世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

二重の日本 崩壊と胎動 読解ボクシング界の騒動

今テレビはボクシング界の騒動でおおわれています。ああいう話題でテレビがおおわれることにまともなひとであれば批判的になります。それは当然です。

 

ですがあの騒動から私たちが読解できるものがあるのです。

 

 

バチは当たるのか

名前は出しませんがコメンテーターの中に法的にも道義上も問題があるとしか思えない発言を繰り返している人たちがいます。そういう人たちが右だとか左だとかそういうことではないのです。ただ面白くて刺激的なことを言いたいがためにそうなっているようなのです。

 

こういうことで社会的不正に対する自分の立場が問われます。

 

社会的不正に対しては

 

1、自分で動く

2、バチが当たるのを待つ

 

という二つの選択肢があります。2のバチが当たるのを待つというのは不合理なようです。でも実は多くのひとがやっているはずです。

 

そしてボクシング界の騒動では悪いはずのことをしている人たちにはずっとバチは当たっていなかったのです。

 

バチは当たるものです。よくメディアに汚いことをしてはいるが大金を手にしている人たちが登場します。もちろん大金をもっていることはとてもうらやましいです。ですがああいうポジションには立ちたくないのが普通です(私はああいうポジションには立ちたくありません)。ああいう人たちは自分の命を削る対価として大金や権力を手にしているのです。実際そういう人たちは全員どこか疲れていてどこか苦しそうです。法的な処罰を受けるであるとか社会的に破滅するということではなく命をお金や権力に変えていることがバチが当たっているということです。

 

 

社会変革の勉強

 

ある時期以降の日本で勉強に値打ちが出ています。

 

ボクシング界の騒動に関して「対応が遅い」という発言がありました。明らかにおかしなことが行われていたのを大人たちは知っていたのだし学生諸君もかかわっていることでもあるしもっと前にどうにかすべきだったという意味です。

 

そういうことをいう人たちは世間のことを知らないのです。

 

日本中でボクシング界みたいなことはいくらでもあります。そしていくらこっちに分があるとしても普通は負けるのです。

 

こういう戦いについてはタイミングを読むことがとても重要になります。

 

タイミングを読んで数限りないネゴシエーションをすることで

 

 

しか勝ち目はないのです。

 

そういうことでいうと未見ですが映画「リンカーン」が参考になるはずです。

 

あるいはチェ・ゲバラも。

 

モーターサイクル・ダイアリーズ
「トラベリング・ウィズ・ゲバラ
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阪本順治監督オダギリジョー主演の映画もあります。

 

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グレートリセットは存在しない

 

ただグレートリセット(何もかもチャラにする、何もかもチャラになる)はそもそも存在しません。苦しい状況に陥るとグレートリセットを求めるのは人情です。

 

でもそれが革命であれ維新であれ戦争であれ大規模変革は最悪の選択肢です。当然グレートリセットではないのです。

 

日本史上でいうと日本が明治維新を経てやがてWW2大東和戦争への道へ向かったことの一つの理由が明治維新にあります。

 

明治維新では勝ち組と負け組がいます。(私は熊本のひとで熊本はどちらかというと勝ち組です。でも熊本の中の勝ち組は東京に行ったはずです。明治維新勝ち組藩で地元に残っている人たちはざっくりいうと負け組です。佐賀、山口、高知、鹿児島の明治維新勝ち組の4つの県が正直冴えないのは似たような事情があるからと思っています。似たような構造が国会議員あるようです。国会議員は子供を教育環境がいい東京で育てたがるのです。だから二世議員三世議員の多くはは東京生まれの東京育ちなのです。そして東京以外の地域のから出馬するという奇妙な状況があるのです)

 

明治に入って明治維新勝ち組が権利を握ります。そこからはじかれた人々の怨嗟とはじかれてなお優秀な人々には軍人になることでしか出世できない構造があったことが戦争への道を作ったともいえるのです。(ここは勝手に調べてくださ)だからもとをただせば明治維新の歪みがWW2への道につながっていたといえるのです。

 

私が言いたいのは「大規模変化はあまりにも傷が深くなるという意味で最悪の選択だ」ということです。

 

若い人たちが大規模変化を求めるのは当然です。でも年寄りにはそれをいさめる仕事があります。

 

今なら面白いと思うのですが毛沢東やレーニンも重要です。

 

毛沢東語録 (平凡社ライブラリー)

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国家と革命 (講談社学術文庫)

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私が言っているのは左翼革命の教材という意味ではなく社会変革の教材という意味です。

 

 

姿は似せがたく意は似せやすし

 

コラムニストの中野翠さんは編集者をされていた時期があります。ある件に対するコメントを「このひとがふさわしい」と思うひとに連絡を取って頼むと断られるのでコメントをしてもらうのが本当に大変だったと昔書かれていました。

 

ある件に対する知識があるひとにはその件のコメントがヒドク難しくなるのです。

 

するとコメントするひとは知識がないひとばかりになります。

 

結果ワイドショーはド素人の世間話になってしまうのです。

 

知識人intelligentsiaのほとんどが硬直した発想しか持てない時期があったのです。

 

このことも問題です。

 

そして発言では発言内容コンテンツよりも「言い方」「書き方」が大事です。

 

結果「言い方」「書き方」は面白いが「中身」「コンテンツ」に問題があるものがあふれています。

 

これが面白いところです。

 

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ」と本居宣長が書いているのです。

 

逆だというひともいるでしょう。

 

でもそのひとそのものは本人の意図とは無関係にカタチになるのです。それが本居宣長がいう姿です。意にはカタチがないからとりつくろえるのです。

 

テレビにはそういう特性があるはずです。「いい人」とか「イヤなヤツ」とかわかるのです。「このひとは嘘をいっている」こともわかるはずです。

 

カタチ(姿)になっているから。

 

これをわかりやすく書くと「自分は日本を愛している」といっているひとが事実日本を愛しているかどうかをそのひとの言動から読み解けます。

 

日本は恥の文化です。そのひとが恥知らずなことを日常的にしていたら(そういう姿に日常的になっていたら)そのひとは日本を愛していないひとでしかないのです。

 

そういうひとがいくら大声を出しても屁理屈をこねてもそうです。

 

もっと簡単な例です。「そのひとがハンバーガーを食べている」という「姿」は「そのひとはハンバーガーが好き」だということを伝えるのです。

 

だから(本人たちは気づいていないようですが)「ハンバーガーを食べている姿」をメィデアに散々さらして「自分は茶漬けが好きだ」といいつのっている人々がたくさんいます。それは嘘です。

 

凡庸な悪

 

NHKラジオで貧困当事者の若い女性が役所の対応がひどかったと発言していた時に同席していたひとが「役所の担当者がそんなに悪いものだとは思えない」という趣旨の発言をしていました。

 

デジタル大辞林からです。この解説は素晴らしいのです。

 

凡庸な悪(ハンナ・アーレント


第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる、という考え方

 

私もいろんな場面でおかしくなっています。私自身が「凡庸な悪」になっているのです。

 

「仕事を首になってもいい」と思ってもなお「凡庸な悪」を演じていることがあります。

 

こう書くと性差別のようですが傾向として女性の方が「凡庸な悪」に反旗をひるがえす感性があるようです。

 

即座に「それは違う」と言える瞬発力があるのです。

 

自分がそうなるからわかるのですが役所の担当者も「凡庸な悪」に侵されるとひどいことをしてしまうのです。そういう人たちは基本良い人たちです。

 

 

 

ボクシング界の騒動で悪人だと思われている人たちも当然「凡庸な悪」という意味で結構いい人たちであるはずです。

 

オルタナティブ(既存のものにとって変わるもの)

 

ディスる(悪口をいう)のは今のトレンド(傾向)から外れています。それは倫理のも代でもあります。でもそれだけではなく既存の存在とはあまり関わりを持たないで勝手にやることに意味や意義や可能性がある時代になったという理由もあるのです。

 

今の日本人がマスコミに不満があるのならオルタナティブアルタナティブを作れる可能性があるし、自民党に不満があるのならオルタナティブ自民党(昔の新自由クラブです。あの時は違っていたのですが)の可能性があるし、ボクシング界に問題があるのならオルタナティブ日本ボクシング界を作ることに可能性がある時代が今なのです。

 

今の日本そのものに深い不満があるとしても革命や維新ような選択をする必要はかならずしもなく既存のエスタブリッシュメントした日本とは無関係に新しい日本を作っていける可能性がある時代なのです。

情報革命でホワイトカラーとブルーカラーがなくなります  今の大学と高校もなくなります オルタナティブイグジスタンス(もう一つの存在)

ずっと大げさかなと思っていたのですが今(2018年)は情報革命の真っただ中です。

 

これは人類が経験する3回目の変化なのです。

 

1回目は人類が農耕を始めた時です。農耕を始めることでいわゆる古代文明が産まれています。

 

2回目は産業革命です。

 

ちょっと産業革命について考えてみましょう。産業革命によって「工場」が産まれています。その前は家内制手工業でした。

 

「工場がある」ということはそこで働くひとが必要になります。つまり「工場労働者=ブルーカラー」が必要となったのです。

 

そして産業がある段階に達すると多数の「オフィスワーカー=ホワイトカラー」が必要になります。

 

日本にはもともとたいした数の大学はありませんでした。しかし日本という国が多数の「オフィスワーカー=ホワイトカラー」をある時期に必要としたので多数の大学が産まれたのです。

 

今は人類史上3回目の変化である「情報革命」の真っ最中です。情報革命が成立するとまず「ホワイトカラー」、ついで「ブルーカラー」が必要ではなくなるのです。

 

もちろん職業は常に産まれてくるものです。たとえば私は長く精神科医の世話になっていますが彼らから私は「触ってもらったことがない」のです。

 

「ひとに物理的に触る」仕事が減ることはないでしょう。

 

そういう意味でいうと医師はそんなに必要ないのですが看護師、介護士は多数必要なのです。

 

今は情報革命の真っただ中です。ホワイトカラーとブルーカラーが必要なくなってきています。

 

私はあのひとに深く同情していますが森友事件で国会に呼び出された佐川さんは本来「ホワイトカラーの頂点にたつひと」です。

 

受験に勝ち抜いて東大法学部に入り、就職戦線でも勝ち抜いてキャリア官僚(それのキャリア官僚のトップである財務官僚)になって、そこでもまた勝ち抜いて出世したひとなのです。

 

しかし現実に佐川さんはああいうことになってしまったのです。

 

日本国民は森友事件で「良い学校に行って、良いところに勤める時代は終わった」と知るべきです。

 

と同時に「ホワイトカラー養成機関としての大学」「ブルーカラーの養成機関としての高校」の存在意義もなくなったのだとわかる必要があるのです。

 

たとえば「漢字」をある程度読めてかけるような素養は必要です。あるいはいわゆる古典をそらんじることができるような素養も必要です。

 

だけれども「今の大学」と「今の高校」はもはや必要とされなくなっています。

 

じゃあ「お前はどうすればいいと思っているんだ」とあなたは聞くと思います。

 

一見ムダのように見える「オルタナティブ(もう一つの)存在」をたくさん用意するのです。

 

以前はフリースクールといわれていた、いろんな事情で学校に行けなくなったひとがいく学校もオルタナティブスクールといわれいます。

 

スローライフ」もオルタナティブな暮らしです。

 

とにかくありとあらゆる「オルタナティブな存在」を山のように用意するのです。

 

学校に関していえば不登校に陥ったお子さんの頭の中や行動は二者択一になっているはずです。

 

1、家でだらだらする

2、死ぬほどイヤな学校に行く

 

こういう状況に対してオルタナティブイグジスタンス(もう一つの存在)を用意するのです。

 

彼らが自分で自分を責めずに済むようなオルタナティブスクールを作るのです。

 

寺子屋のような個別指導が良いでしょう。個別指導というと大変そうですが、簡単です。本人に「やる気のスイッチ」が入ってから教えることになるのですから、勝手に勉強してもらって、わからないところを質問してもらうだけでいいのですから。

 

「やる気のスイッチ」が入る前は(意外と子供はああいうものが好きなので)漢字の書き取りドリルや計算ドリルをやってもらうのです(公文式ですね)

 

これは学校なのですがオルタナティブファクトリーオルタナティブオフィスがあってもいいはずです。

 

アップルもガレージカンパニーからのスタートでした。いわばスタート時のアップルは「オルタナティブファクトリー」であり「オルタナティブオフィス」だったのです。

 

とにかくありとあらゆるオルタナティブな存在(オルタナティブイグジスタンス)を用意するのです。

 

これが日本の生きる道です。

テレビって「絵柄」を良くしたいんだろうけれども スポーツジャーナリストを起用しましょう

テレビ制作のワナとして「絵柄」をよくしたいというものがあるような気がします。

 

出演者の顔ぶれをよくしたいというワナです。

 

どこのテレビ局が始めたのか私は知りませんが、イケメン美女の元アスリートをスポーツキャスターに起用している場合があります。

 

選手として一流だったとしても、スポーツキャスターやスポーツ解説で一流かどうかは別問題です。

 

増田明美さんのマラソンの解説が私はとても好きです。増田さんは山のように小ネタを仕込んでいるのです。

 

元一流アスリートでもスポーツキャスターなりスポーツ解説をするのなら勉強が必要です。

 

そういう勉強をする余裕がないままに元一流アスリートがスポーツキャスターになってしまうと本人も困るでしょうし、見ていても情報が伝わってこないのです。

 

良いスポーツジャーナリストは日本にもそうとういます。

 

彼らは主にラジオで活躍していますが。(あるいは文章を書いています)

 

そういう人達から教えられることが私はとても多いのです。

 

でも「この番組のこのコーナーって、どういう趣旨のコーナーなんだろう」と考え込んでしまう番組コーナーもよくあります。

 

サンデーモーニングのスポーツコーナーもそうですね。別に悪意はないのですが、あのコーナーの存在意義が私にはわからないのです。

 

まだ「喝!」とかやっているのでしょうが。私はあのコーナーが嫌いな訳ではないのです。コーナーの趣旨(存在意義)がわからないのです。

 

スポーツ界の大御所が「喝!」とテレビでいうことにどんな意味があるのでしょうか。

 

私には「意味がない」としか思えないのです。(そういう理由で最近見ていませんが)

 

テレビ視聴者がああいうスポーツ界の大御所と自分を重ねて「偉いつもりになっている」のでしょうか。

 

スポーツ界の大御所と(少なくとも)私は全然違います。

 

ああいうことをテレビ番組でやる意味や価値が私にはさっぱりわからないのです。

 

テレビ視聴者ってそんなに「偉い気分」になりたいのでしょうか?

 

あなたにはそんな悪趣味はないですよね。

 

普通にスポーツジャーナリストを起用すればいいだけなのですが。

ある記者会見について 不愉快でした

レスリング界でなにか問題があったようです。その詳細を私は知りません。

 

ただあるひとの記者会見の一部をたまたまNHKのテレビニュースで観ました。

 

見ていて私はとても不愉快になりました。

 

その方に問題があるのかどうか私は知りません。

 

ただ見ていて不愉快にしかならない記者会見だったのです。

 

私は心穏やかに暮らしたいのです。

 

そういうことがあるので私はウカツにテレビを観ることができないのです。

ニュースキャスターって「まいあさラジオ」の形式で良いと思うんですよ 「教えてもらうプロ」

まいあさラジオはNHKで朝5時からやっているニュースを中心とした番組です。

 

この番組を担当しているアナウンサーがよく言うのです。(この番組はスペシャリストがよく出演するのですが)

 

「教えていただきました」と。

 

どんなひとであっても「専門分野」があります。私の専門分野は「世俗のこと」と「抽象的なこと」です。

 

そもそも「なんでも知っている必要性はない」のです。

 

だいたいグーグル先生以上にモノを知っているひとはいないはずです。

 

「ひととしても安定感」があればニュースキャスターは「教えてもらうプロ」になればいいはずです。

 

だいたい知識を見せびらかすのはみっともないことです。

 

私は若いひとから褒められたことがあります。

 

「土本さんのインプット力はスゴイですね」と。

 

私はたぶん精神的に「おとな」です。でもある種の「成熟感」もあるのかもしれません。

 

「私に見ていて欲しい」という態度を取られたことや「私に見られていること」で安心感ももったひとも複数いるのです。

 

でもインプットはします。しかも「自分のいいように変えないでインプットする」のです。

 

ある若い女性に心底腹が立ったことがあります。

 

私がその時に「成熟」といったのです。彼女はあえて「成長」と、私の言葉を訂正したのです。

 

彼女いわく「死ぬまで成長」なのだそうです。

 

ですが彼女は私の言葉を、ことさらに訂正したのです。ということは彼女には「成長の意志がない」のです。

 

成長を違うアプローチで考えると「変化」です。

 

彼女は「自分の変化を拒むひと」でした。私がある件で彼女の失敗を(二人だけの時に)指摘したことがあります。(あえて皆の前ではしなかったのです)

 

彼女は「言い訳」をして「ひとのせい」にしました。明らかに彼女のミスだったのですが。

 

そういうひとは当然「変化」も「成長」もしません。自分のつまらない見栄にしがみつういて生きていくのでしょう。

 

こういうことに年齢や性別は関係ありません。

 

私は教えてもらうことが若い頃からずっとうまかったのですが、彼女みたいなひとは「教えてもらうのがイヤ」らしいのです。

 

そうなった瞬間にそのひとの成長はとまってしまうのですが。

 

私は観ませんが討論番組がありますよね。

 

討論番組で「その考え良いですね。私は考えを変えます」というひとがいません。

 

「私」と「私の考え」は違います。

 

「自分の考えが変わらないひと」はバカです。

 

全コラムニストがコラムの出版を嫌います。理由は「考えが変わっているから」なのです。

 

今私はこういうことを書いています。でも当然「考えは変わる」のです。

 

二回目ですが「考えが変わらないひとはバカ」です。

 

「教えてもらうことがうまいひとは優秀」なのです。

もうアナウンサーは必要ないのかもしれない

日本語にはいろんな種類があります。明治に入って無理やり言文一致させたこと自体そうとう無理やりでした。

 

今日本に「アナウンサー」という仕事があるのは「言文一致」と「日本共通語」の存在ゆえです。

 

あなたは言文一致はわかるが「日本共通語ってなんだ!」と思ったのかもしれません。

 

ある時期までは日本人は違う言語を使っていたのです。その中で何を「共通語(あるいは標準語)」にするのかという問題は存在しなかったのです。

 

そもそも長く日本人は「藩」の中で一生を終えるのが普通でしたし、全国共通の「言語」は必要なかったのです。

 

東京人ならわかるはずですが「東京弁」と「標準語」とは違います。

 

「標準語は人工言語なんだ」と考えた方がいいのかもしれません。

 

知らなかったのですが「おかあさん」という日本語は明治政府が作ったのだそうです。

 

日本が明治というステージに立った時に「全国標準語」が必要となったのです。

 

同時に明治政府はある必然性に迫られました。明治の一般庶民に江戸以前の文献を読めなくしたのです。だから明治の偉い人たちは言葉を変えたのです。

 

近松源氏物語も明治の一般庶民に読んでもらってはこまる状況になったのです。

 

今の一般の日本人が読めるのは明治以降の文章です。これは明治政府の仕組んだことが原因なのです。

 

アナウンサーの話に戻りますが、「アナウンサーはかまないことが重要」です。

 

でも、あなたは「かまないで話す人たち」を日常的に接しています。

 

例えば駅員さんやバスの運転手さんです。あの人たちは独特の発音、発生、イントネーションに話します。独特です。でも、あの人たちは「かまない」のです。

 

あるいはセリがあります。市場のセリ人のことを考えてみてください。だみ声です。独特の発声、発音、イントネーションです。でもあの人たちも「かまない」のです。

 

一応「正しい日本語」という規範は必要なのかもしれません。でも今(2018年)の日本なら、そこまでその規範は強力である必要性はすでにないと私は思うのです。

 

私はいわゆるニュース番組は観ないのですが日本テレビの「ニュースゼロ」を見てキャスターの小山慶一郎さんをとても好ましく思いました。

 

抜群の安定感なのです。ただ髪型が変わっているとは思っていたのです。そうしたら彼はジャニーズ事務所のアイドルだったのです。

 

小山さんがあれだけやれるということはもはや「アナウンサー」という仕事は必要ないと私は思いました。

 

野球の中継にしてもサッカーの中継にしても、今となっては「アナウンサ-」ではなくDJが放送していいと思うのです。

 

実際サッカーやバスケットの試合の時にはDJがいて会場を盛り上げています。

 

彼らの日本語も独特です。

 

Jーwaveを代表する「話し手」はクリス・ケプラーさんです。ケプラーさんの日本語も独特です。

 

NHKのアナウンサーの日本語とは明らかに違うのです。

 

私は行ったことがありませんが、「クラブDJ」の日本語も独特です。

 

ここまでいろいろな「話す日本語」がある以上、そしてそれぞれの「話す日本語」が成立している以上、もはや「アナウンサーという仕事」は必要がなくなったと私は考えています。

 

有働由美子アナウンサーの「失恋ソング三昧」で考える 今(2018年)は過渡期です

NHK-fmでは祭日に「今日は一日○○三昧」という放送をします。昨日は有働由美子アナウンサーが出演して「今日は一日失恋ソング三昧」を放送していました。

 

私はハナレグミが出演している部分をちょっと聞いていたのですが、聞くのが恥ずかしくなって聞くのも辞めてしまいました。

 

別に有働さん批判ではないのですが「あの私が感じた恥ずかしさってなんだったんだろう」と考えていたのです。

 

答えは「生生しさ」でした。

 

私が個人的なことを話す時には「ネタ」にします。

 

あるひとが私の話を聴いて、「その話はそのままオレが他のひとに話せますね」といっていました。

 

ネタにすると、そういう「一般性」が発生します。

 

有働さんの話は「ネタ」になっていなかったのです。

 

有働さんも大変なことは当然あるのでしょう。でも有働さんの大変さは「特権的なもの」ではないのです。

 

私にだって、このブログを読んでいるあなたにだって「大変なこと」はあります。その「大変さ」は同じ意味、同じ価値をもっているのです。だから有働さんの「大変さ」は特権的ではないのです。

 

ですから有働さんがご自身の「大変さ」をラジオで話すのであれば「ネタ」にする必要があります。

 

「ネタ」にできないのであれば「放送」という公(パブリック)な場ではないところだけで話すのが筋です。

 

私はネットニュースでそういうことがあったと読んだだけですが有働さんの自宅周辺に週刊誌の記者が集まって有働さんが大変迷惑をされていたそうです。

 

もし有働さんの個人生活が特権的だからラジオで話してもいいんだとお考えなのだとすれば、有働さんはご自身がスキャンダルまみれになる覚悟が必要です。

 

記憶がちょっと不確かなのですが薬師丸ひろ子さんと小泉今日子さんと有働由美子アナウンサーの3人での鼎談をNHKが放送したいたはずです。

 

薬師丸さんも小泉さんもスキャンダルまみれになった経験があります。

 

彼女たちの私生活が「特権的」とみなされたからです。

 

私は芸能人や著名人の私生活が特権的だった時代は「もう終わった」と考えています。

 

今(2018年)は過渡期ですが、SNSでのフォロアーも多数抱えているのは必ずしも芸能人、著名人ではありません。

 

それは「誰かの私生活が特権的である時代の終わり」を意味しています。

 

記憶が不確かなのですがシャーロックホームズシリーズに、国際条約の大事な手紙の行方がわからなくなって、シャーロックホームズに仕事が依頼される事件があったと記憶しています。

 

その時代であれば「国同士の約束事」の重要度はとても高いものだったはずです。

 

(二回目ですが)今は過渡期です。

 

今(2018年)においては「国同士の約束事」の重要さと「ある零細企業の約束事の重要さ」がそこまで変わらなくなっています。

 

「意味」や「価値」の民主化、大衆化が日本では発生しているのです。

 

私はさっき「放送は公(パブリック)だ」と書きました。それは私の「感性」が古いからです。同時に有働さんのスキャンダルを追い求める記者の感性も、もはや古いのです。

 

あなたはSNSは「公(パブリック)」だと思いますか、それとも「私(プライベート)」だと思いますか?

 

どちらとも言えないはずです。

 

私はもうSNSには飽きているのでしませんがSNSは「公(パブリック)」と「私(プライベート)」の中間にあるのです。

 

そういう意味でいうと「公式ブログ」なるものの必然性と奇妙さが見えてきます。

 

「ブログ」は個人情報(プライベート)を発信する場です。それに「公式(つまりパブリック)」という名前がついているのです。

 

普通に考えるとこれは論理的に矛盾しています。

 

「公式ブログ」は「パブリック」であり同時に「プライベート」なものなのです。

 

デジタルネイティブスピカーや「Y世代」の感性がこれからの日本にとって、とても重要なのです

 

彼らの中からイノベーターが現れます。

 

現にそういう世代は大人からの評判が悪いのです(「今の若い連中はすぐ仕事を辞める」とかいう批判があります)

 

でもそれは彼らの「価値観」が既成の「価値観」と相いれないからなのです。

 

私はオジサンとして彼らの「価値観」を応援します。私の「感性」はもはや古いのです。