世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「声の系譜」でたどる 中森明菜

この文章を書いている時(2017年6月)に日本の代表する歌姫はおそらく宇多田ヒカルだ。以前に「日本人はアルト(女性の低い声)が好きだ」と書いたことがある。その時にはそうだとしか思えなかった。しかし私はその考えを改めた。東洋人の声は細い。戦後「空前」と言っていいほどの音楽上のブームが起きる。「浪曲」「シャンソン」「ジャズ」とうだ。

 

浪曲」と「シャンソン」と「ジャズ」にはある共通項がある。「声が太い」のだ。

 

私は「早すぎた大歌手」だと考えているのが江利チエミだ。彼女の声は「太くて強くてちょっとしゃがれている。そして明るい」のだ。そういう意味で江利チエミのことを私は元祖松田聖子だと考えている。

 

宇多田ヒカルの母親の藤圭子はやはり「太くてつよくてちゃっとしゃがれた声だった。でも哀感がある声」だった。

 

戦後の代女性歌手を「哀感がある声」という系譜でたどると「美空ひばり」「藤圭子」「山口百恵」「中森明菜」「安室奈美恵」「宇多田ヒカル」というつながりを見せる。

 

一方「明るい声」という系譜の女性歌手は「越路吹雪」「江利チエミ」「中尾ミエ」「南沙織」「松田聖子」というつながりをみえる。

 

ユーチューブで中森明菜の「秋桜(こすもす)」についていたコメントに私は注意を奪われた。

 

「このひとは女優だ」と書いてあったのだ。もちろんそのコメントに反発したコメントもあったのだが。

 

中森明菜の歌である時期以降よく見られることなのだが彼女は「発音が悪い」。「秋桜(こすもす)」の発音もやはり悪い。しかし「十分に聞き取れる」のだ。

 

発声の問題もある。山下達郎竹内まりやが「駅」を中森明菜に書いているのだが「歌の解釈に達郎が激怒した」という噂があって真偽は不明だ。

 

ただ達郎はいわば「声帯派のシンガー」だ。加藤登紀子山口百恵中森明菜は「話す発声」と「歌う発声」がほぼ同じだ。(追記しておくと例外として森進一がいる。あのひとは内臓で声を出すそうだ)

 

山下達郎の発声はイタリアオペラの発生にとてもちかい。達郎はブラックミュージックラバーとしてしられているのだがイタリア系アメリカ人の歌に多くの影響をうけている。代表はフォーシーズンんずのフランキーバリだ。

 

(余計なことなのだが私は日本語に半母音を再び入れて欲しい。wa wi wu we wo ya yi yu ye yo がある方が日本語としては普通だと思うのだ)

 

彼女の「発音が明らかに悪い」のに「明確に聞き取れる」ことが彼女が「歌のコトバをとても大事につかっていること」をあらわしている。

 

私は中森明菜にある時期までまったく興味がなかった。松田聖子の聞き方も変わっていたと思う。

 

高校時代に友人が「松田聖子はもう歌謡曲じゃない」と言っていた。特に松本隆が聖子プロジェクトに参加して以降の作家陣は(当時はそういう言葉はなかったのだが)J-POPの大御所たちだ。最初の頃は財津和夫松本隆が参加した後はユーミンを筆頭に大御所たちが続々と書いているのだ。

 

歌番組では「作詞」と「作曲」を紹介するのが普通だった。

 

松田聖子に関しては「やっぱりユーミンはいい」とか「大滝さんがかいたか」「尾崎亜美は当然かくよね」と私はどこか作家陣を追っていた。

 

私が中森明菜に興味を持てなかったのは彼女が「歌謡曲」をやっていたからだと今は思う。

 

ただなんとなく「トゥルーアルバム」というセルフカバーのアルバムを聴いた当たりから彼女への興味ががぜん沸いてきた。

 

普通歌手が自分のヒット曲のセルフカバーをすると「小ワザ」が増えるものだ。しかし「トゥルーアルバム」では小ワザはむしろ減っている。そして「歌がでかくなっている」のだ。

 

トゥルーアルバムを聴いて「歌手としての中森明菜」にたいする評価は確定した。

 

中森明菜は大歌手なんだ」と思ったのだ。

 

中森明菜の声が細くて軽い。

 

彼女のデビュー曲の「スローモーション」の時には彼女は歌手としては凡庸だった。良い言い方をすれば彼女はとても素直に歌っている。

 

松田聖子の声は「太くて強くて硬くて明るい声」だから素直に歌うだけでそうとう歌の世界が確立する。

 

しかし中森の声では素直に歌うだけでは歌の世界を確立させるのは不十分だ。そういう意味で「スローモーション」は凡庸だといわざるを得ない。

 

そして彼女は努力を始める。「鼻にどの程度かけたらいいのか」とか「同じ『アー』だとしても違う音色があるはずだ」とか一頃よくやっていた「大きなビブラート」であるとか。あるいは「リズム感」だ。

 

それはある種の「演劇性」だということも可能だろう。

 

中森明菜の声が細くて軽かったがゆえに彼女は女優になったのだろう。

 

ただ彼女はシンガーソングライターではない。私の彼女に対する疑問は「中森明菜には歌と巡り合うチカラがあるのかどうか」という点にある時期うつった。彼女がヒット曲を連発していて時期以降については私はよく知らなかったし。

 

でも彼女は確実に「いい歌」と巡り合っている。

 

「良い歌と巡り合うチカラ」も大歌手に要求されるチカラなのだ。

 

彼女クラスになれば10年に一回で充分だ。彼女は確実に巡り合っている。

 

中森明菜は大歌手なのだ。

 

そして中森明菜松田聖子もスキャンダルと言い方ではちょっと説明できないような出来事があった。

 

松田聖子はある時期明らかに日本中から嫌われていたし私もその時期の松田聖子は嫌いだった。そして中森明菜も私生活でいろいろあった。

 

そういう二人がある時期にアプローチはまったく違うのだろうが「マイウェイ」を歌うのだ。

 

こういう歌詞をまったく違うアプローチで歌うはずだ。

 

「私もいろいろあったでしょ。皆知ってるわよね。でも私はそれなりに頑張って来たつもりなの。そして今も歌えてしあわせだと思っている」という内容だ。

 

松田聖子中森明菜は「マイウェイ」を歌う「資格」をもった今の日本で数少ない歌手なのだ。

 

そして宇多田ヒカルの出現でに日本人の「太くて重い声」に対する憧れは大幅に薄れたはずだ。

坂口杏里さんについて 依存adictionの基礎解説

坂口杏里さんの事件が世間で話題になっています。この件についての詳細は私には不明です。

 

依存の発見

 

ただ「依存adiction」に対する一般の理解が薄いのでこの機会に軽く解説をしていおきます。

 

おそらく1970年代のアメリカ西海岸だったと記憶しているのですが「依存の問題」があることがわかりました。

 

当時パートナーが酒におぼれてひどい目にあっている女性を助ける動きが出たのです。女性たちが暴力を含めてヒドイ被害をあっていたので助けようとしたのです。実際シャルターのような場所を作ってなんとかヒドイパートナーから彼女たちを連れ出すことに成功した場合も多々ありました。当時はそれで十分だと思われていたのです。

 

しかしそうはいかなかったことが「依存は問題なのだ」ということがわかるキッカケになったようです。

 

彼女たちの中に「あの人は私がいないとダメなの」と言ってわざわざ本当に好意の人たちが必死に酒におぼれているパートナーの被害にあっている女性をシェルターに連れてきて種々の援助をした人々を裏切るように酒におぼれているパートナーのもとに帰る女性たちが多くいたのです。

 

その事実に「これはいったいなんだろう」と思ったことが依存が問題化するキッカケになりました。

 

「彼女たちはなんでわざわざヒドイ目にあうことがわかりきっているのにパートナーの元に帰るのか」というが当然疑問だったのです。

 

当時の結論は「酒におぼれて女性にヒドイことをする男性」と「その男性に耐えながらその男性の世話を焼く女性」は共犯関係にあるのではないかというものでした。

 

そういう女性の生育環境を調べていると父親がやはり酒におぼれていたことも分かったのです。

 

依存者と依存者のセルフイメージ

 

依存者については「こういう人たちだ」ということは指摘されています。それは「寂しいひとたち」だということです。

 

そして私も依存を抱えているのでわかるのですが依存者は「自分は意思のチカラが弱いダメなヤツだ」というセルフイメージをもっています

 

ではなぜ依存者がそういうセルフイメージを持つのでしょうか。これはあくまでも私の経験上の事柄です。

 

依存は何に出るのか不明だということもある時期以降はコンセンサスになっているのですが対象がここでは酒だとしましょう。酒が好きだというひとであっても暑い夏の日に「この喉の渇きをこのままにしてビールを飲んだらうまいだろうな」であるとか「良い音楽だな。この音楽には酒があうよね」という程度の「酒(依存の対象)への欲望」しか持っていないのが普通です。

 

しかし依存者は年がら年中とはいいませんが「日常的に酒を飲みたい。それも浴びるほど飲みたい」と強く思っているのです。そしてその欲望を自分の意思のチカラで抑えているのです。でもあまりにその欲望が強いので時々欲望に負けて酒(依存の対象)におぼれていまうという構造があるのです。

 

そういう構造上依存者のセルフイメージが「自分は意思のチカラが弱いダメなヤツだ」ということになります。

 

パチンコ依存とブレインサイエンス

 

以下は引用です。URLだけはって飛ぶようにしようかとも思ったのですが長いのですが引用します。「パチンコ依存症の治療法」というウェブからのコピペです。

 

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パチンコで脳に起こる変化

パチンコ依存症は精神科の分野ですが、精神と言っても実際には肉体、特に脳では物理的な変化が起きています。

脳内で肉体を制御している代表的な神経伝達物質として、行動を活性化させるドーパミン、行動の維持に必要なノルアドレナリン、行動を抑制するためのセロトニンがあります。

あるパチンコをする実験では健常者と比較して、依存者の脳内ではドーパミンノルアドレナリンが過剰な活動をしており、逆にセロトニンの機能低下が観測されました。

つまり、依存者はパチンコで必要以上の過度な興奮をし、持続性も非常に高く、ブレーキが利かなくなっている状態だと判断できます。

また、脳内の中にエンドルフィン類という物質があります。これはモルヒネと同じような働きをする物質で、「脳内麻薬様物質」とも呼ばれています。

エンドルフィン類の中でもβ-エンドルフィンは、好きなことをすると分泌され、体をリラックスさせ、心を落ち着かせる感覚を与えます。一方、なくなるとイライラし、体がβ-エンドルフィンを欲するようになります。

パチンコも好きなことであるので、好きなことをすればβ-エンドルフィンの増加します。パチンコに打ち込めば打ち込むほど、β-エンドルフィンが増え続け、得られる快感も大きくなっていきます。

やらなければ、β-エンドルフィンを欲します。一定のラインを超えるまで、β-エンドルフィンを欲する状態は持続します。

β-エンドルフィンの分泌と同時に、脳の興奮を沈静するためにコルチゾールという抑制物質も分泌されますが、パチンコで強い刺激を与え続けると脳の興奮、大量のコルチゾールによって一気に沈静化します。

しかし、逆に脳には快感を得たいという記憶が残っているために、欲求が生まれ、衝動が抑えられなくなるのです。

パチンコのようなギャンブルは急激な興奮状態を得ることから、抜粋された記憶が残りやすく、中毒性が高くなり、抜け出すことが比較的に手間がかかるとされています。麻薬と同じ感覚に陥るとも言えるでしょう。

パチンコ依存症は病気なのですが、表面上は身体的異常が見受けられないために、自覚するまで時間がかかります。自分で診断する場合は依存症の特徴を当てはめていくのが良いでしょう。

ある物質や行動への渇望、物質摂取や行動の制御の困難、禁断症状、軽度の不眠などの離脱症状、掛け金の増加、行動頻度の増加などの耐性、物質摂取や行動以外に対する関心の低下、障害を認知しながらの行動の継続が依存症の症状です。

軽度でも重度でも趣味から度を超えていると自覚したときには、すでに何らかの依存症状に当てはまっているはずです。

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この記事でわかるのはパチンコに依存している状況は覚せい剤を常用している状況とほぼ同じだということです。覚せい剤を常用しているひとに「覚せい剤はやめろよ」というひとはいません。

 

私はなんでもかんでも依存のせいにするつもりはまったくありませんが「依存は病」です。ですから「治療が必要」なのです。

 

依存とお金

 

依存者は依存の対象に大金が必要になります。以前から(だから安くしろという意味ではまったくないのですが)依存者は大金が必要になるという指摘がありました。

 

名前はいちいちだしませんが芸能人やアスリートで薬物やギャンブルに依存しているだろう人々がワダイになりました。だけれども彼らがお金持ちだったために表面化しなかったのですがたとえば覚せい剤は当然高価です。

 

私は「だから安くしろ」というつもりで書いているワケではまったくありません。ただ現実問題として「依存者には大金が必要になる場合が多々あります」。

 

パチンコでも一日で10万すってしまうことは十分考えられるのです。

 

依存者は大金が必要だという理由で「平気でウソをつく」「借金をする」「親をだます」ことがよくあってそういう理由での破滅の事例もよく報告されています。

 

杏里さんの事例

 

杏里さんが依存者かどうは私には不明です。ただ彼女がしていることをなんとなく眺めていると彼女がしていることは「坂口杏里は頭が悪い」というレベルのことではありません。「坂口杏里は頭がおかしい」というレベルのことなのです。

 

これは彼女への悪口ではありません。彼女の行動がそこまで異様だという指摘です。

 

依存は対象が何になるのは不明なのです。

 

これは仮定なのですがもし杏里さんが依存者であるならばなんらかの治療が必要なのです。

 

そういうことがあるので精神科医の先生方が強く非難されることもあるのですがたとえば覚せい剤の常用者は「犯罪者」です。しかし精神科医にとっては「患者」なのです。ですから精神科医の元に覚せい剤の常用者が相談に来ても通報する義務が医師にはありません。

 

坂口杏里さんは「ホスト依存だ」といわれています。普通にかんがえばただのバカです。

 

しかし彼女がもし依存者であるならば彼女は「病者」であり「治療が必要」なのです。

 

おそらくそういう風にみている精神科医も多数いるはずです。

 

これは精神疾患にだけ使われるコトバなのですが「病識」という言葉があります。「病識とは自分は病んでいると自分で認識すること」です。

 

ある友人は明らかに精神を病んでいましたが彼は「自分はニートかもしれない」と言っていました。そうではありません。彼は病んでいて治療と休息が必要なだけだったにも関わらずです。

 

私も「病識」がない時期の方が多かったのです。

 

依存に対する決定的な治療法はまだ確立されていませんが坂口杏里さんの行動をマスコミを通してみていると私には「坂口杏里には治療が必要だ」としか思えないのです。

 

治療的司法

 

再びコピペです。これは成城大学のウェブからです。

 

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治療的司法研究センターについて

 治療的司法という言葉は英語のtherapeutic justiceの訳語ですが、刑事司法制度について犯罪を犯した人に対して「刑罰を与えるプロセス」と見るのではなく、犯罪を犯した人が抱える「問題の解決を導き、結果的に再犯防止のプロセス」と捉えようという考え方、すなわち治療法学(therapeutic jurisprudence)に基づく司法制度を指します。
 既に諸外国では、こうした考え方に基づいて実際の刑事司法がデザインされていて、そうした裁判制度は「問題解決型司法(problem solving court)」と呼ばれています。具体的には、薬物依存症者を対象にした「ドラッグ・コート(Drug Court)」や精神障害犯罪者を対象にした「精神障害者コート(Mental Health Court)」、DV加害者を対象にした「DVコート(Domestic Violence Court)」などが有名です。
 犯罪を行った人の中には法律で禁じられた行為に至るまでに、その生活で何らかの原因(各種の依存症)や生活上の問題を抱えている場合が少なくありません。そうした原因・問題を除去することができなければ犯罪を繰り返すこと、再犯に容易に至ってしまいます。もちろん刑罰による犯罪抑止効果を否定するものではないのですが、現在、世界各地で刑罰では抑止できない行為を色々な科学的知見に基づく治療法や解決法によって抑止する機会を司法制度の中に取り込む工夫が進められているのです。それこそが、治療的司法という考え方です。
 本センターはこうしたtherapeutic justice/therapeutic jurisprudenceについて調査や研究を専門に実施するわが国で初めて設立された研究機関です。
 また、本センターは、単独で調査研究を進めるだけではなく、治療的司法の考え方に賛同し、共通する価値観を持った問題解決支援者や依存症離脱支援者等の様々な団体やグループと連携してネットワークの構築を進め、多様な依存症(嗜癖や嗜虐)を抱える人々を支えることのできるセーフティネットとなるような社会の仕組み作りに参画します。

注記
 本センターは調査研究機関ですので、依存問題や法律問題を抱えられている方々の回復支援業務や問題を解決するための相談活動を行っておりません。そうした問題を抱えている方々やご相談の必要のある方々のためには、関係機関や支援団体等のリンク集を別に用意していますので、それらを参考にして頂きますようお願いいたします。
治療的司法研究センター連絡先
送付先(研究機構事務室宛)
〒157-8511 東京都世田谷区成城6-1-20研究機構事務室内治療的司法研究センター宛

 

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「奴らは犯罪者だろ。刑務所にいれればいいじゃないか」という考えが一般的なのだと思います。そうかもしれません。ただ問題は「再犯」なのです。

 

わかりやすい例が覚せい剤です。覚せい剤に依存しているひとを刑務所に入れても彼らの依存の治療が行われない限り彼らが再び覚せい剤に手を出してしまう可能性がとても高くなります

 

それがギャンブルや他の依存であっても同じことです。

 

私は杏里さんには治療的司法が必要だとしか思えません。このブログの読者の方で杏里さんを治療的司法につなげてくれるひとがいればいいと私は願っています。

アートって「ひまつぶし」じゃないから 「表現」にはコア(核)がある コドモのチカラ

あんまり具体的に書けないのですが「表現」とか「アート」をやっている人たちの中に「表現」や「モノづくり」を「ひまつぶし」でやっているひとがいます。そういう仕事が評価を受けたりするからイヤなのですが「こねくりまわした仕事」は早く終えてください。

 

私はなぜかロシアが好きでシャガールとかドストエフスキーとかストラビンスキーとかムソルグスキーとか子供の頃から好きなのです。

 

チャイコフスキーもそうなのですが「子供にとっておもしろい」のです。

 

ストラビンスキーもムソルグスキーチャイコフスキーも「子供にとってすごく面白い音楽」なのです。(少なくとも私にはそうでした)

 

私は画廊に普通に行きます。そして「この絵って」と普通に画廊のひとと話をします。私は「自分の中いる子供」に自信をもっているからです。

 

私は絵を描くのですが基本写真を見ながら描きます。そういう描き方は邪道なんだというひともいますが私はそうは思いません。

 

「表現」にはコア(核)があるのです。そのコア(核)が弱いと「ひまつぶし」や「こねくりまわした仕事」にどうしてもなります。

 

そのコア(核)を磨く方法を書かないと世間に喧嘩を売ることになるのでその方法を書いておきます。

 

「遊ぶ」のです。その「遊び」というは刹那的なものでも享楽的なものでもありません。「喜び」を追い求めるのです。その「喜びをでかく」するのです。

 

酒を飲む女の子と遊ぶということも「喜び」です。でももっと「でかい喜び」を追い求めるのです。

 

それをあえてコトバにすると「子供になる」のです。

 

ちょっと難しいコトバを使うと「無意識領域」で「遊ぶ」のです。

 

私が「こねくりまわした仕事」だと批判したのは「意識領域」での工夫なのです。

 

物語でも小川未明の童話はつじつまがどうあっているのかが不明な場合があります。

 

小川未明童話集 (新潮文庫)

小川未明童話集 (新潮文庫)

 
野ばら

野ばら

 

 無料本もあるので読んでみてください。

 

童話なのですがどこか薄気味悪い小川未明の童話は小川未明は無意識領域にまで降りていくのです。結果「つじつまがどこかあわない」ということにもなるのです。

 

「こねくりまわした仕事は逆」です。

 

パフュームの三人がいくらがんばっても評価を受けるのは中田ヤスタカではあるよねと思って彼女たちにたいしては独特の気持ちでいますがパフュームのアルバムで「GAME」というタイトルのものがあります。

 

アートってGAMEじゃないのです。クイズでもありません。

 

中田ヤスタカがあえて「GAME」というアルバムタイトルをつけたのは彼の仕事がGAMEではないからなだと想像しています。

 

私がいうコア(核)がない人達は「うまい」です。コア(核)がないからテクニカルにしかならないのです。

 

なんで表現者が子供にならないのか私には不思議でなりません。

 

「子供のなりなよ!あんたら」

編集の時代 署名原稿 メリル・ストリープのスピーチ トランプさんのツイッター

フィクション(創作物)や信頼できるジャーナリストの著作はとても勉強になります。

 

新聞を今僕は取っていません。でも取るとしたら3誌は取らないととも思うのです。「地方誌」と「リベラルな論調の新聞」と「保守的な論調の新聞」の三誌です。

 

今は「国会議事録」も読めます。だけれれども僕はジャーナリストではないのです。

 

最近で「オレ何してるんだろう」と思ったことがありました。

 

メリル・ストリープがトランプさんのCNNの記者の対する態度に対する抗議の意味のあるスピーチをしたと聞き「メリル・ストリープのスピーチ全文をユーチューブで見た」のです。あるいはトランプさんの演説全文をやはりユーチューブで見ました。

 

僕はジャーナリストではありませんしこういうことを僕にさせないで欲しいのです。

 

僕はそこいらにいるオジサンなのです。ジャーナリストではありません。

 

批判は当然です。だけれども「紹介」して「解説」して「評論」でしょ。

 

池上彰さんや佐藤優さんは「解説」してくれますし「評論」(批判が多いのですが)もあります。でも「紹介」してくれるひとというかワクがとても狭いのです。

 

「ワイドショーってすごいな」と思ったことがあります。出先でテレビがついていたのです。小池百合子さんの演説を長々流していました。東京は大都会で日本の首都ですが小池さんは地方都市の一組長さんにすぎません。

 

僕はそんなに応援していませんがそういうことをするくらいなら安部さんの演説を聞きたいのです。「紹介」という意味です。識者の「解説」も「評論(批判が中心になるのでしょうが)」も読みたいのですがまず「紹介」をしてください。

 

ネット上のまとめサイトを僕はみません。まとめたひとの「主観」が入るからです。

 

メリル・ストリープの「強さ」を僕はそんなに楽しめませんでしたが「マンマミーア」を観て「そうだったんだ」と思いました。彼女は女性に愛されるスターです。

 

マディソン郡の橋を観て僕にはさっぱりわからなかったのですがあの映画は中年女性が見てうっとりする映画なのでしょう。性別男の僕には「意味がわからなかった」のは当然でした。

 

トランプさんがツイッターで過激な発言を繰り返しています。

 

僕はトランプさんをそんなに応援していませんしCNNの記者に対する態度はいかなる理由があってもしてはいけないことです。

 

だけれどもCNNはリベラルな論調のテレビ局ですからトランプさんにすれば「CNNはオレが何を言っても何をしても悪口しかいわない」と切れてしまったのでしょう。繰り返しになりますがいかなる理由があるとしてもあのような言動は取ってはなりません。

 

また「個人」でツイッターを使ってもなりません。もしSNSを使うのならば「大統領府」まで落としてFacebookをやるのが筋です。

 

何故なら「トランプさんは公人だから」です。

 

「公人」とは「そもそもとても居心地の悪いもの」なのです。「居心地のいい公人なの原理上存在しない」のです。

 

それは昔からわかっていることです。ある童話があります。「王子と乞食」です。(僕は貧困問題を放っておけという意味でこの童話を取り上げるのではありません。貧困問題は想像以上に深刻なのです)

 

王子は自分が王子だということにうんざりしています。乞食の少年は当然乞食なんてイヤです。たまたま姿が似ている二人は立場を入れ替えるのですが「王子ってこんなに大変だったんだ。乞食ってこんなに大変だったんだとお互い思い知る」という話です。

 

ただ僕が暇人だからトランプさんの演説全文もいくつか聞きましたが「こういうニュアンスだったんだ」とは思いましたよ。(今は英語も日本語も堪能なひとがいくらでもいるので翻訳がネット上にあるのです)

 

僕自身そういうことを試みて失敗したことがあります。「嫌韓」のムーブメントが強まった時に「韓国人の友達を作りたいな」と思ったのです。あるいは「在日」ってよくいいますよね。あなたの友達に「在日韓国人」あるいは「在日朝鮮人」がいますか。

僕は知人に一人いるだけです。

 

メリル・ストリープのスピーチはとても効果的なものでした。ハリウッドの著名人を次から次へと上げていって「あのひとはどこ出身です。あのひとはどこ出身です」とずっとやっていったのです。つまり全員「移民だ」ということです。

 

トランプさんはよく「移民」と言っていました。僕の想像ではUSピープルの中で「移民」という言葉はとても抽象的なものでしかなかったと思うのです。それがメリル・ストリープのスピーチで「とても具体的になった」のです。クリエーションに対する見解も素敵でした。

 

でもあなたはそういうことを知らなかったのではないですか。

 

「編集の時代だ」ということは間違いありません。

 

だからこそ「編集したひとは責任を持つのが筋」なのです。

 

具体的にいうと「安部さんがこういったと土本クニシゲが書きました」という構造をはっきり見せる必要があるのです。

 

「トランプさんがこういったとCNNの誰それが言っています」という構造です。

 

メリル・ストリープのスピーチはこうでしたと土本がまとめました」という構造です。

 

新聞にも署名原稿が増えています。

 

ネット上の記事で僕が「これってテイストが似すぎているんだけれども」と思ったこともあります。全部違う記事でした。でも「これだけテイストが似ているということは同じひとが書いている可能性がある」としか思えなかったのです。

 

雑誌ではこういうことは昔からありました。ある一頃司会者もしていた音楽家がよっぽど腹に据えかねたのでしょう。ある番組でそういう話をしていました。

 

そういうことをことさらにいうひとではありません。でも本当に腹に据え変えていたからこその発言だったと思います。

 

音楽家の男性がある女優とつきあっていたとその女優の名まえを出していました。そしてその女優のファンのライターが二人が付き合っていることを知って二人を別れさせるために音楽家のスキャンダルを(全部ウソだったそうなのですが)雑誌に書き散らしていたそうなのです。ダテにライターではなくウソなのですが読むとリアリティがあったそうでその件が原因でその女優と別れたそうなのです。

 

あるいは室井佑月さんが妙に自分の悪口が雑誌にのると思って調べてみたら二人のライターが室井さんの悪口をアッチコッチに描き散らしていたらしいのです。

 

ネットも「匿名だからダメなんだみんな本名でやろう」という提言があります。

 

プロマスコミは新聞だろうと雑誌だろうとネットだろうと当然署名原稿でしょ。

 

「編集の時代」なのだから当然ですよね。

前園真聖さん!東野幸治さん!「あんたらの困り芸にイライラすんだけど」 ワイドナショーを観て

僕は基本テレビを観ないのですが今日「ワイドナショー」を観ました。そして「これってもはや芸だ」と思ったのです。

 

日本語は本当に総ルビにして欲しいのです。僕の名まえも読めないの名前なのでペンネールを使っているのですが前園真聖(まえぞのまさきよ)さんの名まえも読みづらいです。

 

あの方が余計なことばっかりいっていてそこが大好きなのですが森喜朗さんです。日本の総理まで務められた森さんの名まえが僕は長年読めませんでした。「モリキロウとは読まないよね。でもこれってナンテ読むんだろう」と思っていたのです。そしてある時に「モリヨシロウ」と読むことを知ったのです。

 

本題ではないのですがオジキこと須田慎一郎さんがラジオを言っているのを聴いて「そうなんだ」と思ったのですが森さんは原因不明でとにかく現東京都知事小池百合子さんが大嫌いらしいのです。

 

そういうことってあるじゃないですか。「原因はわからないのだけれどもなんだかこのひとが大嫌いなんだけれども」ということです。

 

そういう事で森喜朗さんが小池百合子さんの悪口を言っていたらしいのです。

 

森さんが余計なことばっかりいうでしょ。あの「余計なことばっかりいう感じ」が僕は大好きなのです。「神の国」とか本当に余計なことですし浅田真央選手に「あの子が大事な時に転ぶ」とか本当に余計なことですよ。でも「余計なことをいう感じ」が僕は大好きなのです。

 

これも本当に余計なことなのですが森喜朗さんみたいなひとを政界に出すために「小選挙区はやめて中選挙区に戻してほしい」と僕はずっと思っています。

 

あれはもやは「芸」だと思うのですが前園真聖さんも東野幸治さんもテレビでしょっちゅう困っています。

 

東野幸治さんはまだわかるのですが前園真聖(まえぞのまさきよ)さんは仕事は一体ななですか。スポーツジャーナリスト?タレント?サッカー解説者?元日本代表のキャプテなのですが。一流アスリートなのですが。

 

今日「ワイドナショー」を観てて僕はイラっとしました。東野幸治さんが「皆の意見がそろったということで」という発言をしていたのです。「どうなるかと思って困ってたんだけどなんとかなってよかった」という趣旨です。

 

前園真聖さんもしょっちゅう困っているんですよ。

 

東野さんにしても前園さんにしても今となっては「困ってナンボ」だとか僕には思えないのです。

 

全知識あるひとは確実に思っています。「自分の知識が自分でウザイ」と。僕もそうです。

 

僕は熊本のひとなのですが今日前園さんが熊本のプロバスケットボールチームのリポートをしていました。

 

ワイドナショー」で熊本のプロバスケットボールチーム「熊本ヴォルターズ」のリポートしていたと僕は今日まで知りませんでしたしウィキるまで前園さんが男子バスケットボールリーグ「Bリーグ」特命広報部長をやっていることもしりませんでしたが。

 

熊本ヴォルターズは熊本で正直盛り上がっていません。理由は簡単です。熊本では地上波でヴォルターズの放送がされていないからです。MBS毎日放送)が親会社らしいのですがGAORA(ガオラ)というCSと契約しないとヴォルターズの試合を見ることが出来ないからです。BSフジはプロバスケットボールをやっているようなのですがCSを契約する人は一部ですしましてスカパー以外のCSを契約するひとはごく一部です。

 

僕も今ウィキってGAORA(ガオラ)なるものが存在することを初めて知りました。

 

確かに客は入っているように見えます。でもそれは「体育館」だからです。プロスポーツとしては「観客は1万人」くらいは望まれるのですが今の観客動員はそんなレベルには至っていません。ハコが小さいから人気があるように見えるだけです。

 

もちろん僕はヴォルターズを応援していますが試合結果が地元にいても良くわからないですし。盛り上がりにかけているのです。

 

選手がダメだとか運営がダメだとはそんな風にはまったく思いません。ただ事実ヴォルターズは熊本で「盛り上がりにかけている」のです。地元のケーブルテレビでヴォルターズの選手が出る番組はあるのですが僕は地元にいるのですがヴォルターズの試合を会場でもテレビでも見たことがないのです。そして試合結果もよくわからない状況だから「盛り上がりにかけている」と書いています。

 

そういうリポートを前園さんはしてくれないのです。

 

あるいはこれは今ウィキって知ったのですがNBAには人数のワクが決まっているために独立プロバスケットボールリーグは10以上あるらしいのです。

 

このことをラジオで僕は知って「それはコロンブスの卵だった」と思ったのですがバスケットボールというと「背が高いひとがするものだ」と僕は長年信じ込んでいました。でも今のNBAで得点王を取るかもしれないといわれているアイザイア・トーマスの身長が何センチだと思いますか。175cmなのです。

 

これはバレーボールならこうはいきません。でもバスケットボールならありうるのです。

 

バレーは「サーブ権」の問題はありますが基本得点は1点です。

 

しかしバスケットには複数の得点があります。これは「バスケットのルールと用語の紹介サイト」からのコピペです。

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得点の種類
バスケットのリングをボールが上から通過すれば得点になります。得点はゴールと呼び、3種類あります。
スリーポイントラインの外側からのゴールは3点、スリーポイントラインの内側からのゴールは2点、フリースローでのゴールは1点になります。

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ダンクシュートはスゴイです。背が低い僕には憧れです。しかしそれがダンクであったとして2点です。しかしスリーポイントラインの外から打てば3点です。

 

だから戦略として「とにかく外からスリーポイントを狙う」という戦略はありうるしそれゆえにアイザイア・トーマスのように身長が175cmの選手が得点王になる可能性が出てきているのです。

 

僕はスポーツはまったく門外漢です。しかしこの程度の知識はあります。

 

この事を前園さんはまったく言ってくれないんのです。別に前園さんじゃなくて東野さんでもいいのです。

 

僕がテレビを基本観ないのは「イライラ」するからなのです。僕程度の知識もないひとが「語っている」からです。

 

僕が今書いて来たことって前園さんか東野さんがいうのが筋の事柄だと僕は思うのです。

 

これも本当に余計なことですがフィギュアスケートに「トリプルアクセル」」ってありますよね。「三回転半ジャンプ」です。

 

伊藤みどりさんも浅田真央さんも「トリプルアクセル」で有名でしたよね。

 

羽生結弦さんの「王子様キャラ」も興味深いと僕は思っています。僕も当然東洋人です。ある時期までの「王子様」といえば基本「白人」だったはずです。でも今は僕は東洋人だからではないと思うのですが東洋人が「王子様キャラ」で誰も疑問を抱かないと思うのです。一回は苦労したほうが良いと思っていたやはり「王子様キャラ」の石川遼さんもはいあがってくるのでしょう。

 

僕は余計な話ばかりをして本題にたどり着けないのですが僕が勝手に「ピラミッドの法則」と呼んでいるものがあります。

 

「高いピラミッドを作るためにはどうすればよいのでしょうか」。答えは簡単です。底辺を広く取ればよいのです。そうすれば頂点は上がります。

 

Jリーグ発足時に「大丈夫か」と心配する声があったのですが僕は「大丈夫だ」と思っていました。理由は簡単です中学高校で野球部とサッカー部がとても偉そうにしていたのを覚えていたからです。つまり野球もサッカーも「底辺が広い」のです。

 

日本は学校スポーツが中心です。ラグビーが来ていることは確かです。しかし中学高校に普通にラグビー部があるでしょうか。僕の記憶ではラグビー部はそんなにはないです。つまり「底辺がそんなに広くない」という理由でラグビーの「頂点が上がりづらい」と僕は考えています。もちろん「五郎丸さん」はすばらしいです。だけれども「ラグビーを盛り上げたかったら中学高校のラグビー部の絶対数を増やすのが筋です」。そうすると「底辺が広がるので頂点が上がる」のです。

 

テニスやゴルフや水泳は個人競技ですし「クラブ」で選手が育つことが多いようです。昔は「子供がゴルフをするなんて贅沢だ」「テニスなんて」「スイミングクラブに行くのはお金持ちの子」という感覚がありましたが今は違いますよね。その「底辺の広がり」が頂点を上げているという僕の仮説が「ピラミッドの法則」です。

 

やっとトリプルアクセルに話が戻るのですが同じスケートでも「スピードスケート」と「フィギアスケート」では違いすぎて「スピードスケート」の選手が「フィギアスケート」のスケート靴を履くと歩けないという話(これはそうとう曖昧なのですよ)を聞いたことがあります。

 

当然スピードスケートは「前に向かって滑ります」。当然ですよね。でもフィギアスケートの選手がスピードをのせようと思う時は(僕がテレビで観るかぎり)「後ろに向かって滑っている」としか思えません。

 

「生理」として前に向かって飛ぶのは怖いと僕は思うのです。フィギアスケートの選手はジャンプの前に方向を変えることが普通です。後ろに向けてすべってスピードをのせて前に向き直って後ろムキに降りるのが僕がテレビで観て「そうなんだろうな」と思っているトリプルアクセルなのですが誰もそういうことをわかりやすく解説してくれないのです。

 

前に向かって飛んで後ろ向きに降りるから「三回転半ジャンプ」だと思うのです。もちろんウィキればわかりますがもう疲れているのウィキりませんしこういう基本的な事柄の解説はテレビでやって欲しいのですが今まで僕はきいたことがないのです。

 

友人とちょっと勉強をしていてその友人は「そういうことは勉強するひとがやることだ」と言っていたのですが僕は不親切なテキストだなと今でも思っています。

 

テレビを「情報源だ」というひとが昔はいたのですが「ネットがどうこう」という問題ではなく今のテレビから得られる「情報量が落ちています」。

 

実際お昼の情報番組を病院で定期健診の時に眺めていてある種「感動した」ことがあります。その日のその「情報番組」の「情報がゼロ」だったからです。「情報ゼロでも情報番組が成立すんだ」と思ってある種「感動した」のです。

 

やっと話が戻ってきたのですが前園真聖さん!東野幸治さん!あなたがたがすぐ「困る」のはもはや「芸」といえるレベルに到達しているとは思います。超おもしろいです。でも「困ってるだけ」といえばそうともいえるんですよ。

 

ネタは取材をすれば拾えるんですよ。自分が取材が苦手だと思えばスタッフを使うんですよ。

 

テレビパーソンに聞きたいのですが「困り芸」っていつからテレビにあるんですか。

 

前園さんも東野さんも僕はファンですよ。だけど「あんたらの困り芸にイライラもしています」よ!(というお二人への応援のメッセージを休日に時間を使って無意味に描いていることがファンの証でしょ。)

マクドナルド報道で思うこと 目先のPVが欲しいんですか 「短期すぎると僕は思いますよ」

僕でも「このワードを使うとPVが増えるし検索でもヒットするんだけれどもそれって下品だからそのワードは使わない」と思って書いていることがあります。僕はロングテールを狙うので先輩ブロガーから「腐るワードはやめて置いた方がいい」というアドバイスもいただいていますし。

 

とか「ニッチ(隙間)は売上が小さいからニッチ(隙間)なんでニッチ(隙間)はやめ解けば」というアドバイスをもらったこともあります。

 

マクドナルドってビッグワードです。マクドナルドについて記事を書くと注目度が上がるのは僕にもわかります。

 

でもここ何年かでマクドナルドに関して

「外食産業はマクドナルドの一人勝ち」だとか

マクドナルドはどうにもならない」だとか

マクドナルドが復活してきた」だとか

という記事が普通に出ています。

 

マクドナルドの一人勝ちだ」と普通に書いてあった時期に僕もとても違和感がありました。マクドナルドの一人勝ちなのであれば「吉野家」がつぶれていたはずです。「リンガーハット」も「ケンタッキー・フライド・チキン」も「やよい軒」もつぶれていたはずなのです。

 

でも当然そんなことがあるはずがありません。

 

僕はしょせん無名のブロガーにしかすぎませんがたとえばトランプさんについては基本書いていません。トランプさんは僕からみてもツッコミどころ満載なのです。僕が政治経済外交に関する十分な素養があるのならば書いても良いと思うのです。でも「枝葉末節」というコトバが指し示すように物事には本筋とどうでも良いことが混在しています。

 

トランプさんってどうでも良いことを書こうと思えばいくらでも書けるのです。僕はしょせん無名ブロガーです。でも僕の「良識」がそれを許さないのです。

 

変な言い方ですが「プロのマスコミ」が目先のPVを欲しがっているとしか僕には思えません。

 

僕が「ファンの恐ろしさ」を自分がある方々のファンなので感じたことが二回あります。

 

一回は「クローズアップ現代」の国分裕子さんに関してです。僕はファンとして国分さんにクローズアップ現代をずっとやっていてほしかったのです。でも当然国分さんにも私生活がおありになるしクローズアップ現代の最終回を観て「本当にご苦労様でした。一ファンとしてクローズアップ現代を観ることが出来てしあわせでした。あとは自由にされてください」と思いました。

 

同じく女性なのですが堤未果さんに私はあるタイミングで本を出してほしかったのです。堤さんの本は気軽に出せるようなものではないことはわかっていたのです。だけれども「堤さんの私生活なんかしったことではありません。あなたはひたすら本をかけばいいのです」とか恐ろしいことを僕は考えていたのです。

 

 

 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 

一ファンとして堤未果の著作を多くのひとに読んで欲しいので堤さんの本のリンクを張っておきますが。

 

僕は無名ブロガーだとしても「書くことの大変さ」はある程度わかっているのです。なのにそう思っている自分が恐ろしかったのです。

 

クローズアップ現代にしても堤未果さんの著作にしても一過性の話題を取り上げて視聴率を稼ぐとか本を売るとかそういうことの真逆にある存在だと僕は思うのです。

 

マスコミって「その時話題になっている物事をとりあげる」のはもちろんそうです。

 

僕はもういわゆるワイドショーを観ることはありません。その時の話題は北朝鮮でした。朝なんとなくNHKの朝ドラを観てそのままテレビをつけていたことがあったのです。なんとなくザッピングして驚きました。どの局も「北朝鮮ばかり」だったのです。しかも僕の低い見識からしても「とても浅い掘り」です。

 

それは構造上そうしかなりません。ほぼまったく知らない状況である事件がおきてその事を話題にして別の事件が起きたら同じことを繰り返しているのですから。

 

僕は一応ドラッカーがいう「スペシャリストであって同時にジェネラリストであるひと」です。

 

だから「シフトが組めないんだ」とは思います。例えばディレクターに余計な時間を与えて「普段の報道はして暇な時は好きことを追いかけてね」というシフトを組んでも良いし「この事件をやろうと思うと3年はいるし結果15分のワクしかやれないけどこれだけ3年やっていいよ。本にしなよ。印税は会社がもらうけどね」とかいうシフトを組んでもいいはずです。

 

無名ブロガーでも「このワードはキャッチーすぎるからやめておこう」と思って遠慮する場合があるのに「プロマスコミが目先のPVをおいかけて」どうするのですか。

 

もちろん私企業だから視聴率や売り上げは必要です。

 

だけれども私企業であろうとも国であろうとも「目標設定」は三種類です。

 

「短期目標」「中期目標」「長期目標」です。

 

現場にそれをやれ!とはいいませんが上の方が「中期目標」や「長期目標」を考えているとはとうてい僕には思えないのです。

 

「プロマスコミ」の皆さん僕も下品なのですが僕より下品だなと正直軽蔑していますよ。

「うらみ」を解け!上野千鶴子

うらみ」に基づいた言動はワケがわからなくなります。

 

以下の部分はネット上で情報が錯そうしていて確認が取れなかったのですが上野千鶴子が同性愛者を差別する発言をしているらしいのです。

 

私は理屈っぽいひとなので論理的な反論は可能です。

 

ひとやモノを差別する合理的根拠がある」と上野は考えているということになります。何らかの「合理的根拠」があるから同性愛者LGBTを彼女は差別すると発言しているのでしょう。

 

だとすれば「上野千鶴子女性差別を認める」ということになります。

 

合理的根拠なんていくらでも「発見する」ことも「つくる」ことも可能ですから。

 

たとえば「ある年齢の女性には生理がある」から「上野千鶴子は女性を差別する」こともあります。あるいは「女性は一般に男性よりも力がない」から「上野千鶴子は女性は差別する」こともあるのです。

 

私は「ひとやモノを差別する合理的根拠は存在しない」と考えるものです。

 

あるいは(ここはそうとう信憑性が高いのですが)上野は自分の考えを通すために「無意味にひとを傷つけて」います。だから「上野千鶴子を無意味に殴ってもかまわない」のです。カノジョ自身が無意味にひとを傷つけて構わないと考えているのですから上野千鶴子自身も「無意味にひとから傷つけられて構わない」のです。

 

それとこれは呉智英さんが昔テキストメディアで討論されていた時に今のコトバでいうと「意味がわからない」というようなことを書いていらしたのです。討論の相手が呉さんのことを「マゾコンのなんとか」とかいう個人的中傷をしていたと僕は記憶しています。呉さんは「議論の内容とマザコンのなんとかという個人的中傷とか無関係なのだけれども」と書いていらしたのです。

 

上野って(たぶんですよ)「こういう言い方をするとより深くひとを傷つけることが出来るよね」という極めて卑しい発想をもっていて議論の内容とは無関係な中傷のコトバを探すようなやつです。そういう卑しさは本当に勘弁して欲しいと僕は思います。

 

だいたいそれって「暴力行為」でしかないのですし。つまり上野は「暴力賛成」です。彼女自身が「この言い方の方がより深くひとを卑しめたり傷つけたりイヤな思いをさせたりするよね」という言葉や言い回しを探すような卑しいひとだからです。

 

「暴力」の一つのカタチは「殺人」です。つまり「上野は殺人賛成」です。あるいは暴力が極端にでる場面は「戦争」です。つまり「上野は戦争賛成」なのです。自分が暴力をふるうだけふるっておいて「戦争という暴力行為を否定する資格」なの彼女にはありませんから。

 

私も含めて上野みたいはならないようにしましょうね。

 

ただ上野の言動のワケのわからなさの原因はただ一つです。

 

うらみ」です。

 

(そこまで知りませんし興味もありませんが)「ワタシおとうさんが憎いの」という「うらみ」です。

 

「うらみ」というものはこのようにひとは「イビツ」にしてしまうのです。

 

上野にも「うらむ」だけの理由があったのでしょう。

 

でも「うらみを解けるのは本人だけ」なのです。

 

あのひともいい年でしょ。自分の中に「うらみ」があることくらいはわかっておくのが「良識」というものでしょう。

 

上野、あんたはいい年してあまりにコドモだ。

 

余計なことを書いておくてそれが「保守」だろうと「リベラル」だろうと「政治家」だろうと「マスコミ」だろうと「このひとワケわかんないよね」と思うと「このひとには(個人的な)『うらみ』があるんだ」と思った方がいいです。そういうひとにまともな反論なんか通用しません。そういうひとにとって重要なのは論理的整合であるとか「良識」などではなくただただ「うらみ」だけです。ネット民が悪いとかいうけどいくらでもそういうひとたちがいます。