世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

50代のゲイがフジテレビとんねるずののホモ騒動を説明に挑む

ここを言わないととんねるずの昔のホモネタの騒動があなたにはよくわからないと思うので私が説明に挑みます。

 

ある時期の日本ではひとをバカにするときに「あのひとホモでしょ」とかある仕事を罵倒するときに「あんなのホモだ!」という言い方がありました。それを非難するつもりでこれを書いているわけではありません。

 

あるいはある時期の日本では「男が男を好きだなんて気持ち悪いよね」であるとか「ゲイだなんだって言ったってしょせん変態でしょ」とかいう「時代の気分」があったのです。これもそういう風潮を非難するために書いているわけではありません。

 

そういう「時代の気分」の中にいるゲイが「自分のことをどう感じるのか」ということを問題にしたいのです。

 

そしてそのことが今回の問題を解釈する上ではとても重要なのです。

 

結論から言います。

 

「自分は気持ち悪い」「自分は変態なんだ」「自分が男が好きだなんてダメなことなんだ」と感じていたひとが多数いたのです。

 

ゲイとはいえ男は男です。男の性愛は「衝動的」で「直線的」です。

 

昔は文通である時期以降はネットである時期以降はアプリでゲイ同士が出会うことは普通でした。

 

また「発展場」とよばれる「ゲイが性欲だけを満たす場所」もそこそこの町にはあるのです。

 

私自身普段「自分で自分がゲイであることを自分で責めていた」のです。「そういうのは気持ち悪いからダメだなんだ」であるとか「自分は気持ち悪い存在なんだ」と思って(考えて感じて)。

 

でも当時若かったですし性的にどうしても満たされたかったのです。そうなるとたまらなくなって同じゲイの男性と性欲を満たすためだけのためにあっていました。でもそういう行為をした後にはやはり自分を責めていたのです。

 

とんねるずのネタに関して「ああいう風なネタをやられてちょっとナヨっとした男の子が学校でいじめられていた」じゃないかという風な解釈が一般です。

 

論点はそこはないと私はみています。問題は「石橋さんのネタのキャラクターが気持ち悪かった」という点にあったのです。

 

そこを非難するために書いているわけでもありません。

 

石橋さん演じていたキャラクラーの気持ち悪さをみたある世代のゲイは「やっぱり自分は気持ち悪い変態なんだ」と思わざるを得なかったことが問題だったのです。

 

もともとある世代のゲイはもともと「自分で自分は気持ち悪い」と思いながら日常生活を送っていたのです。これは大前提です。

 

そういうひとが石橋さんが演じていた「気持ち悪いキャラクター」を観て「やっぱり自分はあんな風に気持ち悪いんだよね」と思わざるを得なくて「苦しかった」という問題が当時あったのです。

 

私は「文化」が「感性」まで変えるのだと思ってとても驚いていますが今の日本では「ゲイが気持ち悪い」「ゲイとかいってもあんなものはしょせん変態だ」という「感性」がとても薄れているのです。

 

あなたも「ゲイが気持ち悪い変態だ」とは「感じない」でしょう。

 

「時代の気分(文化)は感性まで変える」のです。

今(2010年代から20年代)は産業構造変換期だと押さえておきましょう

日本経済の調子が悪いとずっと言われています。私は一つの原因として「組織病」があると考えています。

 

組織は「自己防御」を図るものですし「自己増殖」するものです。私の若い頃(1980年代からバブル崩壊まで)に一番日本社会で偉そうにしていたのは大組織の構成員でした。構成員とかくと反社会的勢力の構成員のようですがそういう意味ではありません。大組織の構成員にはキャリア官僚や大企業の社員が含まれます。

 

カケイガクエンの件でよくも悪くもクローズアップされた前川さんに対して元文科省の先輩にあたる方が大竹まことのゴールデンラジオにゲスト出演されて前川さんの印象について語っていらしゃいました(その方の名前がちょっと出て来ません。ごめんなさい)。

 

その方は「前川さんは『染まらなかった』」とおっしゃっていたのです。

 

ある時に役所に行って私は違和感を覚えたのを思い出しました。その係のひとがたいていカーディガンを着ていたのです。その当時カーディガンを着るのは日本社会では一般的ではありませんでしたが役所のそこの係のひとはたいていカーディガンを着ていたのです。

 

あるひとと同じ職場で働いていて私はそのひとのことがよくわからないでいました。元証券パーソンなのですが(それもそうとう良い証券会社にいたひとです)そのひとの言動の意味が私にはわからなかったのです。

 

彼はとても簡単な仕事をしていました。小学生でも出来る仕事です。カンタンで楽な仕事を始業時間から終わりまでしてかえっていたのです。

 

彼に関して私が不思議だなと思ったのは同じ職場にいた友人が携帯音源で音楽を流していたことがあったのです。私はその方が作業能率も上がるし好ましいと考えていたのです。彼は音楽を止めたのです。別の仕事仲間が音楽をまた流し始めて彼は諦めたようなのですが。

 

彼にとって仕事というものは「ある服を着てある場所にいてイヤな思いを我慢すること」でしかなかったのではないかと後になって私は思いついて納得しました。

 

世間話というものがありますよね。

 

世間話の面白さというものはそのひとの一つの能力を表します。だけれども私は「基本聞くひと」です。私自身たいして面白い話が出来るひとでもありませんし私は「基本聞く」のです。話がおもしろければ笑いますしその話がつまらないと思うとそのひとの話が終わった後にそのひとの話の流れにそった話題をちょっとして話をまとめることもあります。

 

だいたい「話がうまくなる秘訣はひとの話を聞くこと」です。私は今でも話がたいして面白くありませんし「基本ひとの話を聞く」のです。そういうポジションがあらゆる場面で存在していますしそういうポジションには需要があるので私は別に良い人ではありませんが私の周囲には誰かいます。

 

「話をしたい」というのはほとんどのひとが持っている欲望のようで私がひとのつまらない話でも聞くので私の周囲にはたいてい誰かいるのです。

 

その話は別の機会にちゃんと書きますが。

 

その小学生でも出来る仕事をしているひとと同じ給料なのに私を含めた何人かは彼よりもはるかに大変な仕事をしていました。彼はその件に関して「申し訳ない」とか「ありがたい」とかいう気持ちはないようでした。

 

実際その職場には力仕事もあったのですが女性でも力仕事をしていたのに彼は腰が悪いとかいう理由でイスに腰かけて小学生でも出来る仕事を黙ってするだけで「自分ばかり楽をして申し訳ない」であるとか「皆さんがガンバってくれて助かる」という趣旨の発言をすることは一度もありませんでした。

 

また職場に一流大学卒の若い人が来た時に「昔はよかった」という話をしていたのを覚えています。確かにその話をする相手はその若いひとだけだったのでしょうが彼の話は周囲に聞こえていたのです。

 

そういうこともあってある女性が彼にキレました。「良い高校出て良い大学に行って良い会社にいたのかもしれないけれどもあんた全然働かないじゃない」と彼女は思ったのです。

 

私も同感だったのですがその場では彼女を上げたり下げたりして私は彼女をなだめていましたし彼に対するケアもしましたが彼からの謝罪や感謝のコトバは一言もありませんでした。

 

彼にとっての仕事場の意味はほぼ学校と同じ意味しかなかったと今振り返って私は考えています。

 

「学校の教室=仕事場」という発想しか彼にはなかったのだと今は考えているのです。

 

学校では基本黙って先生の話を聴いて休み時間にちょっと気分を入れ替えます。基本学校の授業を受けるのは苦痛です。

 

彼にとっての給料とは「自分はこれだけこらえているのだからその分お金をもらう」という発想でしかなかったと私は考えているのです。

 

「仕事=苦役」だという発想しか彼にはなかったのだと今考えているのです。

 

そのあたりは堀江貴文さんも指摘されていますが仕事を「受け身」でしていてもつまらないだけです。でも「ここをこうすると能率が上がるよね」とか「ここで仕事の流れをこうすると仕事がうまく回るよね」とかいう発想を持つと仕事は楽しくなります。

 

台湾の企業がシャープを買収しました。あの件については首切りもありましたしシャープのモト社員の方にはいうべきコトバも見つかりません。ただああいうことを日本企業の沈没を意味すると考えるのは私は違うと考えています。

 

日本と韓国と台湾の企業の違いについてある時期に(たぶん田原総一郎さんが語っていらっしゃいました)日本には大企業と中小零細企業があるが韓国には大企業しかなく台湾には中小零細企業しかないという指摘です。

 

私は1960年代産まれですが私と同世代のひとで親からこう言われていたひとはたくさんいたはずです。

 

「大きい所の入れ。小さい所に居たって損するばっかりだ」と。

 

日本経済があるフェイズに入った時に台湾より先に伸びたのは韓国でした。韓国の財閥系の企業が業績を伸ばしました。サムスンとかヒュンダイです。

 

韓国と台湾はある時期はライバルだったのですがその時期には台湾は韓国に出遅れていました。

 

しかしシャープが事実買収されたということが台湾が伸びてきていることを意味しているのでしょう。

 

(余計なことを書くと今の世界はグローバル化しているのでその企業がどこの国の企業なのかと明確にいうことはほぼ不可能な時代です。たとえば日産はフランス企業ですから。日本発の企業であるユニクロソフトバンク多国籍企業なので日本企業と呼べるのかどうかは不明確です。トランプさんはトヨタの重役にUSに工場を作るようにムチャをいっていたのですが。トヨタは日本発の企業ですがどこの国発の企業なのかということの意味が現代世界では薄れています。楽天が企業公用語を英語にしたことも楽天多国籍企業だということを意味しています)

 

シャープを台湾の企業が買収に成功したということは日本の中小零細企業が日本の大企業の買収も可能な時代に入ったことも意味しています。

 

日本の中小零細企業はシャープを買収した台湾の企業から元気と勇気をもらうのが筋です。

 

大企業はもちろん大組織です。大組織は基本うまくいかないのです。

 

日本の「会社」にたいしての言及も多かったPKドラッカーがアメリカの大企業のフィールドワークをしています。

 

ドラッカーのフィールドワークの内容は今の日本企業が多いに参考にし反省する内容が含まれています。

 

ドラッカーは大企業の大きな工場でフィールドワークをしていたのです。そして不思議に思って女性の工員に質問しているのです。「あなたは何をしているのですか」と。

 

彼女は何時間もある機械の前にぼーっとつったっていたのです。その理由がドラッカーにわからなかったので彼女にドラッカーは質問しているのです。

 

彼女の答えは「私はこの機械の修理係をまっているのです。私はこの機械が動かないと仕事ができないし修理係に着てもらうように何時間も前から何回もいっているのに機械の修理係が来ないんです」というものでした。

 

大組織に所属しているひとはおそらく身につまされてと思います。大組織にはそういう「やまい」が発生するのです。

 

日本社会の問題的の一つは「大組織病にかかっている」のだと私は考えています。

 

これはおそらく戦後の日本企業についての話なのですが企業があるステージに立つとその企業がうまくいかなくなるとずっと言われているんどえす。

 

そのステージとか「東大出が入ってくる」ようなステージです。東京大学出身者が無能であるとは到底私には思えませんがこれは長く日本社会では定説になっています。

 

長く批判を浴びているキャリア官僚の世界も「東大法学部卒」でうめつくされています。お一人お一人が有能だとしてもそういう現状ではキャリア官僚の世界はうまくゆくはずがありません。またキャリア官僚は「組織人」です。個人個人は優秀だとしても「組織人という面が肥大化すること」は止めようがありません。

 

しつこいのですが「組織は自己増殖するものですし自己防御するもの」なのです。

 

もう一つの現代日本社会の問題点は「産業構造の変革期に今ある」ということです。

 

当たり前のように「日本にはエネルギーがない」といいますがこれは正確ではありません。産業用のエネルギーとして日本には石炭があるのです。今の日本で旧石炭町はたいてい観光にシフトしていますが。

 

あるいは繊維産業が日本経済のトップランナーだった時期もあるのです。東レのような所は今は服飾以外で大きな成果を上げていますが。

 

この原稿を書いている2017年の日本は日本で石炭産業が埋没していった時期や繊維産業が埋没していった時期ととてもよく似た現状なのです。

 

代表は「白物家電」です。冷蔵庫や洗濯機のようなものが埋没していく時期なのです。

 

産業は第一次産業農林水産業)から第二次産業(生産業等)、第二次産業(生産業等)から第三次産業(サービス業等)へ以降していきます。

 

私は年なので覚えているのですが日本国内でNECのPC9801というパーソナルコンピュータが国民機になっていた時期があります。

 

この時期の日本のパーソナルコンピュータの覇権はNECが握っていました。ウィンドズOSが一般化してPC9801の天下は終わったのですが。

 

PC9801が日本のパーソナルコンピュータの世界で国民機になっていたことには明確な理由がありました。別にハードの性能が特別他のメーカーにくらべて優秀だった訳ではないのです。

 

日本語はひらがなカタカナ漢字アルファベットをつかう言語です。日本はそういう言語ですがパーソナルコンピュータは基本アルファベットを使うことが前提になっています。

 

そうすると日本の処理がうまくできるソフトがとても重要になります。

 

PC9801が日本における国民機としての一時代を作ったのはPC9801では「一太郎」というワードプロセッサーソフトが動いたからなのです。

 

PC9801が日本のパーソナルコンピュータの国民機になったのはジャストシステム一太郎が動くPCだったという理由であってハード面で他の日本企業のパーソナルコンピュータに比べて特別優秀だったからではなかったのです。

 

あの時期にもはや日本で重要な産業は「ハード」から「ソフト」へシフトしていたのです。

 

アメリカも自動車産業で持ち返すことはありませんでした。マイクロソフトやアップルの力で盛り返してきているのです。

 

そういう世界でどの程度の雇用が生まれるのかは私には謎ですが。

 

日本も当然そうです。かつての石炭産業や繊維産業が日本経済の中で埋没していったように自動車産業白物家電産業は日本経済の中で埋没していくはずです。

 

東レがそうであるように残っては行くと私は想像しています。ただ東レが繊維でつちかった技術を生かして違う分野でいま成果を上げているように白物家電メーカーも自動車産業もカタチを変えて生き残っていくはずです。

 

まとめます。現代日本社会の問題の一つは「大組織病」ですしかつて石炭産業や繊維産業が日本経済をけん引しやがて埋没していったように白物家電産業や自動車産業も日本社会をけん引する産業ではもはやない時代なのです。

 

かつべつ悲観する必要は実はないのです。

 

事実日本は中小零細企業もありますしポスト白物家電産業や自動車産業の芽もあるのですから。

 

特に歴史のある中小零細企業の場合は台湾の企業がシャープを買収したように国内外をとわず大企業を買収することが可能な時代ですしいわゆるベンチャーも失敗も多くありますが日本社会にはいくらでもあるのです。

 

「ピンチはチャンス」なのです。

 

楽天の三木谷さんは「ここしばらくはゴールドラッシュが続く」とNHKのインタビュ-でおっしゃっています。

 

今の日本経済は産みの苦しみのなかにあるのです。

 

事実多くの仕事はなくなるのでしょう。だけれども仕事は常に産まれています。

 

たとえば「お年寄りの介護」や「障碍者福祉」の仕事などつい最近までありませんでした。

 

あるいはいわゆる「学校」はもはや日本の教育の中では中心はとはいえない状況なのです。

 

フリースクールの問題点は教育内容にはありません。「お金の問題」なのです。文字通り「自由」なのはフリースクールです。でもフリースクールでどういう教育をしているのかを文科省が押さえないと補助金が出しづらいのです。文科省フリースクールの教育内を抑えて指示を出すようなことがあればそれはもはやフリースクールではありません。

 

そういう意味では今の日本の教育状況は江戸末期に似ているといえます。日本には「藩校」という学校もありましたし長く「お寺での修行が学問の中で重要」でした。あるいは「寺子屋」もあるという複数の教育の場や教育の流れがあったことが日本の明治以降の伸びと密接に結びついています。

 

価値観として一流進学校に進み財務官僚や大企業の「組織人」になるというルートも当然残るでしょう。でもそうではないルートがすでに複数(実は)今の日本にはあるのです。

 

そこで本当にがんばっている若い人が山のようにいることを見過ごしてはなりません。

 

若い友人も零細にいますが睡眠時間をけづって頑張っていますし若い女性が先日カフェで電話しているのを耳にしたのですが彼女はある業務上の失敗をして上司か先輩に「あなたの職歴でそういうミスをするということはあなたが全然伸びていないということですよね」と厳しいことを言われていますが彼女はその叱責に納得していました。彼女は「自分程度の職歴があれば自分がした業務上のミスはあってはならないことなんだ」と考えていました。

 

その二人は今の日本社会では「偉い」とか「立派だ」といわれる「価値感」の仕事はしていないのです。

 

でも事実着々とキャリアを積んでいるです。

 

私にもひとに自慢できるようなキャリアはありません。でもそういう自覚もほぼないまま(当時のルートから離れて)頑張った結果今の自分がいるのです。

 

私の若い頃にはもう佐高信さんは「社畜」といっていたのですが私は「社畜になりそこねた」のです。

 

別の言い方をすると「組織人」にならなかったのです。

 

私の若い頃には成功とはほぼ「組織人」としての成功しかありなかったのですが今の日本ではそんなことはありません。

 

日本社会は「若い時に苦労して年を取ったら楽をする社会」です。私もボチボチ楽をさせてもらいます。

安部さんの支持率はもう上がらないと私は考えています 負け組の星 安部晋三

私の仮説なのですが私は今の日本には

 

「負け組のマイノリティしかいない」

 

と考えています。

 

私のこの発想の元は安部さんの言動なのです。安部さんは日本国という大国の首相つもり日本国のトップなのです。

 

安部さんを日本国のトップなんだという前提でみると安部さんの言動を読み解けないのです。

 

でも安部さんを「負け組のマイノリティ」なのだという風に見ると安部さんの言動が納得できるのです。

 

引用元が明記できなくて申し訳ないのですが安部さんを支持していたのは二つのグループに分かれています。一方はお年寄りです。もう一方は若いひとです。

 

お年寄りが保守的なのはある種当然でしょう。問題は若い人です。これは私の勝手なプロファイルなのですが

 

「自分はダメだが日本には立派であって欲しい」と思っていると想像しているのです。

 

だとすれば彼らの「自分はダメだが」の部分を正すのがオッサンオバサンの責務です。

 

私は2017年の「学園スキャンダル」でもう安部さんの支持率が上がらないと想像しているのは特に若いひとが

 

「あれっ安部さんって負け組でもマイノリティでもないんだ」と気がついたと私が想像しているからです。

 

そして「安部さんは俺たちの仲間じゃなかったんだ」と若いひとが気がついたという理由で私は安部さんの支持率はもう上がらないと考えているのです。

精神障害者と犯罪 データで追う

以下は法務省の平成12年版犯罪白書のあらまし〈第四編〉各種犯罪と犯罪者からのコピペです。

 


(1 ) 認知件数・検挙人員
 平成11年における警察による刑法犯の認知件数は,戦後最高の290万4,051件(前年より21万3,784件増)となっている。交通関係業過(道路上の交通事故に係る業務上過失致死傷及び重過失致死傷をいう。)を除く刑法犯認知件数についても,11年は,216万5,626件(同13万2,080件増)と,戦後最高の数値を示している。
 平成11年の刑法犯認知件数を罪名別に見ると,窃盗が最も多く,次いで交通関係業過となっており,両者で全体の約90%を占めているが,この傾向は過去10年間に大きな変化はない。
 平成11年における警察による刑法犯の検挙人員は,108万107人となっており,これを罪名別に見ると,交通関係業過が最も多く,次いで窃盗となっており,両者で全体の80%以上を占めている。

(2 ) 発生率・検挙率
 平成11年における刑法犯の発生率(認知件数の人口10万人当たりの比率)は,2,292(前年より165上昇)と,戦後の最高数値を示し,交通関係業過を除く刑法犯の発生率は,昭和25年以来49年ぶりに1,700を超えて1,709(同101上昇)となっている。
 平成11年における交通関係業過を除く刑法犯の検挙率は,33.8%(前年比4.2ポイント低下)と,戦後最も低くなっている。
 検挙率を罪名別に見ると,殺人は過去10年間95%を超え,平成11年は96.4%(前年比1.3ポイント低下),強盗は8年以降低下を続けており,11年は66.4%(同9.9ポイント低下)となっている。また,窃盗は,2年以降30%台で推移していたが,11年は29.4%(同4.0ポイント低下)となっている。

(3 ) 主要刑法犯の動向
 平成11年において,凶悪犯の認知件数,検挙件数及び検挙人員は,前年と比べ,殺人については,いずれも減少したが,強盗については,いずれも増加した。
 粗暴犯では,前年と比べ,傷害,暴行,脅迫及び恐喝のいずれについても,認知件数は増加したが,検挙件数及び検挙人員は減少した。
 財産犯では,前年と比べ,窃盗については,認知件数は増加したが,検挙件数及び検挙人員は減少し,遺失物等横領については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも増加し,詐欺及び遺失物等横領を除く横領については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも減少した

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(1 ) 刑法犯検挙人員中の精神障害者

 平成11年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち,精神障害者は636人,精神障害の疑いのある者は1,361人で,両者の刑法犯検挙人員に占める比率は0.6%となっている。また,罪名別検挙人員総数中に占める比率を見ると,放火が14.4%,殺人が9.4%と,特に高くなっている。

(2 ) 心神喪失者・心神耗弱者の刑事処分
 平成7年から11年までの5年間に,検察庁で不起訴処分に付された被疑者のうち,精神障害のため,心神喪失と認められた者及び心神耗弱と認められ起訴猶予処分に付された者並びに第一審裁判所で心神喪失を理由として無罪となった者及び心神耗弱を理由として刑を減軽された者は,合計3,629人である。罪名別では,殺人(726人,総数の20.0%)が最も多く,精神障害名別では,精神分裂病(2,134人,同58.8%)が最も多くなっている。

 

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こういうデータの解析や解釈にはその解析や解釈をしたひとの「願望」や「希望」が含まれてしまう場合が多々あります。ですからこういう解析や解釈はひどく難しいのです。

 

平成26年版もあったのですがPDFファイルで使いづらいのです。

 

平成11年のデータを拾ってみましょう。

(平成11年における警察による刑法犯の認知件数は,戦後最高の290万4,051件)であることは今コピペしたのですから間違いないのでしょう。このウチ精神障害者の犯罪は(交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち,精神障害者は636人,精神障害の疑いのある者は1,361人で,両者の刑法犯検挙人員に占める比率は0.6%)です。

 

もちろん私が自分の都合のいいようにデータを使った可能性があります。

 

実際いわゆる凶悪犯罪についてはこのようになっています。

(罪名別検挙人員総数中に占める比率を見ると,放火が14.4%,殺人が9.4%)

つまり精神障害者の犯罪に占める凶悪犯罪の割合は高いのです。

 

コピペできないので平成25年のデータは書き写します。

 

全刑法犯の認知件数は191万7929件であり、精神障碍者の一般刑法犯における検挙人数は3701人です。窃盗が約4割。放火19.5%殺人15.1%です。そして一般刑法犯のうち精神障碍者等の比率は1.4%なのです。

 

私が注目したのは平成11年には精神障害者の刑法犯検挙人数に占める比率は0.6%だったのに平成25年には一般刑法犯のうち精神障碍者の比率が1.4%に増加しているのです。

 

あなたはその数字の変化をどう読み解きますか。平成11年には0.6%であったのに平成25年には1.4%になっているということをとても荒く乱暴に読み解くと一般刑法犯にしめる精神障碍者の犯罪の割合は倍以上に増加しているのです。

 

乱暴な読解を私はしたくないので無用な結論を私は出したくありません。

 

10年と少しの間に精神障碍者が多く犯罪を犯すようになったという可能性があるのでしょうか。

 

しかも荒く乱暴にこのデータを読み解くと精神障碍者の犯罪が一般刑法犯における割合は倍以上になっているのです。

 

私は結論は出しませんが10年と少しの間に一般刑法犯に占める割合は倍以上になっていることを私は奇妙だと思うという指摘にとどめておきます。

 

ただ確かに「放火」や「殺人」のような凶悪殺人が精神障碍者の犯罪の犯罪に占める割合は多いです。でも精神障碍者の犯罪犯罪の全一般刑法犯にしめる割合も指摘しておきます。

 

平成11年で0.6%。平成25年で1.4%なのです。

 

テレビ等の報道で話題になるようなありえないほど残虐な事件は平成11年における0.6%平成25年における1.4%に含まれていると考えるのが筋なのでしょう。

 

あまりの残虐さゆえに話題になっているのでしょうし。

 

しかし平成11年で精神障碍者の犯罪の犯罪に占める殺人の割合は9.4%ですし平成25年で15.1%なのです。

 

たしかに殺人事件が精神障碍者の犯罪における割合はとても高いです。

 

それはそうです。ですが平成11年のデータで全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合は0.6%でそのウチの殺人は9.4%です。ということはとても雑に考えると平成11年の全一般刑法犯に占める精神障碍者の殺人事件の割合は0.06%程度です。

 

平成25年の全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合は1.4%でそのウチの殺人が占める割合は15.1%だということは全一般刑法犯に占める精神障碍者の殺人事件の割合は1.2%程度です。

 

こういう犯罪がマスコミで話題になっているのでしょう。あまりに残虐であったりあまりに衝撃的であるからこそマスコミは話題にするのです。

 

私には結論はありません。

 

私は全刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合が少ないということを申し述べたい訳ではありません。10年ちょっとで全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪が倍以上に増えさらに殺人に関してはもっと占める割合が増えていることを私は奇妙だと感じるのです。

 

このデータを素直に読み解くと精神障碍者が10年ちょっとで残虐になったと読み解けるのですがそんなことがありうるのかと疑問に感じているのです。

 

以前からあまりに凶悪な事件の犯罪者が精神鑑定にかけられることは事件報道等で私でも知ってはいます。でもそれはずいぶん前からのことです。でもデータでは10年ちょっとで精神障碍者の犯罪の割合は倍以上になっているのです。

 

この理由が私にはわからないのです。二回目になりますが昔からあまりに残虐な事件の犯人は精神鑑定にかけられていたはずなのですが。

 

 

 

 

怒っても構いませんが 過去のとの決別

「怒るな」という趣旨に本が何冊を出ています。

 

もう、怒らない

もう、怒らない

 

 

 

 

こういう本のタイトルをみて「いろいろなことがあってもそういったことを気に留めずに過ごしなさい」という趣旨なのだと勘違いするひとがいると思います。

 

でもこういう本の趣旨はそういうことではないのです。

 

「怒るべきことを怒ることは普通のこと」ですし「ありえないほど怒ったとしてもしばらくするとさっきまでの怒りがウソのように消える」のです。

 

たとえ話をすると心は海のようなものです。海の表面にはいつも波があります。場合によっては波が高くなることもあります。

 

「高い波」が言ってみれば「激しい怒り」です。高い波があることも普通ですよね。ただ「高い波」も当然消えていくものです。それが「怒り」であっても同様です。

 

自分で信じられないくらいに腹を立ててもしばらく経つと消えていくものなのです。

 

実際私は電話口で激怒しました。ある電話応対が私には最低だと思えたからです。同じ所にまた電話をかけました。自分の「怒りをクールダウンするため」です。

 

違う女性が対応してくれたのですが彼女は同じ時間をかけて同じ結論にした達することはないと思うといったのです。

 

私は苦情を申し立てるために電話をしたのでもなければ最初の応対をしたひとを責めるために電話をしたのでもありませんでした。自分の怒りをクールダウンするために電話していたので「それで結構です」と言って自分が何故どういうポイントに腹を立てたのかを説明しはじめました。

 

二回目の電話応対の女性は私の話がわかったようで冷静に対応してくれたました。

 

私が二回目の電話の時に言った内容にある種のメディア論が含まれていました。

 

私は「同じ内容同じ結論でも構わない」と言ったのです。そして「同じ内容同じ結論であったとしても電話の対応で意味がまったく違う」といったのです。「最初に電話に出た女性とあなたの内容と結論はほぼ同じなのだけれども意味がまったく違うしそういう意味で最初に電話にでた女性は無能なのだ」という話をしました。

 

あなたがある件でひとに相談事を持ちかけたとします。これを「芝居」だと思ってください。

 

AさんとBさんは同じセリフをいいます。AさんもBさんも相談を受ける「役」です。

 

まったく同じセリフだったとしても「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」で意味はまったく違ってきます。

 

昨日私が電話をかけて激怒したのはその電話対応の内容に問題があった訳ではありません。「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」が私をバカにしている(あるいは面倒でうっとうしいヤツだ)という意味があきらかにあったからなのです。

 

実際二回目の電話対応をした女性の電話対応の内容やその結論はほぼ同じでしたが私の怒りはすぐクールダウンしたのです。

 

そこは半ば公的な機関でした。「私は民間なら彼女は首です」といったのですがそれは民間では電話の応対にとても気をくばっていてそういう訓練や場合によってはコンクールまでやっているのです。ニュースで「電話応対日本一に輝いた誰それ」という報道があるのはそのためです。

 

でも最初に電話に出た女性の対応は本当にひどいものでした。高校アルバイト以下なのです。私は「こんなレベルの受け答えしかできないくせにこのひとは給料をもらっているんだ」と思うと余計に腹が立ったのです。

 

「怒るべきことを怒る分には怒りは暴走しませんしすぐに冷めます」。

 

怒りが暴走してしまうあるいはエンドレスリピートにはいってしまうのは「怒るべきことに怒っていないから」です。

 

多くの場合は過去の出来事に(自覚はないのですが)彼や彼女は「怒っている」のです。

 

彼は彼女は「目の前にあることに対して怒っているつもり」なのですが実は「過去の出来事に腹を立てている」のです。

 

そういう意味で過去の出来事にむきあって「ちゃんと怒ってあげること」(あるいは「ちゃんと悲しんであげること」)はとても大事なのです。

 

私のそういう自己セラピーをずいぶんしました。

 

そういうセラピーを通じて「あの件は本当にはらわた煮えくり返った」とか「本当に消えたいくらいに恥ずかしかった」ということなど追体験したのです。

 

自分でそういうセラピーに取り組んだのですがそのセラピーは面倒で苦しいものでした。

 

でも成果はありました。昨日あれほどまでに怒り狂ったのにすぐに怒りが冷めたのです。

 

アンガーマネジメント、アンガーコントロールという概念があります。

 

私見ではそういう概念が一般化しているとことは過去の怒りや悲しみや恥ずかしさを抱えたままで生きているひとが多数いるということを意味しているのだということになっています。

 

昨日の怒りに関しても私は内省してみたのですが私の家族は子供の頃から私がどんなにSOSを送ってもまったく気がつかない人たちでした。

 

その件が私の中で昨日の電話応対の途中でよみがえっていたようです。

 

確かに彼女の電話応対は給料ドロボーレベルではあったのですが少年時代からの家族の私に対する無関心への怒りや悲しみが噴き出たという要素もあったようです。

 

怒っても私は構わないと思うのです。

 

ただそれをアンガーマネジメント、アンガーコントロールという風にとらえることには違和感があります。

 

「怒るべきことを怒っている時には怒りは暴走しないしすぐ冷める」のです。

 

そしてあれだけ自分が腹を立てたのには何か過去に理由があるではないかという風に考えていくと何かに突き当たるものです。

 

これはあくまでも一歩一歩やることです。

 

そして年齢を積み経験を積み自分を精神の器を大きくする必要もあります。

 

アドラーがいうように心の傷が事実あったとしてもそれは過去の話です。そのことで自分やひとを傷つける場合もあります(昨日の私のように)だとしても問題は「いま」であり「未来」です。

 

ある事実があればその事例を自分の中でフィードバックして「いま」や「みらい」に生かすのです。

 

いつまでも「過去の自分の苦しみにこだわり続けること」にどんな意味があるというのでしょうか。

 

トラウマを本人が発見することはあまりにドラマティクなのです。

 

「今までの自分の苦しみの原因はあの親の言動にあったのだ」ということがあまりに衝撃的でもあるしドラマティクなのです。

 

それゆえにそこにとどまりつづけて「あの親の言動に子供の頃に自分は苦しめられた」とずっと思うひとがいます。

 

それは事実そうなのでしょう。

 

だけれどもそこにとどまることにどれほどの意味や価値があるというのでしょうか。

 

過去の苦しみが今の自分にどうすることもできないのなら話は別です。

 

しかし過去との決別は可能なことなのです。

 

その方法はさっき書いた通りです。

 

「十分悲しんで上げる」「十分怒ってあげる」ことで済みます。過去のエピソードが苛酷な場合その時に「悲しむこと」も「怒ること」も「恥ずかしがること」もその時には不可能なことがあります。

 

ですから年齢を重ね経験を積み自分を器を大きくした後にそういうことをすることには大きな意味があるのです。

 

師匠の皆さん こんな不肖の弟子で申し訳ありません。

私は子供の頃から速読です。小学校の低学年の時に朝学校の図書室で本を借りて休み時間に読み終えて昼休み本を返しにいったのですが上級生の女の子から怒られました。

 

「あんたまだ読み終えていないでしょ。返しちゃダメでしょ」と。

 

しかし私はその時すでに読み終えていたのです。

 

最近は仕事があるので本を読んでいませんが中学時代は毎日小説を3,4冊毎日読んでいました。当然学校の図書室で借りていたのですが。

 

最近図書館で5冊くらい普通に借りていました。そしてそれを一日で読み終えていたのです。

 

そういう読み方は「乱読」であり「速読」なので本を何冊ということには意味が基本ありません。

 

逆に私は精読もします。「この本気にいったな」とか「このコラム気にいったな」と思うと普通に100回は読むのです。

 

昔昭和軽薄体という文体がはやったのですがそういう本でいまでも覚えている書き手では糸井重里さんの本を100回くらいは普通に読んでいました。

 

普通は100回も読めば飽きてしまうのですが私は速読なのです。

 

一回一回の読書では読み飛ばしてしまうのです。

 

だから「ここは読んでいなかった」という発見がありうるし私はとても長い間記憶障害に悩んでいたので読んだ内容を忘れてしまうのです。

 

だから同じ本を100回読めるのです。

 

糸井さんをはじめとして多くの方には本当に申し訳ないのですが私が精読してしまった皆さんの影響を受けているというで私は皆さんに弟子なのです。

 

正直文章の書き手としての面白味は感じないのですが渋谷陽一さんとか橋本治さんとか(前記した)糸井重里さんとか近田春夫さんとか一世代上になるのですが小林信彦さんとかそういうみなさんの不肖の弟子らしいのです。

 

実際中野翠さんがサンデー毎日に(今となっては記憶があいまいなのですが)「コント55号マルクス兄弟だと思う。これは我が師の小林信彦さんも書いてはいないだろう」と(この内容は本当に不確かですが)記述されていたのです。それを読んだ私は「それは小林さんがすでに書いているのだけれども中野さんはご存知ないのかな」と思っていたのです。すると次週のサンデー毎日で中野さんが小林さんからお便りがきてその件は書いていますという内容だったと記されていたのです。

 

そうとう昔のことではあるのですがその時にはもう私は小林信彦さんの不肖の弟子であったのでしょう。だから中野さんの知らない小林信彦さんの記述まで覚えていたとしか思えません。

 

余計な話ですが「リスペクト(敬意)」とある時期以降よく日本で言います。

 

この本はもう増刷もありませんしこの本が今更うれても私はもうからないのですが一応リンクを張っておきます。

 

世の中と私

世の中と私

 

 

文章を書く時は当然私は書き手です。だけれども自分で書いた文章だとしても校正作業をしながら呼んでいる時には読み手なのです。

 

私はこの本の校正をしながら「なんで自分はこういう本を書いたんだろう」と考えていました。出た結論は「小林信彦さんの影響だ」というものでした。

 

この本は多くの方に寄贈したのですが小林信彦さんには送りませんでした。

 

理由は「こんなものは小林さんのお目汚しだ」と思った(考えた感じた)から」です。

 

リスペクト(敬意)というものはそういうものです。

 

私が初めて橋本治さんにファンレターを出したのは橋本さんのことを知った時から30年後です。

 

私の中学時代の恩師には数十間会っていません。

 

それなりの自分になってからでないと恥ずかしくてお目にかかれないと信じているからです。

 

大学時代の恩師も同様です。

 

日本文化は「恥の文化」なので「今の自分では恥ずかしくてお目にかかれない」と思う(あるいはファンレターを書くレベルに自分は達してないと思うと恥ずかしいと思う)ので会わないしファンレターを差し上げないものです。

 

同時に「だから私はシンドかったのだ」と最近納得したのですが弟子につくということは師匠とことを目標にするという意味があるのです。

 

私程度の音楽等に対する興味や知識があれば渋谷さんの出している雑誌「ロッキンオン」からライターデビューしてもおかしくなかったのです。

 

あの方はいわば兄弟弟子(とはいえ一面識もありませんが)中森明夫さんが雑誌をだしていました。(今は不明ですが)

 

それは中森さんがある雑誌(たとえばまだあるのでしょうか漫画評論誌ぱふ)のライターになるのを潔しとしなかったからだと私はみているのです。

 

私はむやみやたらとシンドイと思っていたのは複数の師匠にそうとは知らずついてしまったからであったようです。

 

橋本治の弟子(ということは自分の目標を橋本治レベルに設定すること)だけで死ぬほど大変なのです。

 

今の日本で小説を読むということではNo.1の高橋源一郎さんでも橋本さんに会うと思うとちょっと緊張するというほどのひとなのです。

 

おまけに皆さんが多才で「マルチな才能をお持ちの」という紹介が死ぬほどイヤだったらしいのです。

 

小林さんと渋谷さんはとても若い頃に編集長を経験されています。

 

糸井さんもウェブで「ほぼ日刊イトイ新聞」をある年齢ではじめています。

 

師匠泣き言を言ってもいいでしょうか。私は(そうとは知らず皆さんの不肖の弟子になったばっかりに)相当大変だったのですよ。

 

おまけに20代前半に異常な恐怖に襲われているのです。

 

その恐怖とか「自分がなくなってしまう」という恐怖なのです。師匠たちの影響をあまりに受けたのでそういう恐怖を私は味わっていたのです。

 

自分がそういうことを仕事にすることはないのでしょうが安い通信の歌詞講座を受講していたことがあります。

 

その時に私が書いた歌詞に「微熱」という単語があったのです。私はその歌詞の添削をお願いしたのですが注として「微熱」という単語は松本隆さんの「微熱少年」からもらいましたと書き添削者から「微熱」は一般名詞なのでそういう注釈は必要ありませんと添削のコトバに添えてもらったのです。

 

小説 微熱少年 (立東舎文庫)

小説 微熱少年 (立東舎文庫)

 

 

でも私の中では明らかに「微熱」という単語は松本隆さんの影響だということがわかっていたのです。

 

ユーミンが自分の初期の仕事について「あまりに影響を受けすぎていてどこまでが自分でどこまで

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 がサガンなのか自分でよくわからない」とラジオで語っていました。

 

松任谷由実さんにも私はそうとう影響を受けているで私は「どこまでが自分でどこまでがユーミンなのかが自分でよくわからない」のです。

 

師匠の皆さん本当にこんな不肖の弟子で本当に申し訳ありません。

オヤジは政治が好きですが 情報を見切るチカラ

男がある年齢を超えると政治話が好きになります。

 

私はある世代のオヤジなので芸能人のスキャンダルには興味がありません。

 

私はテレビを観なくなったのですがそれは「この内容では勉強にならないな」と思っているからです。

 

あるいは現代日本は「情報化社会」です。

 

こういう社会では「どうやって情報をインプットするか」ということよりも「どうやって情報を遮断するか(つまり自分に入れないようにするのか)」が問題になるのです。

 

ある種「情報を見切るチカラが必要」なのです。

 

普通にテレビを一日に2,3時間みたりスマートフォンを眺めていれば相当量の情報が自分に入ってきます。

 

私にはそういう情報を洪水に耐えうる力がないですしそういう状況下である情報を自分に入れないようにする自信もないのでテレビもみないしスマートフォンも眺めないのです。

 

結構私には知識があるのですがこれは長年ある種の情報を自分にいれないようにしてきた結果なのです。

 

テレビで誰が政治や経済をかたってもいいのだと私は考えています。

 

ただそれはしょせんオヤジの政治談議にしかすぎません。

 

そこいらの街角でやっていればいいことです。

 

そういうレベルのことを一部の人たちがテレビでしています。

 

オヤジは政治が好きなのでお好きになされれば良いと思いますが。それはそういうレベルの話でしかないので私は見ません。