマネージャーをやっていたひとに対してDKのバイト君が「あの店長はパソコン仕事が好きで」と愚痴っていました。

 

そのひとはエリアマネージャーでもあるので「あの店の売り上げがこうで。人件費がこうで。あそこパートさん辞めたし」と必死で考えていたのです。

 

実際その店長の気晴らしは「皿洗い」でした。飲食店のシンクは二つ並んでいることが多いのです。

 

最初のシンクでだいたいの汚れを落として二つ目のシンクで油汚れを取って仕上げるのです。

 

ということは皿洗いは二人でもできます。

 

その店長はMさんと言ったのですがバイト君と「皿洗い競争しよう」と言ってドッチが早いかを競って時々遊んでいたのです。

 

Mさんはジェネラリストの仕事で疲れて「皿洗い競争」をして気晴らしをしていました。

 

落語にある話があります。

 

そのひとは植木職人の親方なのです。

 

そのひとはキセルをくゆらせてボーっと庭をみています。そしていうのです。

 

「私がこうやってると遊んでるとしか思えないでしょ。でも私がこうやっている時が一番働いている時なんです」と。

 

その親方はやはり仕事を前にして「強力に考えている」のです。

 

その親方は「庭の全体像」を当然考えています。「あそこをああすると。それだとあそこでバランスが悪くなるか。じゃあここをこうして。それでもなんかバランス悪いよね。じゃあこうして。そうするとアイツにはこれが任せられるな。アイツの助手には誰が良いのかな」と。

 

日本語で「段取り八分」といいます。

 

ジェネラリストはいわば「段取るひと」です。スペシャリストは「ある仕事をうまくやるひと」なのです。

 

その植木職人の親方は一見遊んでいるようなのですがその親方が現場に入ってこまごましたことをしてはダメです。いわばスポーツチームの監督をしているのですから。

 

スぺシャリトであって同時にジェネラリストというのはいわば「プレイングマネージャー」なのです。

 

ある種の有能なひとは「いざとなったら自分でやる」と思っています。

 

偉すぎて文句がいえないことが問題なのですが森英恵さんは戦略家です。

 

日本人のデザイナーがパリで相手にされないだろうと踏んでいたのです。だからファッションの中では地位が落ちるほかの都市でまずコレクションを成功させてパリに進出しています。

 

さらに「パリの針子さんが私をバカにするようなら自分で縫う」と決めていました。

 

万人にとって共通なものは一つだけでそれは「時間」です。

 

マネージメントが仕事のひとがこまごましたことをしたり口を出したりするのは「時間のムダ」です。

 

「スぺシャリトであって同時にジェネラリストであるひと」はタイムマネジメントがとてもうまいのです。

 

そしてある種の「人間関係方程式」を解くのもうまいのです。

 

あの仕事は「デザイン」なんだけど「デザイナーに任せるとその程度にしか行かないよね。イラストレイターとITの専門家の組み合わせなら面白くなるかな」と考えつくのです。

 

仕事をする時に「チームを組む」のですが「あのひとはアレが得意でこのひとはコレが得意でこれは苦手」という組み合わせを作るのがとてもうまいのです。

 

そして自分もある分野のスペシャリストなのです。

 

ほぼ日刊イトイ新聞が良い例です。

 

「声の系譜」でたどる 中森明菜

この文章を書いている時(2017年6月)に日本の代表する歌姫はおそらく宇多田ヒカルだ。以前に「日本人はアルト(女性の低い声)が好きだ」と書いたことがある。その時にはそうだとしか思えなかった。しかし私はその考えを改めた。東洋人の声は細い。戦後「空前」と言っていいほどの音楽上のブームが起きる。「浪曲」「シャンソン」「ジャズ」とうだ。

 

浪曲」と「シャンソン」と「ジャズ」にはある共通項がある。「声が太い」のだ。

 

私は「早すぎた大歌手」だと考えているのが江利チエミだ。彼女の声は「太くて強くてちょっとしゃがれている。そして明るい」のだ。そういう意味で江利チエミのことを私は元祖松田聖子だと考えている。

 

宇多田ヒカルの母親の藤圭子はやはり「太くてつよくてちゃっとしゃがれた声だった。でも哀感がある声」だった。

 

戦後の代女性歌手を「哀感がある声」という系譜でたどると「美空ひばり」「藤圭子」「山口百恵」「中森明菜」「安室奈美恵」「宇多田ヒカル」というつながりを見せる。

 

一方「明るい声」という系譜の女性歌手は「越路吹雪」「江利チエミ」「中尾ミエ」「南沙織」「松田聖子」というつながりをみえる。

 

ユーチューブで中森明菜の「秋桜(こすもす)」についていたコメントに私は注意を奪われた。

 

「このひとは女優だ」と書いてあったのだ。もちろんそのコメントに反発したコメントもあったのだが。

 

中森明菜の歌である時期以降よく見られることなのだが彼女は「発音が悪い」。「秋桜(こすもす)」の発音もやはり悪い。しかし「十分に聞き取れる」のだ。

 

発声の問題もある。山下達郎竹内まりやが「駅」を中森明菜に書いているのだが「歌の解釈に達郎が激怒した」という噂があって真偽は不明だ。

 

ただ達郎はいわば「声帯派のシンガー」だ。加藤登紀子山口百恵中森明菜は「話す発声」と「歌う発声」がほぼ同じだ。(追記しておくと例外として森進一がいる。あのひとは内臓で声を出すそうだ)

 

山下達郎の発声はイタリアオペラの発生にとてもちかい。達郎はブラックミュージックラバーとしてしられているのだがイタリア系アメリカ人の歌に多くの影響をうけている。代表はフォーシーズンんずのフランキーバリだ。

 

(余計なことなのだが私は日本語に半母音を再び入れて欲しい。wa wi wu we wo ya yi yu ye yo がある方が日本語としては普通だと思うのだ)

 

彼女の「発音が明らかに悪い」のに「明確に聞き取れる」ことが彼女が「歌のコトバをとても大事につかっていること」をあらわしている。

 

私は中森明菜にある時期までまったく興味がなかった。松田聖子の聞き方も変わっていたと思う。

 

高校時代に友人が「松田聖子はもう歌謡曲じゃない」と言っていた。特に松本隆が聖子プロジェクトに参加して以降の作家陣は(当時はそういう言葉はなかったのだが)J-POPの大御所たちだ。最初の頃は財津和夫松本隆が参加した後はユーミンを筆頭に大御所たちが続々と書いているのだ。

 

歌番組では「作詞」と「作曲」を紹介するのが普通だった。

 

松田聖子に関しては「やっぱりユーミンはいい」とか「大滝さんがかいたか」「尾崎亜美は当然かくよね」と私はどこか作家陣を追っていた。

 

私が中森明菜に興味を持てなかったのは彼女が「歌謡曲」をやっていたからだと今は思う。

 

ただなんとなく「トゥルーアルバム」というセルフカバーのアルバムを聴いた当たりから彼女への興味ががぜん沸いてきた。

 

普通歌手が自分のヒット曲のセルフカバーをすると「小ワザ」が増えるものだ。しかし「トゥルーアルバム」では小ワザはむしろ減っている。そして「歌がでかくなっている」のだ。

 

トゥルーアルバムを聴いて「歌手としての中森明菜」にたいする評価は確定した。

 

中森明菜は大歌手なんだ」と思ったのだ。

 

中森明菜の声が細くて軽い。

 

彼女のデビュー曲の「スローモーション」の時には彼女は歌手としては凡庸だった。良い言い方をすれば彼女はとても素直に歌っている。

 

松田聖子の声は「太くて強くて硬くて明るい声」だから素直に歌うだけでそうとう歌の世界が確立する。

 

しかし中森の声では素直に歌うだけでは歌の世界を確立させるのは不十分だ。そういう意味で「スローモーション」は凡庸だといわざるを得ない。

 

そして彼女は努力を始める。「鼻にどの程度かけたらいいのか」とか「同じ『アー』だとしても違う音色があるはずだ」とか一頃よくやっていた「大きなビブラート」であるとか。あるいは「リズム感」だ。

 

それはある種の「演劇性」だということも可能だろう。

 

中森明菜の声が細くて軽かったがゆえに彼女は女優になったのだろう。

 

ただ彼女はシンガーソングライターではない。私の彼女に対する疑問は「中森明菜には歌と巡り合うチカラがあるのかどうか」という点にある時期うつった。彼女がヒット曲を連発していて時期以降については私はよく知らなかったし。

 

でも彼女は確実に「いい歌」と巡り合っている。

 

「良い歌と巡り合うチカラ」も大歌手に要求されるチカラなのだ。

 

彼女クラスになれば10年に一回で充分だ。彼女は確実に巡り合っている。

 

中森明菜は大歌手なのだ。

 

そして中森明菜松田聖子もスキャンダルと言い方ではちょっと説明できないような出来事があった。

 

松田聖子はある時期明らかに日本中から嫌われていたし私もその時期の松田聖子は嫌いだった。そして中森明菜も私生活でいろいろあった。

 

そういう二人がある時期にアプローチはまったく違うのだろうが「マイウェイ」を歌うのだ。

 

こういう歌詞をまったく違うアプローチで歌うはずだ。

 

「私もいろいろあったでしょ。皆知ってるわよね。でも私はそれなりに頑張って来たつもりなの。そして今も歌えてしあわせだと思っている」という内容だ。

 

松田聖子中森明菜は「マイウェイ」を歌う「資格」をもった今の日本で数少ない歌手なのだ。

 

そして宇多田ヒカルの出現でに日本人の「太くて重い声」に対する憧れは大幅に薄れたはずだ。

坂口杏里さんについて 依存adictionの基礎解説

坂口杏里さんの事件が世間で話題になっています。この件についての詳細は私には不明です。

 

依存の発見

 

ただ「依存adiction」に対する一般の理解が薄いのでこの機会に軽く解説をしていおきます。

 

おそらく1970年代のアメリカ西海岸だったと記憶しているのですが「依存の問題」があることがわかりました。

 

当時パートナーが酒におぼれてひどい目にあっている女性を助ける動きが出たのです。女性たちが暴力を含めてヒドイ被害をあっていたので助けようとしたのです。実際シャルターのような場所を作ってなんとかヒドイパートナーから彼女たちを連れ出すことに成功した場合も多々ありました。当時はそれで十分だと思われていたのです。

 

しかしそうはいかなかったことが「依存は問題なのだ」ということがわかるキッカケになったようです。

 

彼女たちの中に「あの人は私がいないとダメなの」と言ってわざわざ本当に好意の人たちが必死に酒におぼれているパートナーの被害にあっている女性をシェルターに連れてきて種々の援助をした人々を裏切るように酒におぼれているパートナーのもとに帰る女性たちが多くいたのです。

 

その事実に「これはいったいなんだろう」と思ったことが依存が問題化するキッカケになりました。

 

「彼女たちはなんでわざわざヒドイ目にあうことがわかりきっているのにパートナーの元に帰るのか」というが当然疑問だったのです。

 

当時の結論は「酒におぼれて女性にヒドイことをする男性」と「その男性に耐えながらその男性の世話を焼く女性」は共犯関係にあるのではないかというものでした。

 

そういう女性の生育環境を調べていると父親がやはり酒におぼれていたことも分かったのです。

 

依存者と依存者のセルフイメージ

 

依存者については「こういう人たちだ」ということは指摘されています。それは「寂しいひとたち」だということです。

 

そして私も依存を抱えているのでわかるのですが依存者は「自分は意思のチカラが弱いダメなヤツだ」というセルフイメージをもっています

 

ではなぜ依存者がそういうセルフイメージを持つのでしょうか。これはあくまでも私の経験上の事柄です。

 

依存は何に出るのか不明だということもある時期以降はコンセンサスになっているのですが対象がここでは酒だとしましょう。酒が好きだというひとであっても暑い夏の日に「この喉の渇きをこのままにしてビールを飲んだらうまいだろうな」であるとか「良い音楽だな。この音楽には酒があうよね」という程度の「酒(依存の対象)への欲望」しか持っていないのが普通です。

 

しかし依存者は年がら年中とはいいませんが「日常的に酒を飲みたい。それも浴びるほど飲みたい」と強く思っているのです。そしてその欲望を自分の意思のチカラで抑えているのです。でもあまりにその欲望が強いので時々欲望に負けて酒(依存の対象)におぼれていまうという構造があるのです。

 

そういう構造上依存者のセルフイメージが「自分は意思のチカラが弱いダメなヤツだ」ということになります。

 

パチンコ依存とブレインサイエンス

 

以下は引用です。URLだけはって飛ぶようにしようかとも思ったのですが長いのですが引用します。「パチンコ依存症の治療法」というウェブからのコピペです。

 

----------------------------------------------------------------------------------

パチンコで脳に起こる変化

パチンコ依存症は精神科の分野ですが、精神と言っても実際には肉体、特に脳では物理的な変化が起きています。

脳内で肉体を制御している代表的な神経伝達物質として、行動を活性化させるドーパミン、行動の維持に必要なノルアドレナリン、行動を抑制するためのセロトニンがあります。

あるパチンコをする実験では健常者と比較して、依存者の脳内ではドーパミンノルアドレナリンが過剰な活動をしており、逆にセロトニンの機能低下が観測されました。

つまり、依存者はパチンコで必要以上の過度な興奮をし、持続性も非常に高く、ブレーキが利かなくなっている状態だと判断できます。

また、脳内の中にエンドルフィン類という物質があります。これはモルヒネと同じような働きをする物質で、「脳内麻薬様物質」とも呼ばれています。

エンドルフィン類の中でもβ-エンドルフィンは、好きなことをすると分泌され、体をリラックスさせ、心を落ち着かせる感覚を与えます。一方、なくなるとイライラし、体がβ-エンドルフィンを欲するようになります。

パチンコも好きなことであるので、好きなことをすればβ-エンドルフィンの増加します。パチンコに打ち込めば打ち込むほど、β-エンドルフィンが増え続け、得られる快感も大きくなっていきます。

やらなければ、β-エンドルフィンを欲します。一定のラインを超えるまで、β-エンドルフィンを欲する状態は持続します。

β-エンドルフィンの分泌と同時に、脳の興奮を沈静するためにコルチゾールという抑制物質も分泌されますが、パチンコで強い刺激を与え続けると脳の興奮、大量のコルチゾールによって一気に沈静化します。

しかし、逆に脳には快感を得たいという記憶が残っているために、欲求が生まれ、衝動が抑えられなくなるのです。

パチンコのようなギャンブルは急激な興奮状態を得ることから、抜粋された記憶が残りやすく、中毒性が高くなり、抜け出すことが比較的に手間がかかるとされています。麻薬と同じ感覚に陥るとも言えるでしょう。

パチンコ依存症は病気なのですが、表面上は身体的異常が見受けられないために、自覚するまで時間がかかります。自分で診断する場合は依存症の特徴を当てはめていくのが良いでしょう。

ある物質や行動への渇望、物質摂取や行動の制御の困難、禁断症状、軽度の不眠などの離脱症状、掛け金の増加、行動頻度の増加などの耐性、物質摂取や行動以外に対する関心の低下、障害を認知しながらの行動の継続が依存症の症状です。

軽度でも重度でも趣味から度を超えていると自覚したときには、すでに何らかの依存症状に当てはまっているはずです。

---------------------------------------------------------------------------

この記事でわかるのはパチンコに依存している状況は覚せい剤を常用している状況とほぼ同じだということです。覚せい剤を常用しているひとに「覚せい剤はやめろよ」というひとはいません。

 

私はなんでもかんでも依存のせいにするつもりはまったくありませんが「依存は病」です。ですから「治療が必要」なのです。

 

依存とお金

 

依存者は依存の対象に大金が必要になります。以前から(だから安くしろという意味ではまったくないのですが)依存者は大金が必要になるという指摘がありました。

 

名前はいちいちだしませんが芸能人やアスリートで薬物やギャンブルに依存しているだろう人々がワダイになりました。だけれども彼らがお金持ちだったために表面化しなかったのですがたとえば覚せい剤は当然高価です。

 

私は「だから安くしろ」というつもりで書いているワケではまったくありません。ただ現実問題として「依存者には大金が必要になる場合が多々あります」。

 

パチンコでも一日で10万すってしまうことは十分考えられるのです。

 

依存者は大金が必要だという理由で「平気でウソをつく」「借金をする」「親をだます」ことがよくあってそういう理由での破滅の事例もよく報告されています。

 

杏里さんの事例

 

杏里さんが依存者かどうは私には不明です。ただ彼女がしていることをなんとなく眺めていると彼女がしていることは「坂口杏里は頭が悪い」というレベルのことではありません。「坂口杏里は頭がおかしい」というレベルのことなのです。

 

これは彼女への悪口ではありません。彼女の行動がそこまで異様だという指摘です。

 

依存は対象が何になるのは不明なのです。

 

これは仮定なのですがもし杏里さんが依存者であるならばなんらかの治療が必要なのです。

 

そういうことがあるので精神科医の先生方が強く非難されることもあるのですがたとえば覚せい剤の常用者は「犯罪者」です。しかし精神科医にとっては「患者」なのです。ですから精神科医の元に覚せい剤の常用者が相談に来ても通報する義務が医師にはありません。

 

坂口杏里さんは「ホスト依存だ」といわれています。普通にかんがえばただのバカです。

 

しかし彼女がもし依存者であるならば彼女は「病者」であり「治療が必要」なのです。

 

おそらくそういう風にみている精神科医も多数いるはずです。

 

これは精神疾患にだけ使われるコトバなのですが「病識」という言葉があります。「病識とは自分は病んでいると自分で認識すること」です。

 

ある友人は明らかに精神を病んでいましたが彼は「自分はニートかもしれない」と言っていました。そうではありません。彼は病んでいて治療と休息が必要なだけだったにも関わらずです。

 

私も「病識」がない時期の方が多かったのです。

 

依存に対する決定的な治療法はまだ確立されていませんが坂口杏里さんの行動をマスコミを通してみていると私には「坂口杏里には治療が必要だ」としか思えないのです。

 

治療的司法

 

再びコピペです。これは成城大学のウェブからです。

 

--------------------------------------------------------

治療的司法研究センターについて

 治療的司法という言葉は英語のtherapeutic justiceの訳語ですが、刑事司法制度について犯罪を犯した人に対して「刑罰を与えるプロセス」と見るのではなく、犯罪を犯した人が抱える「問題の解決を導き、結果的に再犯防止のプロセス」と捉えようという考え方、すなわち治療法学(therapeutic jurisprudence)に基づく司法制度を指します。
 既に諸外国では、こうした考え方に基づいて実際の刑事司法がデザインされていて、そうした裁判制度は「問題解決型司法(problem solving court)」と呼ばれています。具体的には、薬物依存症者を対象にした「ドラッグ・コート(Drug Court)」や精神障害犯罪者を対象にした「精神障害者コート(Mental Health Court)」、DV加害者を対象にした「DVコート(Domestic Violence Court)」などが有名です。
 犯罪を行った人の中には法律で禁じられた行為に至るまでに、その生活で何らかの原因(各種の依存症)や生活上の問題を抱えている場合が少なくありません。そうした原因・問題を除去することができなければ犯罪を繰り返すこと、再犯に容易に至ってしまいます。もちろん刑罰による犯罪抑止効果を否定するものではないのですが、現在、世界各地で刑罰では抑止できない行為を色々な科学的知見に基づく治療法や解決法によって抑止する機会を司法制度の中に取り込む工夫が進められているのです。それこそが、治療的司法という考え方です。
 本センターはこうしたtherapeutic justice/therapeutic jurisprudenceについて調査や研究を専門に実施するわが国で初めて設立された研究機関です。
 また、本センターは、単独で調査研究を進めるだけではなく、治療的司法の考え方に賛同し、共通する価値観を持った問題解決支援者や依存症離脱支援者等の様々な団体やグループと連携してネットワークの構築を進め、多様な依存症(嗜癖や嗜虐)を抱える人々を支えることのできるセーフティネットとなるような社会の仕組み作りに参画します。

注記
 本センターは調査研究機関ですので、依存問題や法律問題を抱えられている方々の回復支援業務や問題を解決するための相談活動を行っておりません。そうした問題を抱えている方々やご相談の必要のある方々のためには、関係機関や支援団体等のリンク集を別に用意していますので、それらを参考にして頂きますようお願いいたします。
治療的司法研究センター連絡先
送付先(研究機構事務室宛)
〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20研究機構事務室内治療的司法研究センター宛

 

--------------------------------------------------------------------------

「奴らは犯罪者だろ。刑務所にいれればいいじゃないか」という考えが一般的なのだと思います。そうかもしれません。ただ問題は「再犯」なのです。

 

わかりやすい例が覚せい剤です。覚せい剤に依存しているひとを刑務所に入れても彼らの依存の治療が行われない限り彼らが再び覚せい剤に手を出してしまう可能性がとても高くなります

 

それがギャンブルや他の依存であっても同じことです。

 

私は杏里さんには治療的司法が必要だとしか思えません。このブログの読者の方で杏里さんを治療的司法につなげてくれるひとがいればいいと私は願っています。

アートって「ひまつぶし」じゃないから 「表現」にはコア(核)がある コドモのチカラ

あんまり具体的に書けないのですが「表現」とか「アート」をやっている人たちの中に「表現」や「モノづくり」を「ひまつぶし」でやっているひとがいます。そういう仕事が評価を受けたりするからイヤなのですが「こねくりまわした仕事」は早く終えてください。

 

私はなぜかロシアが好きでシャガールとかドストエフスキーとかストラビンスキーとかムソルグスキーとか子供の頃から好きなのです。

 

チャイコフスキーもそうなのですが「子供にとっておもしろい」のです。

 

ストラビンスキーもムソルグスキーチャイコフスキーも「子供にとってすごく面白い音楽」なのです。(少なくとも私にはそうでした)

 

私は画廊に普通に行きます。そして「この絵って」と普通に画廊のひとと話をします。私は「自分の中いる子供」に自信をもっているからです。

 

私は絵を描くのですが基本写真を見ながら描きます。そういう描き方は邪道なんだというひともいますが私はそうは思いません。

 

「表現」にはコア(核)があるのです。そのコア(核)が弱いと「ひまつぶし」や「こねくりまわした仕事」にどうしてもなります。

 

そのコア(核)を磨く方法を書かないと世間に喧嘩を売ることになるのでその方法を書いておきます。

 

「遊ぶ」のです。その「遊び」というは刹那的なものでも享楽的なものでもありません。「喜び」を追い求めるのです。その「喜びをでかく」するのです。

 

酒を飲む女の子と遊ぶということも「喜び」です。でももっと「でかい喜び」を追い求めるのです。

 

それをあえてコトバにすると「子供になる」のです。

 

ちょっと難しいコトバを使うと「無意識領域」で「遊ぶ」のです。

 

私が「こねくりまわした仕事」だと批判したのは「意識領域」での工夫なのです。

 

物語でも小川未明の童話はつじつまがどうあっているのかが不明な場合があります。

 

小川未明童話集 (新潮文庫)

小川未明童話集 (新潮文庫)

 
野ばら

野ばら

 

 無料本もあるので読んでみてください。

 

童話なのですがどこか薄気味悪い小川未明の童話は小川未明は無意識領域にまで降りていくのです。結果「つじつまがどこかあわない」ということにもなるのです。

 

「こねくりまわした仕事は逆」です。

 

パフュームの三人がいくらがんばっても評価を受けるのは中田ヤスタカではあるよねと思って彼女たちにたいしては独特の気持ちでいますがパフュームのアルバムで「GAME」というタイトルのものがあります。

 

アートってGAMEじゃないのです。クイズでもありません。

 

中田ヤスタカがあえて「GAME」というアルバムタイトルをつけたのは彼の仕事がGAMEではないからなだと想像しています。

 

私がいうコア(核)がない人達は「うまい」です。コア(核)がないからテクニカルにしかならないのです。

 

なんで表現者が子供にならないのか私には不思議でなりません。

 

「子供のなりなよ!あんたら」

編集の時代 署名原稿 メリル・ストリープのスピーチ トランプさんのツイッター

フィクション(創作物)や信頼できるジャーナリストの著作はとても勉強になります。

 

新聞を今僕は取っていません。でも取るとしたら3誌は取らないととも思うのです。「地方誌」と「リベラルな論調の新聞」と「保守的な論調の新聞」の三誌です。

 

今は「国会議事録」も読めます。だけれれども僕はジャーナリストではないのです。

 

最近で「オレ何してるんだろう」と思ったことがありました。

 

メリル・ストリープがトランプさんのCNNの記者の対する態度に対する抗議の意味のあるスピーチをしたと聞き「メリル・ストリープのスピーチ全文をユーチューブで見た」のです。あるいはトランプさんの演説全文をやはりユーチューブで見ました。

 

僕はジャーナリストではありませんしこういうことを僕にさせないで欲しいのです。

 

僕はそこいらにいるオジサンなのです。ジャーナリストではありません。

 

批判は当然です。だけれども「紹介」して「解説」して「評論」でしょ。

 

池上彰さんや佐藤優さんは「解説」してくれますし「評論」(批判が多いのですが)もあります。でも「紹介」してくれるひとというかワクがとても狭いのです。

 

「ワイドショーってすごいな」と思ったことがあります。出先でテレビがついていたのです。小池百合子さんの演説を長々流していました。東京は大都会で日本の首都ですが小池さんは地方都市の一組長さんにすぎません。

 

僕はそんなに応援していませんがそういうことをするくらいなら安部さんの演説を聞きたいのです。「紹介」という意味です。識者の「解説」も「評論(批判が中心になるのでしょうが)」も読みたいのですがまず「紹介」をしてください。

 

ネット上のまとめサイトを僕はみません。まとめたひとの「主観」が入るからです。

 

メリル・ストリープの「強さ」を僕はそんなに楽しめませんでしたが「マンマミーア」を観て「そうだったんだ」と思いました。彼女は女性に愛されるスターです。

 

マディソン郡の橋を観て僕にはさっぱりわからなかったのですがあの映画は中年女性が見てうっとりする映画なのでしょう。性別男の僕には「意味がわからなかった」のは当然でした。

 

トランプさんがツイッターで過激な発言を繰り返しています。

 

僕はトランプさんをそんなに応援していませんしCNNの記者に対する態度はいかなる理由があってもしてはいけないことです。

 

だけれどもCNNはリベラルな論調のテレビ局ですからトランプさんにすれば「CNNはオレが何を言っても何をしても悪口しかいわない」と切れてしまったのでしょう。繰り返しになりますがいかなる理由があるとしてもあのような言動は取ってはなりません。

 

また「個人」でツイッターを使ってもなりません。もしSNSを使うのならば「大統領府」まで落としてFacebookをやるのが筋です。

 

何故なら「トランプさんは公人だから」です。

 

「公人」とは「そもそもとても居心地の悪いもの」なのです。「居心地のいい公人なの原理上存在しない」のです。

 

それは昔からわかっていることです。ある童話があります。「王子と乞食」です。(僕は貧困問題を放っておけという意味でこの童話を取り上げるのではありません。貧困問題は想像以上に深刻なのです)

 

王子は自分が王子だということにうんざりしています。乞食の少年は当然乞食なんてイヤです。たまたま姿が似ている二人は立場を入れ替えるのですが「王子ってこんなに大変だったんだ。乞食ってこんなに大変だったんだとお互い思い知る」という話です。

 

ただ僕が暇人だからトランプさんの演説全文もいくつか聞きましたが「こういうニュアンスだったんだ」とは思いましたよ。(今は英語も日本語も堪能なひとがいくらでもいるので翻訳がネット上にあるのです)

 

僕自身そういうことを試みて失敗したことがあります。「嫌韓」のムーブメントが強まった時に「韓国人の友達を作りたいな」と思ったのです。あるいは「在日」ってよくいいますよね。あなたの友達に「在日韓国人」あるいは「在日朝鮮人」がいますか。

僕は知人に一人いるだけです。

 

メリル・ストリープのスピーチはとても効果的なものでした。ハリウッドの著名人を次から次へと上げていって「あのひとはどこ出身です。あのひとはどこ出身です」とずっとやっていったのです。つまり全員「移民だ」ということです。

 

トランプさんはよく「移民」と言っていました。僕の想像ではUSピープルの中で「移民」という言葉はとても抽象的なものでしかなかったと思うのです。それがメリル・ストリープのスピーチで「とても具体的になった」のです。クリエーションに対する見解も素敵でした。

 

でもあなたはそういうことを知らなかったのではないですか。

 

「編集の時代だ」ということは間違いありません。

 

だからこそ「編集したひとは責任を持つのが筋」なのです。

 

具体的にいうと「安部さんがこういったと土本クニシゲが書きました」という構造をはっきり見せる必要があるのです。

 

「トランプさんがこういったとCNNの誰それが言っています」という構造です。

 

メリル・ストリープのスピーチはこうでしたと土本がまとめました」という構造です。

 

新聞にも署名原稿が増えています。

 

ネット上の記事で僕が「これってテイストが似すぎているんだけれども」と思ったこともあります。全部違う記事でした。でも「これだけテイストが似ているということは同じひとが書いている可能性がある」としか思えなかったのです。

 

雑誌ではこういうことは昔からありました。ある一頃司会者もしていた音楽家がよっぽど腹に据えかねたのでしょう。ある番組でそういう話をしていました。

 

そういうことをことさらにいうひとではありません。でも本当に腹に据え変えていたからこその発言だったと思います。

 

音楽家の男性がある女優とつきあっていたとその女優の名まえを出していました。そしてその女優のファンのライターが二人が付き合っていることを知って二人を別れさせるために音楽家のスキャンダルを(全部ウソだったそうなのですが)雑誌に書き散らしていたそうなのです。ダテにライターではなくウソなのですが読むとリアリティがあったそうでその件が原因でその女優と別れたそうなのです。

 

あるいは室井佑月さんが妙に自分の悪口が雑誌にのると思って調べてみたら二人のライターが室井さんの悪口をアッチコッチに描き散らしていたらしいのです。

 

ネットも「匿名だからダメなんだみんな本名でやろう」という提言があります。

 

プロマスコミは新聞だろうと雑誌だろうとネットだろうと当然署名原稿でしょ。

 

「編集の時代」なのだから当然ですよね。