このフレーズは浜田省吾さんの歌のフレーズです。
「怒りは怒りで、憎しみは憎しみで」です。
アドラーの本、今日は紹介しますね。
にも書いてあることなんですが、アドラーの考えはとても参考になるものです。
一部だけ紹介されているから「そんなことって」と思われているみたいんです。
私が「ここが一番重要だな」と思ったのは「人間関係の基礎は横だ」という記述です。
私は、関西のひとなら知っていると思うのですが一燈園みたいなことをしていたようです。
「下座の行」です。
苦しかったです。
人間関係の基本を横だととらえられるひとにとっては100%「敬意」は「敬意」を呼びます。
だけれども私は下座の行をどこかしていたから、「敬意」をはらっているんですが。
3種類の反応に分かれていました。
1.とんでもなく思いあがるひとたち(つまり私を限りなくバカにするひとたち)
2.とても深い敬意を返してくれるひとたち(結構えらい方はそうでしたね)
3.とまどうひちたち(正直いままでいろいろあったんでしょうね)
1のとんでもなく思い上がるひとたち(つまり私を限りなくバカにするひとたち)が圧倒的に多いんですよ。
つらかったなあ。
それも修行だったんでしょうけれども。
たとえば私がいい年なのに「くん付け」するとか。
そういう場合に、職場でもあったし、職場以外でもありましが、「くん」とか呼ばれる年じゃないですよっていうのが違うでしょ。
「さんづけ」してくださいとかいうのは、おかしいでしょ。
こっちは「さんづけ」です。
偉そうでうねえとは思うし、「くんづけ」っていうのはわかりやすいところです。
ひとのことを普通に限りなくバカにしますよねえと思うんだけれども、腹も立ちますが、「まあいいです」とかにしかならないんですよ。
そういうケースって。
ネット上で「サービス業根性が自分で苦しい」っていう発言をみたことがあるんですが、そのひともやっぱり「下座の行」をしてたんだろうと思います。
そもそも私が下に立つから、そういうことが起きるのですが。
その自覚もなくなっていたし。
笑うくらいに苦しかったです。
本当に「人間関係の基本は横」です。
本当にそうです。
それが人間関係の基本です。
そうしないと苦しいし。
私の場合は修行だったと思っていますし、もう終えましたが。
あいての下に、私自身が選んで立っているわけだから「私を限りなくバカにするひとたち」に囲まれて当然でしょ。
自分であえて、それを選んでいるわけですから。
もう「下座の行」は終えましたが。
でも「3.とまどうひとたち」は気になります。
何人かいました。
私が彼らの下に立ったことで、偉そうにもならず、深い敬意も返さずに戸惑うっていうのはやっぱりなにかがあるのだと思います。
「限りなく私をバカにするひとたち」に腹をたてていた時期もあったんですが、そもそも自分で選んで、自分をあいての下に置いているわけです。
それはバカにされる道を自分で選んでいるということです。
別に上に立つとかそういうつもりはないです。
人間関係の基本は横ですから。
そういうひとがコメンテーターをしている番組はみませんが、本当に「上から目線」のひとがいます。
「あなた何様ですか」と思うなあ。
とか、合理性のカケラもないことをあなたは信じていますねと思うこともあります。
私もオヤジなんで、「道理」みたいなこともいうのですが。
「人生に近道はないです」。
若い友人で若い時期を早く終えたいというひとがいますが、いろんなことがあって、年齢をかさねてゆくでしょ。
だからタイムマシーンに彼をのせて、たとえば20年後の世界に連れてゆくことは、一定の合理性がある話だと私は思います。
しかしそういうことをしても「彼自身」に変化はありません。
そうですよね。
「彼自身が変わるためには彼自身が時間を重ね、ある経験を積む必要があります」よね。
私が合理性のカケラもないことを信じていますねというひとって、
あれですよ、私は人生の近道を知っています。
そして若者にその近道を教えることができます。
結果若者は成長しますということをどう考えても信じています。
そもそも「近道」はないしょ。
そういうひとは「ある」って信じています。
だからこその「上から目線」です。
神様でもそんなことは言わないと思いますよというレベルのことを前提にしているからイヤなんですよ。
それが私がいう「合理性」にかけているということです。
ただ最近よく言うリバレッジはあります。
これはテコです。
ある時期に濃密な時間を過ごすと、多くの場合苦しくてなおかつ結果がでない時期です、いい結果が出るということです。
それはインターネットがあろうがなかろうがそうです。
そういう発想で苦しみに耐えられるということはあるはずです。
例えば受験勉強です。
普通苦しいでしょう。
でもそのあと楽しい(今はちょっと違ってきていますが)学園生活をおくることが出来ると思えばこそ、苦しみに耐えられるものですよね。
アドラーの本にも書いてあったのですが、失礼ですが、今の受験勉強のストーリーはしょせん物語です。
でも「物語が大事」なんです。
大げさいうと生死を分けるくらいに。
だから私も必死になんらかの物語を(実人生の苦しいことに関してです)当てはめていました。
私が無理やりに物語をあてはめていて、我ながら無理やりだなとはどこか思っていました。
でもあの物語に救われたような気がしているんです。
偉人伝とかありますよね。
私は偉人でもなんんでもないです。
でも偉人伝はちゃんとしたものなら100%偉人の苦しみが書いてあります。
小学生の時に、例えば「野口英世」とかの本を読まされたひとも多いと思います。
「野口英世が苦しんだ」そして「成功した」っていう「物語」です。
だけれども、そうじゃない偉人伝ってありますか。
あえて書いてない場合もありますが。
うまく行ったひとには100%そういう時期があります。
それはリバレッジでしょ。
私は違いますよ。
でも偉人伝のひとたちは100%「人生にリバレッジをかけたひとたち」です。
最近はないのかもしれませんが、スポ根ものというジャンルが国を問わずにあります。
スポーツ根性モノですが。
アメリカでも最近はないのかな。
(別に自衛隊に入ることを勧めているわけじゃないですよ。もちろん入りたいのなら入っても良いですよ)
アメリカの物語でおそろく古いパターンがあります。
士官候補生が鬼軍曹に死ぬほどしごかれる話です。
それは私の世代にとっては、あまりにありふれすぎて、古くしかうつらないんですが。
そういう時期を経て、青年が成長するという「物語」です。
しょせん「パターン」です。
それをあなたにやれということではまったくありません。
ただ「発想」として、そういう「物語」はあった方がいいという「発想」を問題にしています。
なければ自分なりにつくればいいんですよ。
漫画を参考にとか、ライトノベルを参考にとか、映画を参考にとか。
芸能人やアスリートを参考にとか。
自分なりにつくればいいんですよ。
「物語」じたいはキレイごとで良いんです。
しょせん「物語」だから。
でもその「物語」は効果があります。