世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

情報革命でホワイトカラーとブルーカラーがなくなります  今の大学と高校もなくなります オルタナティブイグジスタンス(もう一つの存在)

ずっと大げさかなと思っていたのですが今(2018年)は情報革命の真っただ中です。

 

これは人類が経験する3回目の変化なのです。

 

1回目は人類が農耕を始めた時です。農耕を始めることでいわゆる古代文明が産まれています。

 

2回目は産業革命です。

 

ちょっと産業革命について考えてみましょう。産業革命によって「工場」が産まれています。その前は家内制手工業でした。

 

「工場がある」ということはそこで働くひとが必要になります。つまり「工場労働者=ブルーカラー」が必要となったのです。

 

そして産業がある段階に達すると多数の「オフィスワーカー=ホワイトカラー」が必要になります。

 

日本にはもともとたいした数の大学はありませんでした。しかし日本という国が多数の「オフィスワーカー=ホワイトカラー」をある時期に必要としたので多数の大学が産まれたのです。

 

今は人類史上3回目の変化である「情報革命」の真っ最中です。情報革命が成立するとまず「ホワイトカラー」、ついで「ブルーカラー」が必要ではなくなるのです。

 

もちろん職業は常に産まれてくるものです。たとえば私は長く精神科医の世話になっていますが彼らから私は「触ってもらったことがない」のです。

 

「ひとに物理的に触る」仕事が減ることはないでしょう。

 

そういう意味でいうと医師はそんなに必要ないのですが看護師、介護士は多数必要なのです。

 

今は情報革命の真っただ中です。ホワイトカラーとブルーカラーが必要なくなってきています。

 

私はあのひとに深く同情していますが森友事件で国会に呼び出された佐川さんは本来「ホワイトカラーの頂点にたつひと」です。

 

受験に勝ち抜いて東大法学部に入り、就職戦線でも勝ち抜いてキャリア官僚(それのキャリア官僚のトップである財務官僚)になって、そこでもまた勝ち抜いて出世したひとなのです。

 

しかし現実に佐川さんはああいうことになってしまったのです。

 

日本国民は森友事件で「良い学校に行って、良いところに勤める時代は終わった」と知るべきです。

 

と同時に「ホワイトカラー養成機関としての大学」「ブルーカラーの養成機関としての高校」の存在意義もなくなったのだとわかる必要があるのです。

 

たとえば「漢字」をある程度読めてかけるような素養は必要です。あるいはいわゆる古典をそらんじることができるような素養も必要です。

 

だけれども「今の大学」と「今の高校」はもはや必要とされなくなっています。

 

じゃあ「お前はどうすればいいと思っているんだ」とあなたは聞くと思います。

 

一見ムダのように見える「オルタナティブ(もう一つの)存在」をたくさん用意するのです。

 

以前はフリースクールといわれていた、いろんな事情で学校に行けなくなったひとがいく学校もオルタナティブスクールといわれいます。

 

スローライフ」もオルタナティブな暮らしです。

 

とにかくありとあらゆる「オルタナティブな存在」を山のように用意するのです。

 

学校に関していえば不登校に陥ったお子さんの頭の中や行動は二者択一になっているはずです。

 

1、家でだらだらする

2、死ぬほどイヤな学校に行く

 

こういう状況に対してオルタナティブイグジスタンス(もう一つの存在)を用意するのです。

 

彼らが自分で自分を責めずに済むようなオルタナティブスクールを作るのです。

 

寺子屋のような個別指導が良いでしょう。個別指導というと大変そうですが、簡単です。本人に「やる気のスイッチ」が入ってから教えることになるのですから、勝手に勉強してもらって、わからないところを質問してもらうだけでいいのですから。

 

「やる気のスイッチ」が入る前は(意外と子供はああいうものが好きなので)漢字の書き取りドリルや計算ドリルをやってもらうのです(公文式ですね)

 

これは学校なのですがオルタナティブファクトリーオルタナティブオフィスがあってもいいはずです。

 

アップルもガレージカンパニーからのスタートでした。いわばスタート時のアップルは「オルタナティブファクトリー」であり「オルタナティブオフィス」だったのです。

 

とにかくありとあらゆるオルタナティブな存在(オルタナティブイグジスタンス)を用意するのです。

 

これが日本の生きる道です。

テレビって「絵柄」を良くしたいんだろうけれども スポーツジャーナリストを起用しましょう

テレビ制作のワナとして「絵柄」をよくしたいというものがあるような気がします。

 

出演者の顔ぶれをよくしたいというワナです。

 

どこのテレビ局が始めたのか私は知りませんが、イケメン美女の元アスリートをスポーツキャスターに起用している場合があります。

 

選手として一流だったとしても、スポーツキャスターやスポーツ解説で一流かどうかは別問題です。

 

増田明美さんのマラソンの解説が私はとても好きです。増田さんは山のように小ネタを仕込んでいるのです。

 

元一流アスリートでもスポーツキャスターなりスポーツ解説をするのなら勉強が必要です。

 

そういう勉強をする余裕がないままに元一流アスリートがスポーツキャスターになってしまうと本人も困るでしょうし、見ていても情報が伝わってこないのです。

 

良いスポーツジャーナリストは日本にもそうとういます。

 

彼らは主にラジオで活躍していますが。(あるいは文章を書いています)

 

そういう人達から教えられることが私はとても多いのです。

 

でも「この番組のこのコーナーって、どういう趣旨のコーナーなんだろう」と考え込んでしまう番組コーナーもよくあります。

 

サンデーモーニングのスポーツコーナーもそうですね。別に悪意はないのですが、あのコーナーの存在意義が私にはわからないのです。

 

まだ「喝!」とかやっているのでしょうが。私はあのコーナーが嫌いな訳ではないのです。コーナーの趣旨(存在意義)がわからないのです。

 

スポーツ界の大御所が「喝!」とテレビでいうことにどんな意味があるのでしょうか。

 

私には「意味がない」としか思えないのです。(そういう理由で最近見ていませんが)

 

テレビ視聴者がああいうスポーツ界の大御所と自分を重ねて「偉いつもりになっている」のでしょうか。

 

スポーツ界の大御所と(少なくとも)私は全然違います。

 

ああいうことをテレビ番組でやる意味や価値が私にはさっぱりわからないのです。

 

テレビ視聴者ってそんなに「偉い気分」になりたいのでしょうか?

 

あなたにはそんな悪趣味はないですよね。

 

普通にスポーツジャーナリストを起用すればいいだけなのですが。

ある記者会見について 不愉快でした

レスリング界でなにか問題があったようです。その詳細を私は知りません。

 

ただあるひとの記者会見の一部をたまたまNHKのテレビニュースで観ました。

 

見ていて私はとても不愉快になりました。

 

その方に問題があるのかどうか私は知りません。

 

ただ見ていて不愉快にしかならない記者会見だったのです。

 

私は心穏やかに暮らしたいのです。

 

そういうことがあるので私はウカツにテレビを観ることができないのです。

ニュースキャスターって「まいあさラジオ」の形式で良いと思うんですよ 「教えてもらうプロ」

まいあさラジオはNHKで朝5時からやっているニュースを中心とした番組です。

 

この番組を担当しているアナウンサーがよく言うのです。(この番組はスペシャリストがよく出演するのですが)

 

「教えていただきました」と。

 

どんなひとであっても「専門分野」があります。私の専門分野は「世俗のこと」と「抽象的なこと」です。

 

そもそも「なんでも知っている必要性はない」のです。

 

だいたいグーグル先生以上にモノを知っているひとはいないはずです。

 

「ひととしても安定感」があればニュースキャスターは「教えてもらうプロ」になればいいはずです。

 

だいたい知識を見せびらかすのはみっともないことです。

 

私は若いひとから褒められたことがあります。

 

「土本さんのインプット力はスゴイですね」と。

 

私はたぶん精神的に「おとな」です。でもある種の「成熟感」もあるのかもしれません。

 

「私に見ていて欲しい」という態度を取られたことや「私に見られていること」で安心感ももったひとも複数いるのです。

 

でもインプットはします。しかも「自分のいいように変えないでインプットする」のです。

 

ある若い女性に心底腹が立ったことがあります。

 

私がその時に「成熟」といったのです。彼女はあえて「成長」と、私の言葉を訂正したのです。

 

彼女いわく「死ぬまで成長」なのだそうです。

 

ですが彼女は私の言葉を、ことさらに訂正したのです。ということは彼女には「成長の意志がない」のです。

 

成長を違うアプローチで考えると「変化」です。

 

彼女は「自分の変化を拒むひと」でした。私がある件で彼女の失敗を(二人だけの時に)指摘したことがあります。(あえて皆の前ではしなかったのです)

 

彼女は「言い訳」をして「ひとのせい」にしました。明らかに彼女のミスだったのですが。

 

そういうひとは当然「変化」も「成長」もしません。自分のつまらない見栄にしがみつういて生きていくのでしょう。

 

こういうことに年齢や性別は関係ありません。

 

私は教えてもらうことが若い頃からずっとうまかったのですが、彼女みたいなひとは「教えてもらうのがイヤ」らしいのです。

 

そうなった瞬間にそのひとの成長はとまってしまうのですが。

 

私は観ませんが討論番組がありますよね。

 

討論番組で「その考え良いですね。私は考えを変えます」というひとがいません。

 

「私」と「私の考え」は違います。

 

「自分の考えが変わらないひと」はバカです。

 

全コラムニストがコラムの出版を嫌います。理由は「考えが変わっているから」なのです。

 

今私はこういうことを書いています。でも当然「考えは変わる」のです。

 

二回目ですが「考えが変わらないひとはバカ」です。

 

「教えてもらうことがうまいひとは優秀」なのです。

もうアナウンサーは必要ないのかもしれない

日本語にはいろんな種類があります。明治に入って無理やり言文一致させたこと自体そうとう無理やりでした。

 

今日本に「アナウンサー」という仕事があるのは「言文一致」と「日本共通語」の存在ゆえです。

 

あなたは言文一致はわかるが「日本共通語ってなんだ!」と思ったのかもしれません。

 

ある時期までは日本人は違う言語を使っていたのです。その中で何を「共通語(あるいは標準語)」にするのかという問題は存在しなかったのです。

 

そもそも長く日本人は「藩」の中で一生を終えるのが普通でしたし、全国共通の「言語」は必要なかったのです。

 

東京人ならわかるはずですが「東京弁」と「標準語」とは違います。

 

「標準語は人工言語なんだ」と考えた方がいいのかもしれません。

 

知らなかったのですが「おかあさん」という日本語は明治政府が作ったのだそうです。

 

日本が明治というステージに立った時に「全国標準語」が必要となったのです。

 

同時に明治政府はある必然性に迫られました。明治の一般庶民に江戸以前の文献を読めなくしたのです。だから明治の偉い人たちは言葉を変えたのです。

 

近松源氏物語も明治の一般庶民に読んでもらってはこまる状況になったのです。

 

今の一般の日本人が読めるのは明治以降の文章です。これは明治政府の仕組んだことが原因なのです。

 

アナウンサーの話に戻りますが、「アナウンサーはかまないことが重要」です。

 

でも、あなたは「かまないで話す人たち」を日常的に接しています。

 

例えば駅員さんやバスの運転手さんです。あの人たちは独特の発音、発生、イントネーションに話します。独特です。でも、あの人たちは「かまない」のです。

 

あるいはセリがあります。市場のセリ人のことを考えてみてください。だみ声です。独特の発声、発音、イントネーションです。でもあの人たちも「かまない」のです。

 

一応「正しい日本語」という規範は必要なのかもしれません。でも今(2018年)の日本なら、そこまでその規範は強力である必要性はすでにないと私は思うのです。

 

私はいわゆるニュース番組は観ないのですが日本テレビの「ニュースゼロ」を見てキャスターの小山慶一郎さんをとても好ましく思いました。

 

抜群の安定感なのです。ただ髪型が変わっているとは思っていたのです。そうしたら彼はジャニーズ事務所のアイドルだったのです。

 

小山さんがあれだけやれるということはもはや「アナウンサー」という仕事は必要ないと私は思いました。

 

野球の中継にしてもサッカーの中継にしても、今となっては「アナウンサ-」ではなくDJが放送していいと思うのです。

 

実際サッカーやバスケットの試合の時にはDJがいて会場を盛り上げています。

 

彼らの日本語も独特です。

 

Jーwaveを代表する「話し手」はクリス・ケプラーさんです。ケプラーさんの日本語も独特です。

 

NHKのアナウンサーの日本語とは明らかに違うのです。

 

私は行ったことがありませんが、「クラブDJ」の日本語も独特です。

 

ここまでいろいろな「話す日本語」がある以上、そしてそれぞれの「話す日本語」が成立している以上、もはや「アナウンサーという仕事」は必要がなくなったと私は考えています。

 

有働由美子アナウンサーの「失恋ソング三昧」で考える 今(2018年)は過渡期です

NHK-fmでは祭日に「今日は一日○○三昧」という放送をします。昨日は有働由美子アナウンサーが出演して「今日は一日失恋ソング三昧」を放送していました。

 

私はハナレグミが出演している部分をちょっと聞いていたのですが、聞くのが恥ずかしくなって聞くのも辞めてしまいました。

 

別に有働さん批判ではないのですが「あの私が感じた恥ずかしさってなんだったんだろう」と考えていたのです。

 

答えは「生生しさ」でした。

 

私が個人的なことを話す時には「ネタ」にします。

 

あるひとが私の話を聴いて、「その話はそのままオレが他のひとに話せますね」といっていました。

 

ネタにすると、そういう「一般性」が発生します。

 

有働さんの話は「ネタ」になっていなかったのです。

 

有働さんも大変なことは当然あるのでしょう。でも有働さんの大変さは「特権的なもの」ではないのです。

 

私にだって、このブログを読んでいるあなたにだって「大変なこと」はあります。その「大変さ」は同じ意味、同じ価値をもっているのです。だから有働さんの「大変さ」は特権的ではないのです。

 

ですから有働さんがご自身の「大変さ」をラジオで話すのであれば「ネタ」にする必要があります。

 

「ネタ」にできないのであれば「放送」という公(パブリック)な場ではないところだけで話すのが筋です。

 

私はネットニュースでそういうことがあったと読んだだけですが有働さんの自宅周辺に週刊誌の記者が集まって有働さんが大変迷惑をされていたそうです。

 

もし有働さんの個人生活が特権的だからラジオで話してもいいんだとお考えなのだとすれば、有働さんはご自身がスキャンダルまみれになる覚悟が必要です。

 

記憶がちょっと不確かなのですが薬師丸ひろ子さんと小泉今日子さんと有働由美子アナウンサーの3人での鼎談をNHKが放送したいたはずです。

 

薬師丸さんも小泉さんもスキャンダルまみれになった経験があります。

 

彼女たちの私生活が「特権的」とみなされたからです。

 

私は芸能人や著名人の私生活が特権的だった時代は「もう終わった」と考えています。

 

今(2018年)は過渡期ですが、SNSでのフォロアーも多数抱えているのは必ずしも芸能人、著名人ではありません。

 

それは「誰かの私生活が特権的である時代の終わり」を意味しています。

 

記憶が不確かなのですがシャーロックホームズシリーズに、国際条約の大事な手紙の行方がわからなくなって、シャーロックホームズに仕事が依頼される事件があったと記憶しています。

 

その時代であれば「国同士の約束事」の重要度はとても高いものだったはずです。

 

(二回目ですが)今は過渡期です。

 

今(2018年)においては「国同士の約束事」の重要さと「ある零細企業の約束事の重要さ」がそこまで変わらなくなっています。

 

「意味」や「価値」の民主化、大衆化が日本では発生しているのです。

 

私はさっき「放送は公(パブリック)だ」と書きました。それは私の「感性」が古いからです。同時に有働さんのスキャンダルを追い求める記者の感性も、もはや古いのです。

 

あなたはSNSは「公(パブリック)」だと思いますか、それとも「私(プライベート)」だと思いますか?

 

どちらとも言えないはずです。

 

私はもうSNSには飽きているのでしませんがSNSは「公(パブリック)」と「私(プライベート)」の中間にあるのです。

 

そういう意味でいうと「公式ブログ」なるものの必然性と奇妙さが見えてきます。

 

「ブログ」は個人情報(プライベート)を発信する場です。それに「公式(つまりパブリック)」という名前がついているのです。

 

普通に考えるとこれは論理的に矛盾しています。

 

「公式ブログ」は「パブリック」であり同時に「プライベート」なものなのです。

 

デジタルネイティブスピカーや「Y世代」の感性がこれからの日本にとって、とても重要なのです

 

彼らの中からイノベーターが現れます。

 

現にそういう世代は大人からの評判が悪いのです(「今の若い連中はすぐ仕事を辞める」とかいう批判があります)

 

でもそれは彼らの「価値観」が既成の「価値観」と相いれないからなのです。

 

私はオジサンとして彼らの「価値観」を応援します。私の「感性」はもはや古いのです。

どうやら「プライバシー」がなくなるようです 「Y世代」

プライバシーという英語は日本でもそもまま使われています。私があえて日本語訳すると「個人的秘密」となるのですが。

 

ミステリーを中心に「プライバシー」の推移を考えてみたいと思います。

 

ミステリー(推理小説、旧名称は探偵小説)というジャンルがあります。

 

エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」(1841年)が近代ミステリーの始まりだといわれているようです。

 

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

 

 

今ポーの人生をウィキで読んだのですが壮絶です。

 

そしてアーサー・コナンドイルのシャーロックホームズで花開くのです。

 

緋色の研究 新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫)

緋色の研究 新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫)

 

 

政府の要人であるとか王室のひとならいざ知らず一般庶民に「個人的な秘密」がそもそも必要なんでしょうか。

 

そういうこと私が考えはじめたきっかけは日本のミステリーです。

 

江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」と横溝正史の「本陣殺人事件」です。

 

屋根裏の散歩者
 

 

 

屋根裏の散歩者 人間椅子 パノラマ島奇談 (江戸川乱歩集)

屋根裏の散歩者 人間椅子 パノラマ島奇談 (江戸川乱歩集)

 

 

 

本陣殺人事件 (角川文庫)

本陣殺人事件 (角川文庫)

 

 

「屋根裏の散歩者」に関してはネタバレになるのでストーリーを紹介することはできません。ただ「本陣殺人事件」の斬新さはヒントになります。

 

「本陣殺人事件」は日本家屋では「密室殺人は不可能だ」という定説を覆した作品なのです。

 

私が問題にしたいのは「密室」です。

 

排泄であるとか性的なことは人に見られたくないのが普通です。それはそうです。

 

だけれどもそれ以外のことは、そもそも隠す必要があるのでしょうか。私はないと思います。

 

ある世代の日本のビジネスマンが海外赴任すると困っていました。日本では実現不可能なくらいの良い暮らしができるのですが。

 

その暮らしというのはコックさんもいてメイドさんもいる暮らしなのです。

 

ビジネスマン本人もその家族も「家の中に他人がいるので緊張してしまう」という理由で困っていたのです。

 

アメリカでは「Y世代」という言い方があるようです。「Y世代」は日本にもいます。

 

日本でもアメリカでも「Y世代」は今の大人からは評判が悪いのです。

 

でも「Y世代」の感覚はとても現代的です。物心ついた時にはもうSNSがあった世代です。

 

彼らは自分のプライバシー(個人的な秘密)をSNS上でさらすことに抵抗がないようなのです。

 

世阿弥が「秘すれば花」といっています。ある種のことは隠したほうが魅力的です。

 

この本も面白かったのですがロバート・ハリスさんの「アウトサイダーの幸福論」です。

 

 この本の中でハリスさんが昔の日本を振り返っています(ハリスさんは横浜生まれの横浜育ちなのです)。

 

昔の日本家屋には「縁側」があって、家と外界を明確に隔ててはいませんでした。

 

私の記憶でも、私の子供の時代(私は田舎の育ちですが)そもそも玄関がないのは普通でした。縁側はマージナルっていうか「ウチ」と「ソト」の真ん中にあったのです。

 

そういうところで家(ウチ)のひとと近所(ソト)のひとが世間話をするのは普通だったのです。

 

ものすごくお金持っている家は違っていたのでしょうが、そういう家はホンノ一部だけでした。

 

「本陣殺人事件」に戻るのですが、いわゆる日本家屋は部屋と部屋をふすまや障子で隔てます。

 

ふすまや障子で隔てるということは音は筒抜けなのです。

 

簡単な話「隠すから見たくなる」のです。

 

私はあの二時間ドラマがミステリーを終わらせたと考えています。

 

市原悦子さんが主演を務めていた「家政婦は見た」です。

 

家政婦は見た! DVD-BOX1

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私のこのシリーズを一作だけ見ました。最初「当然殺人事件かなにか起きるのだろう」と考えていたのです。その謎解きをいっかいの家政婦である市原悦子さんが解く話なんだろうと思い込んでいたのです。

 

でも私が見た作品では何も起きなかったのです。ただセレブリティといわれている人たちがいかに醜悪かを家政婦さんがさんざん見て、あまりの醜悪さにたえられなくなって、その家を去って行くだけの物語だったのです。

 

ミステリーというものは「殺人事件がおきるものだ」という私の考えは誤りだったのです。

 

他者の「個人的秘密(つまりプライバシー)を見る」ことのミステリーの本義があったのです。

 

そして「Y世代」には「個人的秘密(つまりプライバシー)」を隠すという感性がないらしいのです。

 

「個人的秘密(つまりプライバシー)」がないのなら、それを見る必要もありません。

 

「隠す」から見たくなるのです。

 

もう一作品紹介しておきます。これは映画です。

 

午後の遺言状 [DVD]

午後の遺言状 [DVD]

 

 あまりに(当時の)超大御所俳優がぞろぞろ出演しているので、当時もはや名優だった津川雅彦さんが小僧に見えるほどの豪華絢爛なキャスティングです。

 

この映画には若い二人の初夜の描写があります。舞台は田舎の村です。若い二人が結婚した日の夜に二人はある小屋で過ごすのですが、村人たちが一晩中そのまわりで歌い踊るのです。

 

子孫繫栄を願ってそういうことをするのですが。

 

こういう状況で、私が思う(考える感じる)エロティシズムは発生しない気がします。

 

小屋では明らかに性的な営みがなされているのですが。

 

ついでに書くと「草食系男子」の名付け親はコラムニストの深澤真紀さんです。

 

深澤さんは「褒め言葉」としてガツガツしていない若い男性を指して「草食系男子」といっていたのです。でも「今の若いやつ等はガツガツしてなくてダメだ」というニュアンスにいつの間にか変わってしまいました。

 

ただ深澤さんは女性なので、そこの考察ができなかったと思うのです。若い男性は性欲が異常なほどあるのです。

 

何故彼らは性に対して「草食系」でいられるのでしょうか。答えはエロ動画が山のようにあるからです。

 

これは人類始まって初の現象だと私は観ています。

 

このことが「良い」とか「悪い」とかいう気は私にはありません。

 

ただ、現代日本は「ありえないほどの性情報に接することができる社会」なのです。

 

具体的には書きませんが、若い男性は性情報にいくらでも(といっていいでしょう)接することができるので「草食系」でいられるのです。

 

私はゲイですが、そしてこの感覚は日本人だからなのかなとも思いますがゲイAV男優のたいしては「お世話になりました」という感謝の気持ちがあるのです。

 

あれは実話だと思うのですが落語に江戸時代の若者が花魁(おいらん、高級遊女)が好きになってしまって、その情にほだされあて花魁(おいらん、高級遊女)が彼に身受けされるという話があります。

 

そして夫婦で(確か)団子屋を始めるのですが「元花魁(おいらん)がやっている店だ」ということでたいそう繁盛したらしいのです。

 

タモリさんが日活ロマンポルノでひと時代作った女優のお子さんが「いいとも」に出演した時に「君のお母さんには世話になってね」といっていました。

 

ドラマシリーズ「北の国から」で純が好きな女性が都会でAVに出ていたということにショックを受ける描写があったのですが、今後の日本ではAVに出ていたことが恥ずかしいことではなくなる可能性があるのです。

 

場合によっては「キャリア」になる可能性もあるのです。

 

しつこいのですが「隠すから見たくなる」のです。

 

しつこいのですが、だけれども「秘すれば花」でもあります。

 

「Y世代」がプライバシー(個人的秘密)を終わらせます。