世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ドラッカー入門・上田惇夫 福沢諭吉の学問のススメ・橋本治

ドラッカーはとてもおもしろい。

 

ドラッカー入門 新版---未来を見通す力を手にするために

ドラッカー入門 新版---未来を見通す力を手にするために

 

 「ドラッカー入門」はドラッカーとの親交があり、ドラッカーの著作の日本語約をずっと手掛けていた上田惇夫さんの著作だ。ドラッカー入門には最適な一冊だ。

 

この本の「モダンの限界」という部分がとてもわかりやすくてなおかつ重要だ。

 

「世の中には真理がある」という考えで二つにわかれる。

1、ある

2、ない

 

「2、真理などないんだ」という考えもありえる。そういう考えも尊重する。しかし私もドラッカーも1だ。ここについての私の考えを正確に書くと「私は真理があると信じている」ということになるのだが。

 

次に「世の中には真理はあるんだ」ということを認める立場の中の違いだ。

a、その真理を人間はつかむことができる

b、人間にはその真理をつかむことはできない

 

これは「ドラッカー入門」からの引用だ。

a、ソクラテス、フランス啓蒙主義

b、イギリスの保守主義アメリカの憲法制定者たち、ドラッカー

 

aの立場をとると「自分は真理を知っている」とまず思える。そして「この真理を教え、啓蒙する必要がある。あるいは啓蒙すればいい」という結論になる。

 

でも理性万能のリベラルはここで止まる。

 

これはドラッカー著「産業人の未来」からの引用だ。

 

 

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)

 

 「しかも彼らは、自由に反する正誤だけでなく、自由のための制度にまで反対する。理性主義のリベラルは、その時代における不正、迷妄、偏見に反対する。しかし、彼らは不正に対する反対にとどまらない。自由で公正な組織や制度を含め、あらゆる既成のものに対して敵意を持つ」。

 

こうなるのは「理性」に対する態度で決まっていたのだ。

 

何故か「人間も社会も理性的存在ではそもそもないから」なのだ。ただ人間にも社会にも合理性がある。それがリベラルがいう理性には必ずしもよらない合理性なのだ。

 

ドラッカー入門」にはこうある。

 

(以下は私の稚拙な要約だ)

 

世の中はそもそも複雑なものだ。それを簡単な論理にするのは世のなかの複雑さに耐えられないものがすることだ。(つまりそもそも複雑なのだからそれを簡単にすることは原理上不可能なので複雑なものは複雑なまま考えるものだ)

 

そして「絶対主義はダメな選択だ」という指摘が続く。

 

「自分は真理をつかんだ」「自分が真理だ」という「絶対主義者」を信じてはいけないだ。

 

理由は彼らが「真理をつかんだ(あるいは真理である)存在」なら「真理をつかんでいないもの(真理ではないもの)は彼らに従うしかないからだ。

 

たとえば私は「戦争反対」どころか「争いごとがない世界」を望んでいる。そして「貧困のない世界」も「差別のない世界」も望んでいる。でもこれは「理想」だ。理想とはそういうものだ。現実にはベターを実現するように努力するのだ。

 

そして次の部分がとても大事だ。章のタイトルをそのまま引用する。

 

「万能薬は存在しない」。

 

 

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

 

 福沢諭吉の「学問のすすめ」は橋本治の著作である。

 

橋本の言い方では「福沢諭吉は死ぬほどバカが嫌いだ」となる。

 

そして「バカ」とは「学問をする前の状態だ」という。

 

だから「学問をして(勉強して)バカじゃなくなってくれ」というのが「学問のすすめ」に一貫して流れているものなのだというのだ。

 

そしてここから重要なのだが。

 

学問のすすめ」は「学問のすすめ」を読んで終わる本ではない。

 

何故か。福沢諭吉は「あなたに学問を(勉強を)すすめた」のだ。その内容があなたがわかったのなら「当然学問を(勉強を)する」という行為をあなたが取るはずだからだ。

 

こういう考え方はドラッカーにも共通している。

 

そんな本は当然ないが「決定版ドラッカー これでもうあなたはマネージメントに悩まない」という本はドラッカーの思想上存在しえない。

 

ドラッカーは「いつも考えなさい。すぐに組織は陳腐化するものです。この方法を取りさえすればいいという方法はそもそもないのです」という考えだからだ。当然ドラッカーイノベーションの重要性を説く。当然だ。

 

上田惇夫著「ドラッカー入門」は本当にいい本です。おすすめします。

 

と私が書いたということは「私は後はあなたが勝手に勉強して考えるんだ」と言っているのだ。後はよろしく。

村八分への誤解 リアルじゃない

こういうことはよくある。当たり前のように信じられていることが間違っている場合だ。「村八分」も同様だ。

 

ここから説明が必要なのだが昔の地域共同体は「公(おおやけ)」の要素ももっていた。それは警察だったり消防だったり市役所だったりだ。これは地域共同体が地域の治安も守っていたし火事が出た場合の消火も行っていたし市役所が今行っているゴミの問題であるとかも担当していたという意味だ。

 

だから「村八分」という過酷な状況に追い込んだとしても葬式と火事の場合の対応はしたのだ。

 

私自身家族と親戚と近所のひとの世話になって祖父の葬儀を上げたこともある(それは自宅での葬儀だったが)。その経験の後斎場での通夜と葬儀を経験した。斎場での通夜と葬儀は本当に楽だった。昔の日本家屋はそうとう広い。あれは自宅で(昔の言葉でいう)「お客さん」を開くことが前提だった。

 

昔の日本社会はどこか「パーティ社会」でもあった。「お客さん」というのはある意味「パーティ」だった。

 

それぞれうっとうしいものでもあるのだが法事とか結婚式とか葬儀とかとにかく地域共同体がかかわるできごとがそうとうあったのだ。

 

そしてそういうことをしないで済む「都会」へのあこがれもあったのだ。

 

ただそういう村落共同体とそこに所属しているメンバーにとっての絶対的な指針がなかったと思う。

 

「あのひとは心底うっとしいけどね」と言われているひともいたのだがそういうひとを排除するわけでもなかったのだ。

 

そのひとはもう亡くなったのかもしれないが刑務所に服役して帰ってくるひとを地域がうまく受け入れてくれる仕事をされていたと聞いた。

 

よくも悪くも「なあなあ」だったのだ。

 

今の日本社会は全然違う。普通に「絶対許さない」ということがあるからだ。

 

江戸時代の刑罰に百叩きというものがある。ひどく野蛮だ。百叩きを喰らった後はボロボロになっていたという話だ。でも原始的ではあるが「納得感」はある。ただこれを推し進めると「石を投げつけて殺す」という刑罰もありうるのだ。

 

今の日本社会では憎悪は飛び交っている。でもリアルじゃないのだ。

オリンピックと日本、中国、韓国

1、東京オリンピックと80年代

 

日本が大きく変わったのは1964年の東京オリンピックの頃だ。物事には複数の観方がある。

 

中国と韓国が(特に韓国が)日本がいくら真摯に謝罪しても受け入れてくれないということが事実あったと思う。

 

ああいうことに関して「日本との比較」を持ち込んで考えることはとても重要だ。

 

日本は欧米(特にアメリカ)に対して独特の気持ちがあった。

 

一番の理由は戦争に負けたからだ。

 

だけれども1980年代に「独特の気持ち」がおおはばに薄れた。

 

バブル崩壊後の「失われた20年(30年)」を経済の問題としてとらえるのは間違いだ。

 

あれは思想問題だ。

 

ただ1964年の東京オリンピックと1980年代の間にはおよそ20年のタイムラグがある。

 

2、中国の対日感情の変化

 

www.msn.com

 

この記事を書いた谷崎光さんは中国在住の日本人作家だ。

 

今更マスコミの悪口は言いたくないがヒドイ現状だ。

 

この問題はとてもシンプルで「優秀なひとが少ない」ことが原因だ。

 

自慢話をすると今の日本でサービス業は底辺産業でではある。そういう事情があるとしても私は30歳くらいからしょっちゅう「ウチに来ないか」とスカウトを受けていた。

 

どういう業種でも「優秀なひとは少ない」のだ。

 

2008年の北京オリンピックのあたりでやはり中国(と言っても谷崎さんは主に北京にいるのだが)が大きく変わっている。

 

そして最近ボチボチ変わってきているようだ。

 

でもそうは言っても北京オリンピックからまだ10年程度なので今度の変化はあるだろう。

 

中国の方で「嫌日」という動きが出てもまったくおかしくない。

 

日本はアメリカに対して「親米」と「反米」という立場で揺れてきたのだが、80年代だったはずだが「嫌米」という気分になっている。

 

当時のアメリカに日本人が嫌気がさしたのだ。

 

田舎のバカな頭のおかしな若者からしても「いくら日本が憎いからって日本車を壊したって」ということがいろいろあったのだ。

 

結果アメリカに嫌気がさして「嫌米」だった。

 

日本で(今でもそういうことがあるが)筋道の通らないわけのわからないムーブメントが起きて中国で「嫌日」が起きることは(今の日本の一部の愚かさをみれば)全然不思議ではない。

 

でもそういうことが起きたとしても、それは重要なステップでもある。

 

これも自慢だが見識があれば違う。

 

中国からの留学生と友達になった。やっぱり2008年のことだ。四川大地震があった頃。

 

Dさんにしておく。Dさん話していて「このひとは日本にいるのだが中国のひとだし中国共産党の話題は避けた方がいいだよね」と思って中国共産党の話題は避けながら話していたのだ。

 

中国の歴史からすれば(この言い方は難しいが)「中国という王朝」は終わる。

 

それは「漢」が終わったように「清」が終わったように「中国」も終わるという意味だ。

 

だけれどもあそこに(ほぼ)同じ言語を使う多くの人々が存在することには変わりがない。

 

韓国でも当然変化はある。ソウルオリンピックは1988年だ、。

 

韓国もある時期に大幅に変わるはずだ。

 

 

3、イギリスとフランスとホタテ戦争

 

イギリスとフランスの漁師さんがホタテ漁でもめて「ホタテ戦争」と言われる事態になった。

 

基本ヨーロッパ(イギリスをヨーロッパと言っていいのかどうか不明だが)の国ぐには仲が悪い。

 

基本そうだ。

 

だから「ホタテ戦争」も起きる。

 

あれが日本、中国、韓国、台湾のどこかの二か国間で起きてもまったくおかしくないのだ。

 

勉強したり考えたした方がいい。(マスコミ関係者じゃなくても)

 

というより勉強や思考に意味や価値がある時代に突入したのだ。

 

 森高千里も歌っている。

ザ・勉強の歌

ザ・勉強の歌

 

 

 

 

インテリとニュース

1、時代とインテリ

 

 前にテレビを観ていた時に(ワイドショーだったかな)ある専門家がボソッと「一億総評論家ですか」と言っていた。

 

専門家が役に立たないという時期も事実あったと思う。

 

でもこういうことが「時代だ」と思うのだが専門家が異常すぎて役に立つ時代になっている。

 

「ホンマでっか!TV」の出演をきっかけにしてテレビの常連になった超専門家たちがいる。

 

あの人たちは「人物像」としても異常すぎて面白いのだ。

 

私はインテリといえばインテリなのだがインテリ業界にかかわるのが長年怖かったのだ。

 

インテリ業界は全員インテリなので悪口は「バカ」でしかない。

 

筑紫哲也さんは私が知っている範囲で一番「バヵ」と言われていたインテリだった。

 

「あのひとはバカだから同人誌(朝日ジャーナル)しか作れないんだよ」

「筑紫はバカだからあの程度だよ」

「バカだから偏向番組(ニュース23)しかやれない」

 

私はそこまで皆でバカバカいわなくてもいいと思っていた。

 

筑紫さんの「良識」みたいなものが裏目に出ていたような気もするのだ。

 

これは本当に時代との関係性で今(2018年)はとんがったインテリは存在(キャラクラー)としても発言内容もとてもおもしろい。

 

イデオロギーの時代が終わったことと関係しているとは思う。

 

 

2、イデオロギー 思想のOS フォーマット

 

「左翼のフォーマット」「保守のフォーマット」「リベラルのファーマット」「右翼のファーマット」なるものがある。

 

思想や感性や考える道筋のパターンだ。

 

私も一頃はこういうファーマットに自分がはまり込んでしまう危険性を感じていた。

 

どのフォーマットでも意味は同じだ。

 

「左翼のフォーマット」でも「保守のファーマット」でも「リベラルのフォーマット」でも「右翼のフォーマット」でも意味は同じだ。

 

今のインテリならどのフォーマットにも対応できる。

 

というより既成のフォーマットを使って考えて、感じて、論理をつむぎ、発言した方が楽だった。

 

逆に既成のフォーマットを使わないで考え、感じ、論理をつむぎ、発言することはヒドク難しかったのだ。

 

この意味はPCやスマホのOSのような存在としてフォーマットが存在していたことを意味していると思う。

 

時代が変わったというのは思想のOSとしてのファーマットが壊れたことを意味しているのだろう。

 

違う言い方をすれば大きな物語(思想のOS)がもう機能していないということだと思う。

 

これは「そういう時代だった」という意味でいうだけだが澤地久枝さんのテレビでのコメントを聴いていると「そういうことじゃつかみきれないと思うんですよね」といつも思っていた。

 

「時代」というのはそういうもので澤地さんのある時期の発言はあるパターンに入り込んでいたのだ。

 

サンデーモーニングでの発言はそうだったし、それを冷たく見ていたのがケント・ギルバートさんだったことも印象に残っている。

 

澤地さんもケントさんもものすごく優秀なひとだ。

 

でもフォーマットにはまると誰でも同じことになってしまう。

 

3、テレビコメンテーターの大衆化現象

 

ある事件があると「あーだこーだ」いう人たちがいる。そういう人たちの意図はともかく「あーだこーだ」いうのだ。

 

そういうこと、そういう人たちに対してどう思っていいのか私にわからなかった。

 

ただ素人考えで「あーだこーだ」言ってもなと思うだけだったのだ。

 

そういう人たちはほぼ素人にすぎないし。

 

ただそういうことの果てに時代が変わったのだと私は考えているが(代表がテレビのコメンテーターだが)「あーだこーだ」いっている人たち程度のことはたいていの日本国民が言えるようになったのだ。

 

いわば「テレビコメンテータの大衆化現象」が起きたのだ。

 

テレビ番組の意味も変わってきているようなのだ。

 

さきほど書いた「ホンマでっか!TV」に関して「先生たち(頭良すぎて異常な人々)の話をさえぎらないでほしい」というひとがいるのだ。

 

あの先生たちは存在としても発言内容にも「問題がありすぎ」なのだ。

 

だからさんまさんが「いい感じでさえぎる」のはある時期のテレビの良識のしては当然なのだ。

 

4、インテリ話は好きですか

 

あるいは林修先生だ。

 

本人も自覚しているが林修が真面目に話しているようなことをいうと友達がいなくなるのだ。

 

私は一流大学卒ではないがインテリ話ができる。

 

でもインテリ話はしないようにしている。

 

友達がいなくなるからだ。

 

実際私があるときに「近代という時代は意味と物語を解体する時代なんだよね」と言った。

 

そしてそういうことを言ったことを反省していたのだ。

 

であるとか「人間存在は集団でいることで人間よりも強い存在に勝てる存在なんだよね。実際1対1だったら虎に勝てるわけがない。でも集団なら虎に勝てるんだよ。ゴリラは黒目だけでしょう。でも人間は白目があるじゃない。あれは黒目を動きを他のひとに読んでもらうためだよ」とか。

 

であるとか「感じ良いっていうのが大事なんだけれども、そのひとが感じ良いっていうのはそのひとがどういう服を着ているかとかどういうことを言っているかとかどういう年齢かとかとは関係ないでしょう。でも明らかに感じ良いひとがいるよね。ああいうひとを目指すんだよ」とか。

 

「今の時代に勉強しようと思うのなら何をするかよりも今していることの中で何をやめるかを考えた方がいいよ。そんな暇な時時間はみんなないんだよ。まず自分がどういう風に時間を使っているのかを調べるところからだね。意外にわかってないよ」とか。

 

全部イデオロギーとは無関係な話ではある。

 

だけれども暇人のたわごとともいいきれない話だ。

 

5、異常にニュースサイクルが早くなった後に ニュースのインフレ

 

ニュース(特にテレビの話題)のサイクルが早くなっている気がする。

 

これは日本だけの現象なのかどうか不明だが。テレビがある話題だけになってしまうことがある。そして一通り話題にして次の話題でまた盛り上がるのだ。

 

これがどんどん加速している気がするのだ。

 

仮にこの動き(ニュースのサイクル)がもっとありえないほどの早くなったとする。

 

その状況を想定してみよう。

 

それは「本当にささいなこと」が話題になり、その話題で一通り盛り上がり、すぐその話題が終わるような状況だ。

 

だとするとこの本当にささいなことがたとえば「コスモスがキレイです」であっても構わないはずだ。

 

この状況に立ち至ると「ありとあらゆる刺激的なニュースが結果とても平凡なニュースになる」のだ。

 

いわば「ニュースのインフレ」が起きる。

 

ここまで至って日本の報道は健全な状況を取り戻すはずだ。

 

楽観的過ぎるのだろうが。

 

5に自分に書いたことをどこかで読んでことがあると思った。

 

浅田彰さんが「トラバター」と前に書いていたと思って、昔の本だが最近手にいれたがあまり読んでいない「逃走論」をめくってみた。

 

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

 

 この本をあまり読んでいないのは恥ずかしくなるからだ。

 

昔フランス思想がはやった時に私はフランス思想をひどく嫌っていた。当時は「しょせんオシャレとかそういうことと思うんだよね。でもあんたら死ぬほどダサイよ」と思うと近づけなかったのだ。

 

これはフランス思想そのものの問題ではなくて「日本のフランス思想に対する態度」のようなものがイヤだったという話だ。

 

ちょっと「逃走論」を読んでみたが「脱コード化」とか「ディスコンストラクション」とか「テクスト」とかいう言葉に触れるととても恥ずかしい気持ちになる。「こういう言葉が好きな人たちがいたよね」と思ってしまうのだ。

 

浅田彰は本当に頭よすぎてよくわからないひとなのだが、大して頭よくない人々がフランス思想にかぶれていたと思っているのだ。

 

それはともかく浅田彰がリオタールの言葉を引用していて、それがさっきの話ととても似ている。

 

「極限的な喧噪(その実沈黙をはらんだ)と極限的な沈黙(その実ノイズに満ちた)は同じものなんだ」という話だ。

 

日本の言論状況やマスコミ状況やネット言論状況はまさしくコレだと思う。

 

本がとても高価だというだけではなく、このひとの日本での受け入れ方を私は激しく嫌っていたので今だに読んでいないのだドゥルーズがとても今日的であるとも思えるのだ。

 

 

差異と反復

差異と反復

 

 

「ミルプラトー」や「アンチ・オイディプス」が有名だ。私でも知っている。

でも「差異と反復」を紹介した。

 

ドゥルーズというより日本でドゥルーズを語る人たちが私は死ぬほど嫌いだったのでドゥルーズについてもドゥルーズの思想についても知らない。

 

ただ「動きを動いているままでとらえようとする」ひとでそういう思想なのかなとはドゥルーズについての文章を(さっき)読んで思った。

 

 

さよならアメリカ、さよならニッポン ~戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか~

さよならアメリカ、さよならニッポン ~戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか~

 

 

マイケル・ボーダッシュアメリカの日本のポップミュージックの研究者だ。

 

示唆に富んだ内容だが図書館で借りて読んだので今手元にない。

 

だから間違って引用するかもしれない。

 

たしか「日本と欧米(特にアメリカ)との関係では日本が女で欧米(アメリカ)が男なのだが日本と中国、韓国、台湾、アセアンとの関係だと日本が男で中国、韓国、台湾、アセアンが女だ」という記述があったと思う。

 

これは女性蔑視ではない。「エキゾチック」とかそういう価値観の問題としてそうだという指摘だ。

 

それから音楽現象を「ミュージック」という名詞「ミュージッキング」という動詞としてとらえなおす思想を提示してもあった。

 

「ミュージック」は止まっているが「ミュージッキング」なら動詞で動いているという意味ではドゥルーズと同じことを論点にしているはずだ。

 

私も似たようなことを考えていて「イジメ」は大問題だが「イジメている」「イジメられている」「イジメに距離をおいている」とかとらえる必要があるのでは思うのだ。

 

あるいは「気づき」という日本語が嫌いだ。「気づく」ということであるはずなのにと思うのだ。

 

でもフーコーの方が読むなら先かな。

 

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

 

 

6.あの頃 フランス思想

 

私は激しく嫌っていたが80年代にはある種の若者は思想書哲学書を読んでいたのだ。私は「しょせんオシャレだ」とバカにしていたが。

 

理由なく若者が思想哲学を志向することはありえない。だいたいドゥルーズの本もフーコーの本もとても高価だ。

 

私は80年代を「マルクス主義の終わり」とともに始まったとは思っている。

 

若い人には信じられないだろうが1970年代まで日本に共産主義革命の可能性(の匂い)があったのだ。

 

80年代に入るとその可能性がゼロになった。私だけでなくそう感じたひとは多かったはずだ。

 

そういう歌もある。

 

 

THE SINGLES EPIC YEARS 1980-2004

THE SINGLES EPIC YEARS 1980-2004

 

 

佐野元春の「ガラスのジェネレーション」だ。

 

佐野元春二枚目のシングルで1980年10月リリース。

 

この歌に「ガラスのジェネレーション さよならレボシューション」とあるのだ。

 

レボリューションは当然革命のことだ。

 

この歌を当時聴いたときに

 

「ガラスのジェネレーション さよならレボリューション」の他に共感した部分があった。

 

「君はどうにも変われない かなしいけれど」とあるのだ。

 

今の「変われない君」はどういう「君」なんだろうね。

テレビに対するツッコミって似てるよね  ヤフー!テレビ「みんなの感想」 不満の共有

1、ネット上の言論の流れが変わってきている

 

ネット上だけではないのだけれども言論の流れが変わってきていると感じる。

 

たとえば「原爆投下に関する議論」だ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

「そもそも原爆投下は必要だったのか」という議論自体あまり意味がないと私は思うのだ。

 

あるいは「トルーマン大統領が責任者だったのか」という議論もやはりあまり意味がないとも思うのだ。

 

ちょっとしつこく書くが「原爆投下は必要だった」「原爆投下は必要ではなかった」の二つの考えがある。

 

だけどもそうあったとしてもともに「原爆が投下されてたという事実に変化はない」のだ。

 

やはり「トルーマン大統領が責任者だった」としても「トルーマン大領領は責任者ではなかった」としてもやはり「原爆が投下されたという事実には変化がない」のだ。

 

広島と長崎に原爆が落ちたというのは「歴史的事実」なのだ。

 

そういう議論をする人たちは誰かを糾弾でもするつもりなのだろうか。

 

私は原爆に関して誰かを糾弾することにまったく意味を感じない。

 

「ケリがついたことだ」という意味ではない。

 

そうではなく「歴史的事実だ」という意味だ。

 

ネット上だけのことではないのだが紆余曲折を経て、議論にまとまりが出てきている場合が多いのだ。

 

ユーチューブのコメント欄も落ちついてきているようだ。

 

特にネット上の言論が落ち着きが出てくるとは思っていなかったのだが、でも落ち着き始めているようなのだ。

 

2、「不満の共有」の喜び

 

ヤフー!のトップページからヤフー!テレビに飛んで「みんなの感想」を読むと「自分と同じことを考えているひとが多いこと」に驚く。

 

テレビ(特にワイドショー)に関して「テレントの井戸端会議だ」という批判がある。

 

ある時期までは「その番組の論調」や「コメンテーターの意見」が重要だった。

 

「その番組の論調」や「あるコメンテーターの意見」と自分の考えが合うかどうかが重要だったのだ。

 

「テレビは突っ込みながら見るメディア」ではある。

 

そして「テレビに対するツッコミが可視化」されてきている。

 

これが素晴らしいことだとはまったく思わない。

 

でもテレビ番組に対する誰かのツッコミと自分のツッコミが似ているとなぜかうれしいのだ。

 

ツッコミはいわばテレビ番組や出演者に対する不満だ。

 

テレビに不満が似ていることに安心している自分がとても不思議だ。

 

でも「誰かと自分の不満が似ていることに安心する」のが現代的だなと思うのだ。

 

これが良いことか悪いことかは不明だ。だが「不満の共有」ができるととてもうれしいのだ。

 

「夢」とか「希望」とか「理想」とかの共有ではないのだ。

 

「不満の共有」がうれしいのだ。しかもそうとううれしい。

 

 

 

ついでいうとテレビは相変わらず面白い。

 

でも今の日本でテレビ番組を一日何時間も見る余裕がある人たちがそんなにいるのだろうか。

 

今の平均的日本人ってそんなに暇なの?

 

あなたはそんなに余裕がある生活を送っているの?

洗脳の恐怖  寓話「チケット」

1、養老孟司バカの壁

 

洗脳という言葉をここで使うのが適切なのかどうか不明だ。

 

だけれどもフロイドさんのブログを読んで「オレ洗脳されてる」と思った。

 

www.byosoku100.com

 

前に同年代の友人とそんな話をしていた。そういうことが自分にあったのだ。

 

「自分は病気してなかったら過労死してたと思うんだよね。しかも喜んで過労死してたとしか思えなくてね」と。

 

友人は「オレたちは洗脳されてるからね」と言っていた。

 

養老孟司さんが人気だ。

 

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

バカの壁」もヒットした。

 

養老先生が「バカの壁」を書いた理由があるのだ。(これはバカの壁には書かれていないが)

 

養老先生の教え子(?)がオウム真理教にかぶれてしまって麻原彰晃が水中に長くいれることの証人になってくださいと頼まれたのだ。

 

養老先生は「水中にいれば当然酸素の供給が絶たれるから水中に長く居続けるようなことはありない」と思って断ったらしいのだ。

 

そしてその学生(の人柄に対してではないのだが)の様子が「気持ち悪く」感じたらしいのだ。

 

2、ジョージ・オーウェル 1984 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 
1984年 (まんがで読破 MD100)

1984年 (まんがで読破 MD100)

 

 

1984年はディストピア小説だ。理想世界は「ユートピア」だがディストピアユートピアの逆だ。

 

ネタバレは避ける。

 

1984年(まんがで読破 MD100)でも十分楽しめる。

 

救いのない話だ。でもこの物語の救いのなさに力がある。

 

1984年の影響があったのかもしれないが、ある寓話を書いていたことがある。その話はまだ書けてはいないが。

 

それは「チケット」という話で主人公は気がついた時にはチケットをもっている。そしてそのとてもいいチケットを使うためにガンバルのだ。最初のチケットを使ったら次のチケットを手に入れるためにガンバルのだ。チケットはとてもいいものだから。

 

この話を暗く終わらせるか明るく終わらせるかで悩んでしまって終わりまでかけていない。

 

悪い終わり方の方は「もうチケットはいらない」と思って逃げるのだが、手を見るとチケットをやっぱり持っていることに驚いて終わる。

 

良い終わり方の方は、チケットを捨てて生きる決意を固めて、それに成功する。体はボロボロになっているが、なんとかなると思って終わるのだ。

 

これは両方とも自分の実体験だと思う。

 

3、気持ち悪い

 

養老先生がその学生にたいして「気持ち悪い」と感じたという話を最初に読んだ時には正直ピンとこなかった。

 

でも古典的な物語だが主人公のよく知っている友人がモノスゴク変わって、しかも話がまったく通じなくなって、その友人が「主人公のことを本当に心配して、本当に考えて、しかもよかれと思って」主人公のことを苦しめたり、殺そうとするという話がある。

 

この話のポイントはその友人は「よかれと思って」主人公を苦しめたり殺そうとするというところだ。

 

しかも、その友人は主人公のことを本当に心配しているし、本当に考えいてくれるのだ。

 

それが悪意だったら話は違う。

 

そういうことは今の日本に普通にある。私が「その友人」だった時期もあるのだ。

 

それは怖いだけではなくて「気持ち悪い」はずだ。

 

今書いてみて「この話はおもしろい」と思ったので書いてはみるが。

 

今も私は洗脳されてはいると思う。

 

苫米地英人さんの洗脳や洗脳を解く話を読むと異常に苦しくなっていたのは自分が洗脳されていた時期があったからだ。

 

今も洗脳は続いているとは思う。

 

でもそういう物語が浮かぶのは洗脳されて暮らしていた時期があればこそだ。

 

あのままだったら自分だけではなく周囲にひどい迷惑をかけていたはずだ。

 

でも自分がいつ洗脳されたのか、どういう風に洗脳されたのかがわからない。

 

そして誰が洗脳したのかもわからない。

 

寓話「チケット」はこういう風に終わればいいんだ。

普通に考える時代 習慣化

1、ラッキーアイテムの構造

 

朝のテレビでたいてい占いをやっている。「今日のラッキーアイテム」というものもある。

 

あれは自由な都会人には必要なのだろう。私はずっと束縛を受けていたので必要なかったが。

 

物語として考えてみればラッキアイテムの構造が見えてくる。

 

なんとなくテレビを観ていたひとが「あなたの今日のラッキーアイテムは赤いものです」と言われたとしよう。(どういうものがラッキーアイテムなのか私は知らないのだが)

 

そのひとは赤いものを探し始める。冷蔵庫を開けてトマトを見つけるかもしれないがトマトは携帯できない。いろいろ探して赤いハンカチを見つけて「これもっていこう」と思う。そして安心する。

 

ラッキーアイテムはなんでもいいんだと思う。

 

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」という本がある。

 

自由という状態は大変なのだ。

 

ある程度の束縛があったほうが楽だ。

 

ある程度のワクの中での自由が楽なのだ。

 

一定程度の束縛を受けている状況は「善か悪」という観点ではなく「楽か大変」という観点でみると「楽」だ。

 

2、運命論としての占い

 

「占い」にはいろいろあるがたいてい「傾向だ」という。

 

血液型占いは世界中で行われているわけではない。

 

でもO型はこういう傾向があるという話は実体験と結構あっている。

 

たぶん星座でもそういうことがあると思う。

 

長男か次男とか親の仕事が自営業か会社員かということでも傾向があると思う。

 

ただこういう占いの致命的な欠点は「運命論」になりかねないというところにある。

 

以前「次男坊が今はいいんだ」という本を書いたひとがいた。私は正直バカにしていた。

 

理由は「それではあなたは長男に生まれたら、そのひとがなにをどうしても、そのひとがうまくいくということはありえないというんですか」という反論がありうるからだ。

 

たとえばそういわれたら「次男坊がいいんだ」という説のひとは「そうは言っていませんが・・・。でも事実次男で成功しているひとが多いんです」とでも答えるのだろうか。

 

たぶんそのひとがもって産まれたものは事実あると思う。

 

でもそれだけですべてがきまるわけでは当然ない。

 

ここでいう「運命論」とはそのひとが産まれた瞬間にそのひとの人生がすべて決まっているというものだ。

 

そんなことはありえない。

 

 

ただ人間を何種類かに分けることには意味がある。

 

「このひとはこういうタイプだから、このタイプのひとにはこういう接し方をするとうまくいきます」という接し方のパターンを提示する場合には特にそうだ。

 

 

3、スピリチュアルなるもの

 

他界されたが哲学者の池田明子さんと現代インテリの長老養老孟子さんともう一人優秀な学者3人の鼎談があったらしい。

 

この3人共通で「日常生活がわからないこと不思議なことであふれているので死後の世界とか霊とかそういうことが格別不思議だとは思えない」と話になったと前に読んだ。

 

性別が関係しているのかどうか不明だが「なぜなの」とずっと聞いている子供がいる。

 

問いにはざっくりわけると2種類ある。

 

Why(なぜ)

How(どうやって)

 

だ。

 

こういうことを大人になっても考えているひとはあまりいないと思う。青は青いことが多いが「なぜ空は青いのか」。(これはWhyだが)

 

でも朝焼けと夕焼けの時には赤いこともある。

 

私には正直すぐには答えられないが光は波長の長さで色が違うはずだというあたりから考えていくと答えが出ると思う。

 

太陽の光が大気にぶつかったときに何かあるのかなとか。

 

こういうことを日常的に考えているひとにはスピリチュアルななにかが特別にどうだとは思えないのだろう。

 

皮肉な現象だが「科学的な啓蒙する」と日常生活の中にある不思議さを見失う人々が出てきて、そういう人々がスピリチュアに惹かれるという構造があると思うのだ。

 

私は数学は専門外だが「1,2,3,4,5」といった数字を自然数という。自然数は人間だったら誰もが使える。

 

だが「なぜ私たちは自然数を当然のように使えるのか」という風に思うんとそれは優秀な数学者にしか答えられないことになってしまう。

 

 

4、学校の終わりと始まり

 

今の学校は兵士と工場労働者とオフィスワーカー(事務職)を養成する場所だ。そういう意味での学校はもう終わっている。

 

私には何をどうした方がいいという力はないが、「今当然とされていることを疑う力があるひとが次世代の教育のことを考える時代」に入ったようだ。

 

そういう意味でいうと本が有効だと思える。

 

たとえば本の中では対談本というジャンルは軽いものだ。読みやすいのだ。でも対談本を出すためには10時間くらい話をするのは普通だ。

 

これをテレビやユーチューブでやるとはとても難しい。

 

メディアの特性上そうなる。

 

本には結構キツイことが書いてあることも多い。

 

 

 

藤野英人さんはファンドマネージャーだ。「GG資本主義」がなんであるとは明快には書いてはいない。

 

でも発音してみればわかるはずだ。

 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 

堤未果さんは右とか左とかそういうことではなく真摯に仕事をされているジャーナリストだ。

 

事情は知らないが藤野秀人さんも堤未果さんもテレビで観ない。

 

私はテレビが悪いとかネットが悪いとかそうは思わない。

 

「時間の使い方」の問題なのだ。

 

一日に数時間テレビとネットに費やすと結果として他のことができなくなるのだ。テレビもネットも基本楽しいものだから。

 

テレビもネットも共通で「習慣性」があるのだ。

 

習慣化についてはこの記事が良いと思う。

 

習慣化の3つのポイント!【今日からやってみる人限定】 - 一生つなわたり

 

ホメオスタシス(恒常性を保とうとする働き)があるので誰であっても「変化」はひどく難しいのだ。それは意志の力が強いとか弱いとかそういうことではない。

 

でも習慣になってしまえば「考えるまでもなくやっている」のだ。

 

頭の中は目には見えない「なぜだろう」とか「どうすればいいんだろう」と考えることが習慣になっているひとは普通にそういう風に考えるものだ。