世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

安部さんの支持率はもう上がらないと私は考えています 負け組の星 安部晋三

私の仮説なのですが私は今の日本には

 

「負け組のマイノリティしかいない」

 

と考えています。

 

私のこの発想の元は安部さんの言動なのです。安部さんは日本国という大国の首相つもり日本国のトップなのです。

 

安部さんを日本国のトップなんだという前提でみると安部さんの言動を読み解けないのです。

 

でも安部さんを「負け組のマイノリティ」なのだという風に見ると安部さんの言動が納得できるのです。

 

引用元が明記できなくて申し訳ないのですが安部さんを支持していたのは二つのグループに分かれています。一方はお年寄りです。もう一方は若いひとです。

 

お年寄りが保守的なのはある種当然でしょう。問題は若い人です。これは私の勝手なプロファイルなのですが

 

「自分はダメだが日本には立派であって欲しい」と思っていると想像しているのです。

 

だとすれば彼らの「自分はダメだが」の部分を正すのがオッサンオバサンの責務です。

 

私は2017年の「学園スキャンダル」でもう安部さんの支持率が上がらないと想像しているのは特に若いひとが

 

「あれっ安部さんって負け組でもマイノリティでもないんだ」と気がついたと私が想像しているからです。

 

そして「安部さんは俺たちの仲間じゃなかったんだ」と若いひとが気がついたという理由で私は安部さんの支持率はもう上がらないと考えているのです。

精神障害者と犯罪 データで追う

以下は法務省の平成12年版犯罪白書のあらまし〈第四編〉各種犯罪と犯罪者からのコピペです。

 


(1 ) 認知件数・検挙人員
 平成11年における警察による刑法犯の認知件数は,戦後最高の290万4,051件(前年より21万3,784件増)となっている。交通関係業過(道路上の交通事故に係る業務上過失致死傷及び重過失致死傷をいう。)を除く刑法犯認知件数についても,11年は,216万5,626件(同13万2,080件増)と,戦後最高の数値を示している。
 平成11年の刑法犯認知件数を罪名別に見ると,窃盗が最も多く,次いで交通関係業過となっており,両者で全体の約90%を占めているが,この傾向は過去10年間に大きな変化はない。
 平成11年における警察による刑法犯の検挙人員は,108万107人となっており,これを罪名別に見ると,交通関係業過が最も多く,次いで窃盗となっており,両者で全体の80%以上を占めている。

(2 ) 発生率・検挙率
 平成11年における刑法犯の発生率(認知件数の人口10万人当たりの比率)は,2,292(前年より165上昇)と,戦後の最高数値を示し,交通関係業過を除く刑法犯の発生率は,昭和25年以来49年ぶりに1,700を超えて1,709(同101上昇)となっている。
 平成11年における交通関係業過を除く刑法犯の検挙率は,33.8%(前年比4.2ポイント低下)と,戦後最も低くなっている。
 検挙率を罪名別に見ると,殺人は過去10年間95%を超え,平成11年は96.4%(前年比1.3ポイント低下),強盗は8年以降低下を続けており,11年は66.4%(同9.9ポイント低下)となっている。また,窃盗は,2年以降30%台で推移していたが,11年は29.4%(同4.0ポイント低下)となっている。

(3 ) 主要刑法犯の動向
 平成11年において,凶悪犯の認知件数,検挙件数及び検挙人員は,前年と比べ,殺人については,いずれも減少したが,強盗については,いずれも増加した。
 粗暴犯では,前年と比べ,傷害,暴行,脅迫及び恐喝のいずれについても,認知件数は増加したが,検挙件数及び検挙人員は減少した。
 財産犯では,前年と比べ,窃盗については,認知件数は増加したが,検挙件数及び検挙人員は減少し,遺失物等横領については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも増加し,詐欺及び遺失物等横領を除く横領については,認知件数,検挙件数及び検挙人員のいずれも減少した

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(1 ) 刑法犯検挙人員中の精神障害者

 平成11年における交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち,精神障害者は636人,精神障害の疑いのある者は1,361人で,両者の刑法犯検挙人員に占める比率は0.6%となっている。また,罪名別検挙人員総数中に占める比率を見ると,放火が14.4%,殺人が9.4%と,特に高くなっている。

(2 ) 心神喪失者・心神耗弱者の刑事処分
 平成7年から11年までの5年間に,検察庁で不起訴処分に付された被疑者のうち,精神障害のため,心神喪失と認められた者及び心神耗弱と認められ起訴猶予処分に付された者並びに第一審裁判所で心神喪失を理由として無罪となった者及び心神耗弱を理由として刑を減軽された者は,合計3,629人である。罪名別では,殺人(726人,総数の20.0%)が最も多く,精神障害名別では,精神分裂病(2,134人,同58.8%)が最も多くなっている。

 

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こういうデータの解析や解釈にはその解析や解釈をしたひとの「願望」や「希望」が含まれてしまう場合が多々あります。ですからこういう解析や解釈はひどく難しいのです。

 

平成26年版もあったのですがPDFファイルで使いづらいのです。

 

平成11年のデータを拾ってみましょう。

(平成11年における警察による刑法犯の認知件数は,戦後最高の290万4,051件)であることは今コピペしたのですから間違いないのでしょう。このウチ精神障害者の犯罪は(交通関係業過を除く刑法犯検挙人員のうち,精神障害者は636人,精神障害の疑いのある者は1,361人で,両者の刑法犯検挙人員に占める比率は0.6%)です。

 

もちろん私が自分の都合のいいようにデータを使った可能性があります。

 

実際いわゆる凶悪犯罪についてはこのようになっています。

(罪名別検挙人員総数中に占める比率を見ると,放火が14.4%,殺人が9.4%)

つまり精神障害者の犯罪に占める凶悪犯罪の割合は高いのです。

 

コピペできないので平成25年のデータは書き写します。

 

全刑法犯の認知件数は191万7929件であり、精神障碍者の一般刑法犯における検挙人数は3701人です。窃盗が約4割。放火19.5%殺人15.1%です。そして一般刑法犯のうち精神障碍者等の比率は1.4%なのです。

 

私が注目したのは平成11年には精神障害者の刑法犯検挙人数に占める比率は0.6%だったのに平成25年には一般刑法犯のうち精神障碍者の比率が1.4%に増加しているのです。

 

あなたはその数字の変化をどう読み解きますか。平成11年には0.6%であったのに平成25年には1.4%になっているということをとても荒く乱暴に読み解くと一般刑法犯にしめる精神障碍者の犯罪の割合は倍以上に増加しているのです。

 

乱暴な読解を私はしたくないので無用な結論を私は出したくありません。

 

10年と少しの間に精神障碍者が多く犯罪を犯すようになったという可能性があるのでしょうか。

 

しかも荒く乱暴にこのデータを読み解くと精神障碍者の犯罪が一般刑法犯における割合は倍以上になっているのです。

 

私は結論は出しませんが10年と少しの間に一般刑法犯に占める割合は倍以上になっていることを私は奇妙だと思うという指摘にとどめておきます。

 

ただ確かに「放火」や「殺人」のような凶悪殺人が精神障碍者の犯罪の犯罪に占める割合は多いです。でも精神障碍者の犯罪犯罪の全一般刑法犯にしめる割合も指摘しておきます。

 

平成11年で0.6%。平成25年で1.4%なのです。

 

テレビ等の報道で話題になるようなありえないほど残虐な事件は平成11年における0.6%平成25年における1.4%に含まれていると考えるのが筋なのでしょう。

 

あまりの残虐さゆえに話題になっているのでしょうし。

 

しかし平成11年で精神障碍者の犯罪の犯罪に占める殺人の割合は9.4%ですし平成25年で15.1%なのです。

 

たしかに殺人事件が精神障碍者の犯罪における割合はとても高いです。

 

それはそうです。ですが平成11年のデータで全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合は0.6%でそのウチの殺人は9.4%です。ということはとても雑に考えると平成11年の全一般刑法犯に占める精神障碍者の殺人事件の割合は0.06%程度です。

 

平成25年の全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合は1.4%でそのウチの殺人が占める割合は15.1%だということは全一般刑法犯に占める精神障碍者の殺人事件の割合は1.2%程度です。

 

こういう犯罪がマスコミで話題になっているのでしょう。あまりに残虐であったりあまりに衝撃的であるからこそマスコミは話題にするのです。

 

私には結論はありません。

 

私は全刑法犯に占める精神障碍者の犯罪の割合が少ないということを申し述べたい訳ではありません。10年ちょっとで全一般刑法犯に占める精神障碍者の犯罪が倍以上に増えさらに殺人に関してはもっと占める割合が増えていることを私は奇妙だと感じるのです。

 

このデータを素直に読み解くと精神障碍者が10年ちょっとで残虐になったと読み解けるのですがそんなことがありうるのかと疑問に感じているのです。

 

以前からあまりに凶悪な事件の犯罪者が精神鑑定にかけられることは事件報道等で私でも知ってはいます。でもそれはずいぶん前からのことです。でもデータでは10年ちょっとで精神障碍者の犯罪の割合は倍以上になっているのです。

 

この理由が私にはわからないのです。二回目になりますが昔からあまりに残虐な事件の犯人は精神鑑定にかけられていたはずなのですが。

 

 

 

 

怒っても構いませんが 過去のとの決別

「怒るな」という趣旨に本が何冊を出ています。

 

もう、怒らない

もう、怒らない

 

 

 

 

こういう本のタイトルをみて「いろいろなことがあってもそういったことを気に留めずに過ごしなさい」という趣旨なのだと勘違いするひとがいると思います。

 

でもこういう本の趣旨はそういうことではないのです。

 

「怒るべきことを怒ることは普通のこと」ですし「ありえないほど怒ったとしてもしばらくするとさっきまでの怒りがウソのように消える」のです。

 

たとえ話をすると心は海のようなものです。海の表面にはいつも波があります。場合によっては波が高くなることもあります。

 

「高い波」が言ってみれば「激しい怒り」です。高い波があることも普通ですよね。ただ「高い波」も当然消えていくものです。それが「怒り」であっても同様です。

 

自分で信じられないくらいに腹を立ててもしばらく経つと消えていくものなのです。

 

実際私は電話口で激怒しました。ある電話応対が私には最低だと思えたからです。同じ所にまた電話をかけました。自分の「怒りをクールダウンするため」です。

 

違う女性が対応してくれたのですが彼女は同じ時間をかけて同じ結論にした達することはないと思うといったのです。

 

私は苦情を申し立てるために電話をしたのでもなければ最初の応対をしたひとを責めるために電話をしたのでもありませんでした。自分の怒りをクールダウンするために電話していたので「それで結構です」と言って自分が何故どういうポイントに腹を立てたのかを説明しはじめました。

 

二回目の電話応対の女性は私の話がわかったようで冷静に対応してくれたました。

 

私が二回目の電話の時に言った内容にある種のメディア論が含まれていました。

 

私は「同じ内容同じ結論でも構わない」と言ったのです。そして「同じ内容同じ結論であったとしても電話の対応で意味がまったく違う」といったのです。「最初に電話に出た女性とあなたの内容と結論はほぼ同じなのだけれども意味がまったく違うしそういう意味で最初に電話にでた女性は無能なのだ」という話をしました。

 

あなたがある件でひとに相談事を持ちかけたとします。これを「芝居」だと思ってください。

 

AさんとBさんは同じセリフをいいます。AさんもBさんも相談を受ける「役」です。

 

まったく同じセリフだったとしても「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」で意味はまったく違ってきます。

 

昨日私が電話をかけて激怒したのはその電話対応の内容に問題があった訳ではありません。「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」が私をバカにしている(あるいは面倒でうっとうしいヤツだ)という意味があきらかにあったからなのです。

 

実際二回目の電話対応をした女性の電話対応の内容やその結論はほぼ同じでしたが私の怒りはすぐクールダウンしたのです。

 

そこは半ば公的な機関でした。「私は民間なら彼女は首です」といったのですがそれは民間では電話の応対にとても気をくばっていてそういう訓練や場合によってはコンクールまでやっているのです。ニュースで「電話応対日本一に輝いた誰それ」という報道があるのはそのためです。

 

でも最初に電話に出た女性の対応は本当にひどいものでした。高校アルバイト以下なのです。私は「こんなレベルの受け答えしかできないくせにこのひとは給料をもらっているんだ」と思うと余計に腹が立ったのです。

 

「怒るべきことを怒る分には怒りは暴走しませんしすぐに冷めます」。

 

怒りが暴走してしまうあるいはエンドレスリピートにはいってしまうのは「怒るべきことに怒っていないから」です。

 

多くの場合は過去の出来事に(自覚はないのですが)彼や彼女は「怒っている」のです。

 

彼は彼女は「目の前にあることに対して怒っているつもり」なのですが実は「過去の出来事に腹を立てている」のです。

 

そういう意味で過去の出来事にむきあって「ちゃんと怒ってあげること」(あるいは「ちゃんと悲しんであげること」)はとても大事なのです。

 

私のそういう自己セラピーをずいぶんしました。

 

そういうセラピーを通じて「あの件は本当にはらわた煮えくり返った」とか「本当に消えたいくらいに恥ずかしかった」ということなど追体験したのです。

 

自分でそういうセラピーに取り組んだのですがそのセラピーは面倒で苦しいものでした。

 

でも成果はありました。昨日あれほどまでに怒り狂ったのにすぐに怒りが冷めたのです。

 

アンガーマネジメント、アンガーコントロールという概念があります。

 

私見ではそういう概念が一般化しているとことは過去の怒りや悲しみや恥ずかしさを抱えたままで生きているひとが多数いるということを意味しているのだということになっています。

 

昨日の怒りに関しても私は内省してみたのですが私の家族は子供の頃から私がどんなにSOSを送ってもまったく気がつかない人たちでした。

 

その件が私の中で昨日の電話応対の途中でよみがえっていたようです。

 

確かに彼女の電話応対は給料ドロボーレベルではあったのですが少年時代からの家族の私に対する無関心への怒りや悲しみが噴き出たという要素もあったようです。

 

怒っても私は構わないと思うのです。

 

ただそれをアンガーマネジメント、アンガーコントロールという風にとらえることには違和感があります。

 

「怒るべきことを怒っている時には怒りは暴走しないしすぐ冷める」のです。

 

そしてあれだけ自分が腹を立てたのには何か過去に理由があるではないかという風に考えていくと何かに突き当たるものです。

 

これはあくまでも一歩一歩やることです。

 

そして年齢を積み経験を積み自分を精神の器を大きくする必要もあります。

 

アドラーがいうように心の傷が事実あったとしてもそれは過去の話です。そのことで自分やひとを傷つける場合もあります(昨日の私のように)だとしても問題は「いま」であり「未来」です。

 

ある事実があればその事例を自分の中でフィードバックして「いま」や「みらい」に生かすのです。

 

いつまでも「過去の自分の苦しみにこだわり続けること」にどんな意味があるというのでしょうか。

 

トラウマを本人が発見することはあまりにドラマティクなのです。

 

「今までの自分の苦しみの原因はあの親の言動にあったのだ」ということがあまりに衝撃的でもあるしドラマティクなのです。

 

それゆえにそこにとどまりつづけて「あの親の言動に子供の頃に自分は苦しめられた」とずっと思うひとがいます。

 

それは事実そうなのでしょう。

 

だけれどもそこにとどまることにどれほどの意味や価値があるというのでしょうか。

 

過去の苦しみが今の自分にどうすることもできないのなら話は別です。

 

しかし過去との決別は可能なことなのです。

 

その方法はさっき書いた通りです。

 

「十分悲しんで上げる」「十分怒ってあげる」ことで済みます。過去のエピソードが苛酷な場合その時に「悲しむこと」も「怒ること」も「恥ずかしがること」もその時には不可能なことがあります。

 

ですから年齢を重ね経験を積み自分を器を大きくした後にそういうことをすることには大きな意味があるのです。

 

師匠の皆さん こんな不肖の弟子で申し訳ありません。

私は子供の頃から速読です。小学校の低学年の時に朝学校の図書室で本を借りて休み時間に読み終えて昼休み本を返しにいったのですが上級生の女の子から怒られました。

 

「あんたまだ読み終えていないでしょ。返しちゃダメでしょ」と。

 

しかし私はその時すでに読み終えていたのです。

 

最近は仕事があるので本を読んでいませんが中学時代は毎日小説を3,4冊毎日読んでいました。当然学校の図書室で借りていたのですが。

 

最近図書館で5冊くらい普通に借りていました。そしてそれを一日で読み終えていたのです。

 

そういう読み方は「乱読」であり「速読」なので本を何冊ということには意味が基本ありません。

 

逆に私は精読もします。「この本気にいったな」とか「このコラム気にいったな」と思うと普通に100回は読むのです。

 

昔昭和軽薄体という文体がはやったのですがそういう本でいまでも覚えている書き手では糸井重里さんの本を100回くらいは普通に読んでいました。

 

普通は100回も読めば飽きてしまうのですが私は速読なのです。

 

一回一回の読書では読み飛ばしてしまうのです。

 

だから「ここは読んでいなかった」という発見がありうるし私はとても長い間記憶障害に悩んでいたので読んだ内容を忘れてしまうのです。

 

だから同じ本を100回読めるのです。

 

糸井さんをはじめとして多くの方には本当に申し訳ないのですが私が精読してしまった皆さんの影響を受けているというで私は皆さんに弟子なのです。

 

正直文章の書き手としての面白味は感じないのですが渋谷陽一さんとか橋本治さんとか(前記した)糸井重里さんとか近田春夫さんとか一世代上になるのですが小林信彦さんとかそういうみなさんの不肖の弟子らしいのです。

 

実際中野翠さんがサンデー毎日に(今となっては記憶があいまいなのですが)「コント55号マルクス兄弟だと思う。これは我が師の小林信彦さんも書いてはいないだろう」と(この内容は本当に不確かですが)記述されていたのです。それを読んだ私は「それは小林さんがすでに書いているのだけれども中野さんはご存知ないのかな」と思っていたのです。すると次週のサンデー毎日で中野さんが小林さんからお便りがきてその件は書いていますという内容だったと記されていたのです。

 

そうとう昔のことではあるのですがその時にはもう私は小林信彦さんの不肖の弟子であったのでしょう。だから中野さんの知らない小林信彦さんの記述まで覚えていたとしか思えません。

 

余計な話ですが「リスペクト(敬意)」とある時期以降よく日本で言います。

 

この本はもう増刷もありませんしこの本が今更うれても私はもうからないのですが一応リンクを張っておきます。

 

世の中と私

世の中と私

 

 

文章を書く時は当然私は書き手です。だけれども自分で書いた文章だとしても校正作業をしながら呼んでいる時には読み手なのです。

 

私はこの本の校正をしながら「なんで自分はこういう本を書いたんだろう」と考えていました。出た結論は「小林信彦さんの影響だ」というものでした。

 

この本は多くの方に寄贈したのですが小林信彦さんには送りませんでした。

 

理由は「こんなものは小林さんのお目汚しだ」と思った(考えた感じた)から」です。

 

リスペクト(敬意)というものはそういうものです。

 

私が初めて橋本治さんにファンレターを出したのは橋本さんのことを知った時から30年後です。

 

私の中学時代の恩師には数十間会っていません。

 

それなりの自分になってからでないと恥ずかしくてお目にかかれないと信じているからです。

 

大学時代の恩師も同様です。

 

日本文化は「恥の文化」なので「今の自分では恥ずかしくてお目にかかれない」と思う(あるいはファンレターを書くレベルに自分は達してないと思うと恥ずかしいと思う)ので会わないしファンレターを差し上げないものです。

 

同時に「だから私はシンドかったのだ」と最近納得したのですが弟子につくということは師匠とことを目標にするという意味があるのです。

 

私程度の音楽等に対する興味や知識があれば渋谷さんの出している雑誌「ロッキンオン」からライターデビューしてもおかしくなかったのです。

 

あの方はいわば兄弟弟子(とはいえ一面識もありませんが)中森明夫さんが雑誌をだしていました。(今は不明ですが)

 

それは中森さんがある雑誌(たとえばまだあるのでしょうか漫画評論誌ぱふ)のライターになるのを潔しとしなかったからだと私はみているのです。

 

私はむやみやたらとシンドイと思っていたのは複数の師匠にそうとは知らずついてしまったからであったようです。

 

橋本治の弟子(ということは自分の目標を橋本治レベルに設定すること)だけで死ぬほど大変なのです。

 

今の日本で小説を読むということではNo.1の高橋源一郎さんでも橋本さんに会うと思うとちょっと緊張するというほどのひとなのです。

 

おまけに皆さんが多才で「マルチな才能をお持ちの」という紹介が死ぬほどイヤだったらしいのです。

 

小林さんと渋谷さんはとても若い頃に編集長を経験されています。

 

糸井さんもウェブで「ほぼ日刊イトイ新聞」をある年齢ではじめています。

 

師匠泣き言を言ってもいいでしょうか。私は(そうとは知らず皆さんの不肖の弟子になったばっかりに)相当大変だったのですよ。

 

おまけに20代前半に異常な恐怖に襲われているのです。

 

その恐怖とか「自分がなくなってしまう」という恐怖なのです。師匠たちの影響をあまりに受けたのでそういう恐怖を私は味わっていたのです。

 

自分がそういうことを仕事にすることはないのでしょうが安い通信の歌詞講座を受講していたことがあります。

 

その時に私が書いた歌詞に「微熱」という単語があったのです。私はその歌詞の添削をお願いしたのですが注として「微熱」という単語は松本隆さんの「微熱少年」からもらいましたと書き添削者から「微熱」は一般名詞なのでそういう注釈は必要ありませんと添削のコトバに添えてもらったのです。

 

小説 微熱少年 (立東舎文庫)

小説 微熱少年 (立東舎文庫)

 

 

でも私の中では明らかに「微熱」という単語は松本隆さんの影響だということがわかっていたのです。

 

ユーミンが自分の初期の仕事について「あまりに影響を受けすぎていてどこまでが自分でどこまで

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 がサガンなのか自分でよくわからない」とラジオで語っていました。

 

松任谷由実さんにも私はそうとう影響を受けているで私は「どこまでが自分でどこまでがユーミンなのかが自分でよくわからない」のです。

 

師匠の皆さん本当にこんな不肖の弟子で本当に申し訳ありません。

オヤジは政治が好きですが 情報を見切るチカラ

男がある年齢を超えると政治話が好きになります。

 

私はある世代のオヤジなので芸能人のスキャンダルには興味がありません。

 

私はテレビを観なくなったのですがそれは「この内容では勉強にならないな」と思っているからです。

 

あるいは現代日本は「情報化社会」です。

 

こういう社会では「どうやって情報をインプットするか」ということよりも「どうやって情報を遮断するか(つまり自分に入れないようにするのか)」が問題になるのです。

 

ある種「情報を見切るチカラが必要」なのです。

 

普通にテレビを一日に2,3時間みたりスマートフォンを眺めていれば相当量の情報が自分に入ってきます。

 

私にはそういう情報を洪水に耐えうる力がないですしそういう状況下である情報を自分に入れないようにする自信もないのでテレビもみないしスマートフォンも眺めないのです。

 

結構私には知識があるのですがこれは長年ある種の情報を自分にいれないようにしてきた結果なのです。

 

テレビで誰が政治や経済をかたってもいいのだと私は考えています。

 

ただそれはしょせんオヤジの政治談議にしかすぎません。

 

そこいらの街角でやっていればいいことです。

 

そういうレベルのことを一部の人たちがテレビでしています。

 

オヤジは政治が好きなのでお好きになされれば良いと思いますが。それはそういうレベルの話でしかないので私は見ません。

いまさらいうのも恥ずかしいのですが 時代はロングテールです

ロングテールというのは長い尻尾という意味です。

 

どのジャンルに関しても勉強した方がいいです。私はTBSラジオがポッドキャストを辞めてそうとうホッとしています。荻上チキのセッション22のポッドキャストを聞くいう義務から解放されたという気分だからです。あの番組は放送する方も長くて大変なのでしょうが聞く方も長くて大変だったのです。

 

今は「大竹まことのゴールデラジオ」とニッポン放送の「そこまで言うか!」のポッドキャストを聞いています。

 

私は朝型で夜は早ければ6時とか7時には寝てしまうし「クローズアップ現代」が終わってテレビ報道には関心がなくなっているのでもっぱらラジオなのです。

 

(余計な話ですが大新聞の一部の偏向ぶりはヒドイですよ。それは右であれ左であれ同じです)

 

今さら増刷もないのでここにリンクを張っていても私はもうからないのですが「ロングテールのニュアンス」を説明するために自書のリンクをはっておきます。

 

世の中と私

世の中と私

 

 

私はコラムニストでもあるのですが全コラムニストは自分のコラムの出版がどこかイヤなのです。

 

理由は「あの記事を書いた時とはもう考えが変わっているから」なのです。でもコラムの出版には時代の気分の記録という意味があるので「てにをは」は直しても趣旨な治さないのが筋です。

 

「時代がロングテール」だからそういう指摘が成立するのですが私が大変尊敬している先輩ブロガーのポジ熊さんのアドバイスを私は原則守っています。

 

そのアドバイスとは「腐るワードはつかわないほうがいいです」というものです。

 

これはあえて今使うのですが一頃でいえば「ベッキー」という単語(彼女には申し訳ないのですが世間で当時騒がれていたという意味で彼女の名前を出しました)あるいは今なら「松居一代」という単語(松居さんの騒動について私は知識がありませんし私は松居さんに何の悪気もありません。ただむやみやたらと世間が騒いでいるという意味で名前を出させてもらいました)は完全に「腐るワード」です。

 

時代はロングテールでないのであれば現行のテレビや週刊誌のありようは問題ありません。

 

でも時代はロングテールなのです。

 

これを週刊誌でいうと一つの記事(それは芸能人のスキャンダルであろうとも)10年20年商売する時代なのです。

 

あるいは私のようなコラムニストどうようテレビでコメントしているひとたちは苦しい目にあいます。

 

テレビはもっと簡単です。ワイドショーやニュース番組の再放送がありうるのです。

 

ある場面でのコメントはその時の時代の気分の中のコメントであって10年後20年後にはコメンテーターの考えは変わっているのです。

 

そしてテレビや週刊誌が「腐るワード」で埋め尽くされていることはテレビや週刊誌に時代が読めていないことを意味しています。

 

「時代はロングテール」と書くことが私には2017年の今はずかしくてしかないのに。

 

テレビや週刊誌が時代を読めないでどうするのですか。

「無反省で能天気な対立」 日本は戦争に負けたのです 自己セラピーの勧め

現代日本で「このひとが言っていることは重要だな」と私は考えている人たちには共通項があります。それぞれ議論の軸は違うのですが。

 

ただ全員「保守とリベラル」という軸では考えていないのです。

 

バカ男が死ぬほどいるようにバカ女も死ぬほどいます。普通の男がいっぱいいるように普通の女もいっぱいいます。そして一部立派な男と立派な女がいるのです。当然です。

 

特に保守論壇では立派な女性の活躍に私は目を奪われます。

 

この話はそういう話ではないのですが。

 

男であろうと女であろうとバカはバカです。普通は普通で立派なひとは性別を問わず立派です。当然のことです。

 

それが保守論壇であろうとも立派な人たちの議論の軸は「保守とリベラル」ではありません。

 

日本人の精神状況が違えば別なのですが日本人は精神状況がおかしいのです。

 

表面上対立している両者は実は同じ人格でありそれが分裂して対立しているように見えるだけです。

 

私が子供の頃からそれはまったく変わっていません。

 

たとえば「憲法論議」があります。故江藤淳さんは「廃憲論者」でした。江藤さんの「廃憲」というのは(これは私の想像ですが)「この議論に骨のずいまで疲れた。こんな議論なんか自分はしたくもないしかかわりたくもない。だいたい日本国憲法があるからこういう不毛でしかない議論を日本人は何十年もしているのだ」というお気持ちがあったからだと考えています。

 

私は現状の憲法がそこまで悪いものだとは考えていません。私が問題にしているのは憲法の内容contentです。

 

しかし改憲派だろうと護憲派だろうと(もちろんそうではない方もいますが)憲法の内容contentを問題にしていない場合があるとしか思えないのです。

 

これは改憲護憲を問わずです。

 

改憲論者は憲法の内容content以前に「あきらかに現行憲法を変えたがっている」としか私には思え(考えられ感じられ)ませんし護憲派憲法の内容content以前に「とにかく憲法を守りさえすればいいとしか考えていない」としか私には思えない(考えられない感じられない)のです。

 

これは内田樹さんが辺境ラジオでおっしゃっていたのですがその内容はMBSのホームページのリンクを張っておきますので聞いてみてください。

2017年7月2日分です。

MBSラジオ1179ポッドキャスト | 内田樹&名越康文の 辺境ラジオ

 

日本の近現代史を考える上での日本の一番の問題は何なのかということです。

 

もちろん日本の敗戦です。

 

昔からこういうのです。「負けるのは恥ではないが負けを認めないのは恥だ」と。

 

確かにGHQが戦略をはりめぐらしてはいます。たとえば今の日本語で「国際連合」といいますがこれはもともと「連合国」の事です。多くの方が指摘されているように「終戦記念日」は「日本敗戦の日」です。

 

そこが日本人ノメンタリティの怪奇さで(そうするべきだということではなくそういう思考の流れは普通であり野蛮でもあるということで書くのですが)

 

「オレたちアメリカに代表される連合国に負けたよね。そのウチ見ていろよ。やり返してやる」と思うことは普通であり野蛮だということです。

 

そうではあるのですが「そもそも日本人の多くは自分の国が戦争に負けた」という屈辱的な事態を認めていません。

 

本当に認めていないのです。

 

事実日本は戦争に負けたのです。

 

その事実を謙虚に認めることは現代日本人にとっても本当に必要なことであるはずだと私は信じています。

 

二回目ですが「負けることは恥ではありません。負けを認めないことが恥なのです」。

 

今(2017年)でもそうだと私は観測していますが日本人は今だに「戦争に自分の国が負けたことを認めていない」のです。

 

「トラウマは事実の否認から発生する」のです(アドラーはトラウマを認めませんがその件については稿を改めます)

 

日本人の精神の怪奇さは二度の敗戦によるものだと考えるのが筋です。

 

一度目は開国です。二度目が大東話戦争における敗戦です。

 

この二回の屈辱でしかない近現代史を日本人が認めることが2017年の今でさえ日本人に必要とされていてその屈辱を認めることが出来ないがゆえに現代日本人はトラウマを抱えて複雑怪奇な精神状態にあるのです。

 

復讐は野蛮な行為です。おすすめしません。

 

ですが「日本人にとって二度の負け」という屈辱を認めることは避けては通れない道です。

 

セラピーという言葉があります。セラピーには痛みがともないますし苦しいものです。

 

ですがセラピーの痛みを通り抜けるとその後の日常生活が楽になるのです。

 

あなたに心当たりがあるようなら「自己セラピー」をお勧めします。

 

そうとう「痛い」のですが。