世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 44

今日は昼の12時くらいからブログを書いている。途中タバコを吸ったり食事をしたりしたが気がついたら夜の9時だ。

前にベテランの喜劇人が朝起きて気がついた昼になっているのがとても豊かだと思うといっていた。今の私の私がそうだ。キツイ時には時間はなかなか経たない。時間は本当にゆっくり流れる。今こうやって時間が早く流れているのは楽しいからだ。それがとても豊かなのだ。

こんな日が来るもんなんだなあ。

優先順位と募金

日本中優先順位がくるっている。

 

コロナ禍の医療従事者応援キャンペーンについて私は怒っていた。応援キャンペーンはやっても良いことだ。だが応援キャンペーンよりも優先順位が上のことがあったし、それは多くの日本人ができたことだったからだ。

たとえばお金だ。お金のことは大事なことだ。具体的には募金。スーパーやコンビニで募金を受け付けていたところもあった。

 

ヤングケアラーに関するテレビCMが流れていた。あのCMを観ても私は怒っていた。私もヤングケアラーだった。だが母親にほとんどやってもらっていたのでそういう自覚はあまりなかった。それはともかく。あのテレビCMの中で少年が困っている場面があった。そこで手助けしても何の問題もない状況だ。(そういう設定なのだ)だがあのテレビCMの中にでてくるオヤジはぼーっと観ているだけなのだ。それなのにオヤジは話を聴いている。それがCMのオチだ。

話を聴くことよりも具体的にひとが(それが誰であれ)困っている時に手助けすることの方が優先順位が上だ。

 

世界も大変だが日本も大変だ。具体的には能登地震で大変なのだ。

 

すごく簡単な話だ。テレビは画面の下にずっと募金の振り込み先をテロップで出していれば良いんじゃないの?ずっと出しっぱなし。赤十字が募金はちゃんと運用してくれるはずだ。

こういうことをやっていらしたら本当に申し訳無い。最近テレビを観てないから知らないんだよ。

命がけの作家 森永卓郎と時代の転換

森永卓郎がすごい。私の表現力ではすごいとしかいえない。

ザイム真理教

ザイム真理教

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なぜにこんなに森永卓郎がすごいのかだ。ガンにかかって自分の死期がわかっていらしゃるのだ。

ザイム真理教という思い切ったタイトルもそういうことが影響しているようだ。つまり森永卓郎は命がけなのだ。

 

三島由紀夫は自決した。この件を私は覚えていない。吉本隆明の記述によれば三島由紀夫は死ぬ気だったようだ。つまり命がけで自衛隊の決起をうながした。だが自衛隊は決起しなかった。これは命がけが効果を表さなかったということだ。

そして橋本治の記述によれば自衛隊員からのヤジがひどかったのだそうだ。

これは仮設だが自衛隊員にとっては自衛隊自衛隊員というのは現実であり仕事だ。だが三島由紀夫の話は観念だった。もっと露骨に書くと彼らは作家や思想家(あるいは「自衛隊へ入ろう」という歌を歌うようなフォークシンガー)になれるくらいなら自衛隊員にはなっとらんわいという気持ちがあったと思うのだ。

「オレはそういう観念(ひどい言い方をすれば遊びで)自衛隊員をやってるわけじゃないんだよ。仕事でやってるだけなんだよ」という怒りがあったと思う。

これは長年不幸で下げ止まっている私が右も左の大嫌いなことからの類推にしかすぎない。右も左もさっぱり役に立たないのだ。私はヤクタタズだという理由で右の左も大嫌いなのだ。

そしてこういうことをセンチメントに語るインテリもまた大嫌いなのだ。私はセンチメントに長年不幸で下げ止まっているわけないのだ。これははただの現実だ。

 

こういう連中はどこかの孤島で永遠にケンカしてろよ!ヤクタタズなのはみんな一緒だ。

 

ただ三島由紀夫の死は1970年だった。三島は時代の転換期になくなった。

 

 

野坂昭如原作のアニメ「火垂るの墓」は影響が大きい。野坂は小説「火垂るの墓」を1967年にオール読物で発表している。火垂るの墓のお兄ちゃんは野坂だ。あの話でお兄ちゃんは亡くなっている。この意味は「あの時自分は死ぬべきだ」という野坂の悔恨だ。いわば野坂はあの小説で自決している。


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話を戻す。三島由紀夫の命がけは効果がなかった。野坂の自決は作品いチカラを与えた。、そして森永卓郎の命がけだ。この命がけには効果がでている。

ひとの命に効果云々というのは不道徳な話だ。だが三島由紀夫の命がけには事実効果がなかったのだ。これが大きく変わっている。

マルクス主義と孤独

もう20年くらい前だ。知人にあった。その時に知人の娘さんとも会っている。彼女と話すことはなかったのだが。娘さんは当時10代だった。知人(男性)は娘さんにイヤなことを延々といっていた。娘さんは嫌がっていたし本当に怒っていた。だが知人はそういうこととはおかまいなしに娘さんに嫌なことを延々といっていた。冗談のつもりなのだ。

 

前にサンデーモーニングでのことだったのか澤地久枝がコメントしていた。隣でケント・ギルバートが「弱ったな」という顔をしていた。

その時澤地久枝がいっていたのはマルクス主義の文脈の発言だった。マルクス主義的といううか。あれは最強だといえば最強だともいえる。あそこにいくと誰ともコミュニケーションが取れなくなるからだ。

澤地久枝は極めて優秀なひとだ。これはイヤミでも皮肉でもなく事実そうだ。だが極めて優秀なひとであってもマルクス主義の文脈にはまってしまうことがある。マルクス主義的なというべきか。

 

これは政治の季節の後の世代でも同様だった。冗談をいう茶化すドギツイことをいうような人たちだ。

あの人たちの中にももちろん優秀なひとはいるのだ。だがやっぱり一緒だ。ああなると極めて優秀なひとであって誰ともコミュニケーションが取れなくなる。

ただ私は長年そういう人同士はコミュニケーションが取れているのだと信じていた。そういう人たちはたいてい華やかに過ごしているからだ。でもそうでもなかったのかもしれない。彼らはどうしようもなく孤独なのかもしれない。

そういう人たちが初対面なのに幼馴染か同窓生のように話しかけてくることともあったし初対面なのに彼彼女のムカシの話を1時間くらい聞かされれることもあったし初対面なのに彼彼女が今に至るまでの話を30分くらいしていたこともあったからだ。

もちろんそういうことをされると困るのしそういう人たちとは離れるしかないのだが、そういうことをしていしまうのは彼らがよっぽど孤独だからであるような気がする。

ということはマルクス主義の文脈で語るひとたち、マルクス主義的なひとたちもやっぱり孤独だったのか?

アールヌーヴォーと計画停電の提案 ニーチェの現代性

ニーチェは独特のひとだ。右にも左にも変にアピールする。何が右で何が左かは別にしてだ。

 

碩学の皆さんの仕事のおかげで私は本当に助かる。上は講談社現代思想冒険者たちの0巻だ。

ニーチェが右にも左にも変にアピールすること自体がニーチェの現代性だともいえるのだが。もしニーチェがまたくれば3回目だといえる。

 

ニーチェの影響だけとはいえないが当時のドイツでユース〇〇という無数の運動があったようだ。これは残念ながら愚かだったとしかいえないものだった。また芸術運動としてはアールヌーヴォーがこの頃の芸術運動だ。

これが1回目だとしよう。

二回目はヒップムーブメントだ。私は1963年生まれでヒッピーには悪い印象を持っている。だがヒップムーブメントが健全だった時期は2年程度しかなかったらしい。私が知っているヒッピーたちは健全だった時期の後の姿だったようだ。

だいたいスクエアにたいしてヒップだったようなのだ。スクエアが四角四面でマジメなことだとしよう。するろヒップは丸いということにはるのだがヒップであることがスクエアになってしまえばもそれはヒップではなくなってしまう。

1回めの時には登山もある種ブームだったようだ。ヒッピーたちも自然に回帰していた。

 

私自身はそういうことはしないと思うしできないと思うのだがエネルギーを使い生活はおくらないという人たちがでてきてもおかしくはない。それはそれで筋が通ったことだそしてこれはもともとは島田洋七がいっていたのだが季節の良い頃に1週間か10日程度計画停電を実施すれが良いと思っている。警察や消防や国防には電力を供給するのだがそれ以外の電力の供給はストップする。

都会のひとは都会にいて(家の中でやってもいいのだが)キャンプをするのだ。最初の数年はトラブルもあるだろうが。ハロウェインの頃にやっても良い。あるしゅのデトックスだ。

根拠はいえないがすごく良い結果がでると思うのだ。

統合失調症回復の記録 43

金曜の朝に変な味がした。味がしたとしかいえない。私が10才の時にインフルエンザにかかった。高熱を出してうなされていたが、その時にも不思議な味がしたのだ。だから50年ぶりのことだ。今日は月曜だから先おとといの朝だ。

ただ長年当日識も当時識も薄かったので金曜だとか先おとといと認識できているのも不思議だ。当日識当時識というのは今が何年何月何日かという認識ができること、今が何時かという認識ができることをいう。私も病状が近い友人たちも防水機能がついた腕時計をしている。曜日や日付の表示があるものだ。腕時計でなくても良いのだがこういうモノがないと私たちは日常的に困るのだ。

回復している途中に久しぶりに知人に会った時に彼は「そうだと思っただけど姿勢が違ってた」といっていた。腰は曲がっていたし姿勢もおかしかったのだけれどもずいぶん治っていたそうだ。

クビは相変わらず涙がでるくらいに痛いがこれも回復痛なんだろう。

そして気持ちもずいぶん明るくなってきた。

 

前に感情ではなく認識が問題だと書いた。個別には書かないが子供の頃に(おもに両親がしたことで)消えたいくらいに恥ずかしいtこもあったし本当に悲しいこともあった。また守って欲しい状況で守ってもらえないどころか両親がしたことで(子供の頃の私が)窮地に陥ることもあった。

こういうことを感情にフォーカスして考えると「恥ずかしい」「悲しい」「寂しい」「不安だ」のようになる。今硬いのは感情だ。

だがこれを認識の問題としてとらえると「自分の気持ちがわかってもらえない」「守って星時に守ってもらえない」のようになる。

そして私の認識の既定値が今書いたようなものだったらしいのだ。違う言い方をすると私の認識の基本OSがそういうものでしかなかったのだ。

こうおいう基本OSを持っていれば日常生活を送るのが大変になることはおかしなことではない。

そして私はこういう認識の既定値の書き換えに成功しているようだ。

プロデューサーの刑務所入り サギオトコ 鈴木敏夫

前に似たような環境(ということは不幸で下げ止まっている)女ともだちから「大学いったんでしょ。良いなあ」といわれた。その時は大学生活はカネがなくて挙げ句のはてに中退したのだからと思った。つまり全然楽しくなんかなかったのにと思ったのだ。だが経験として事実私は大学生活を送ったわけだしその経験ができたことがうらやましいという意味だったようだ。私は結婚もしていないし子供もしない。また就職もしたことがなる。80年代はウツでも就職できない時代だったのだ。

余談だが凶悪犯罪者が精神鑑定にかけられる。私から見てもあまりに残虐すぎる犯罪の場合「やっぱりおかしかったんじゃないか」とは思うのだ。だが正直迷惑な話でもある。だがやっぱりあんなに残虐な犯罪を行ったわけだからおかしいんだろうとも思うし。思考がループしてしまう。

前に緊急入院した時に病院によそから来たベテラン看護師あいた。Mさんという。同じ病院にもう一度緊急入院した時にはもうMさんは退職されていた。

togetter.com

上はtogetterの記事だ。職場のストレスがツライから企業したいというひとに転職をすすめたら切れられたという記事だ。

昔から「段取り八分」という。段取りができるかどうかはある程度は決まっているような気がする。

Mさんが退職されたのはストレスが原因だ。ベテランではあるがそこでは新人。だから「ここのシステム(段取り)には相当問題があることはわかるのだがベテランだとはいえここでは新人なので自分がここのシステム(段取り)に口出しするのは筋が違う」ということがあまりのストレスだったのだ。

こういうことでストレスが溜まっているひとは多い。

そして女性に多いのだがある部分だけの効率(?)を考えてある部分を変えてしまう。でもそうすると全体の流れ(?)がおかしくなってしまうのだがそういうことがわからない。それで周囲が困ってしまう。こういうひとも談度れないひとだ。

段取りができるひとはある程度決まっているような気がする。そういう適正があるひとはそもそも段どれるがそういう適正がないひとに段どれといっても難しいような気がするのだ。

今風の言葉でいえば段どれるひとはジェネラリストでそういう適正がないひとはスペシャリストだということにはなるが。

www3.nhk.or.jp

上はNHKONLINEの鳥山明氏が亡くなったニュースだ。坂本龍一がなくなった時にも感じたがひどい喪失感だ。

段どれるひとはプロデューサーに向いている。あるいは編集者に。

dic.pixiv.net

上はDr.マシリトの解説だ。当時ジャンプの編集者だった鳥島和彦がモデルだ。鳥山明鳥島がほんとに嫌いだったらしい。

これは宮崎駿もどうようだ。プロデューサーの鈴木敏夫が本当に嫌いらしい。そういう風になるのも当然だが。鈴木はずいぶん強引なことをずいぶんやっている。

ja.wikipedia.org

君たちはどう生きるか」に鈴木を出している。「サギオトコ」というキャラクターだ。明らかに鈴木だ。

 

ただアメリカの大物プロデューサーは刑務所に入っているらしい。悪人だというひともいる。このひとはもののけ姫アメリカ公開の時「90分にしてくれ」といっている。もちろん強引だ。だが金曜ロードショーの二時間のワクでも実際90分程度だ。だいたいコドモのみるわけだし90分程度にするとうい判断はプロデューサーとしてはおかしな判断ではない。ただ現実にこの方は刑務に入っているらしいのだ。

私は同病相哀れむのだ。そして自分がそうならないで良かったと思っている。

タイタニックを観た時「自分がプロデューサーだったら監督を恐喝したかもしれない」と思った。私はそういう仕事についていないのだが。


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映画タイタニックはほぼ大スターになる前のディカプリオとケイト・ウィンスレットのラブストーだけの物語だ。ああいう大きな映画であればいろんなスターに出演しもらって他のエピソードを入れるのが定石だ。そうするといろんなスターのファンも映画を見に来てくれるかもしれないからだ。あるいはいろんなスターのファンも観に来るような脚本にするのが定石だ。

映画は興行でギャンブルではない。だがあんな大きな映画をまだ大スターになる前の二人のラブストーリーだけにするのはルーレットでいえば一点張りだ。それはあまりにもリスキーだ。

とはいえ映画は興行でギャンブルではない。ジェームズ・キャメロンにはなんらかの勝算があったのだと思うのだ。こういう勝算を説明するのはひどく難しいものだ。

そしてハイリスクハイリターンはローリスクハイリターンは事実でタイタニックはハイリスクではあったがハイリターンだった。それはお金だけの問題ではない。その後のジェームズ・キャメロンの仕事にも良い影響を与えたしディカプリオはこの映画で大スターの仲間いりをしたのだ。

 

 

そして私は事実刑務所にはいるようなことはしていない。これは大きい。