世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

どうやら「プライバシー」がなくなるようです 「Y世代」

プライバシーという英語は日本でもそもまま使われています。私があえて日本語訳すると「個人的秘密」となるのですが。

 

ミステリーを中心に「プライバシー」の推移を考えてみたいと思います。

 

ミステリー(推理小説、旧名称は探偵小説)というジャンルがあります。

 

エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」(1841年)が近代ミステリーの始まりだといわれているようです。

 

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

 

 

今ポーの人生をウィキで読んだのですが壮絶です。

 

そしてアーサー・コナンドイルのシャーロックホームズで花開くのです。

 

緋色の研究 新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫)

緋色の研究 新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫)

 

 

政府の要人であるとか王室のひとならいざ知らず一般庶民に「個人的な秘密」がそもそも必要なんでしょうか。

 

そういうこと私が考えはじめたきっかけは日本のミステリーです。

 

江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」と横溝正史の「本陣殺人事件」です。

 

屋根裏の散歩者
 

 

 

屋根裏の散歩者 人間椅子 パノラマ島奇談 (江戸川乱歩集)

屋根裏の散歩者 人間椅子 パノラマ島奇談 (江戸川乱歩集)

 

 

 

本陣殺人事件 (角川文庫)

本陣殺人事件 (角川文庫)

 

 

「屋根裏の散歩者」に関してはネタバレになるのでストーリーを紹介することはできません。ただ「本陣殺人事件」の斬新さはヒントになります。

 

「本陣殺人事件」は日本家屋では「密室殺人は不可能だ」という定説を覆した作品なのです。

 

私が問題にしたいのは「密室」です。

 

排泄であるとか性的なことは人に見られたくないのが普通です。それはそうです。

 

だけれどもそれ以外のことは、そもそも隠す必要があるのでしょうか。私はないと思います。

 

ある世代の日本のビジネスマンが海外赴任すると困っていました。日本では実現不可能なくらいの良い暮らしができるのですが。

 

その暮らしというのはコックさんもいてメイドさんもいる暮らしなのです。

 

ビジネスマン本人もその家族も「家の中に他人がいるので緊張してしまう」という理由で困っていたのです。

 

アメリカでは「Y世代」という言い方があるようです。「Y世代」は日本にもいます。

 

日本でもアメリカでも「Y世代」は今の大人からは評判が悪いのです。

 

でも「Y世代」の感覚はとても現代的です。物心ついた時にはもうSNSがあった世代です。

 

彼らは自分のプライバシー(個人的な秘密)をSNS上でさらすことに抵抗がないようなのです。

 

世阿弥が「秘すれば花」といっています。ある種のことは隠したほうが魅力的です。

 

この本も面白かったのですがロバート・ハリスさんの「アウトサイダーの幸福論」です。

 

 この本の中でハリスさんが昔の日本を振り返っています(ハリスさんは横浜生まれの横浜育ちなのです)。

 

昔の日本家屋には「縁側」があって、家と外界を明確に隔ててはいませんでした。

 

私の記憶でも、私の子供の時代(私は田舎の育ちですが)そもそも玄関がないのは普通でした。縁側はマージナルっていうか「ウチ」と「ソト」の真ん中にあったのです。

 

そういうところで家(ウチ)のひとと近所(ソト)のひとが世間話をするのは普通だったのです。

 

ものすごくお金持っている家は違っていたのでしょうが、そういう家はホンノ一部だけでした。

 

「本陣殺人事件」に戻るのですが、いわゆる日本家屋は部屋と部屋をふすまや障子で隔てます。

 

ふすまや障子で隔てるということは音は筒抜けなのです。

 

簡単な話「隠すから見たくなる」のです。

 

私はあの二時間ドラマがミステリーを終わらせたと考えています。

 

市原悦子さんが主演を務めていた「家政婦は見た」です。

 

家政婦は見た! DVD-BOX1

家政婦は見た! DVD-BOX1

 

 

私のこのシリーズを一作だけ見ました。最初「当然殺人事件かなにか起きるのだろう」と考えていたのです。その謎解きをいっかいの家政婦である市原悦子さんが解く話なんだろうと思い込んでいたのです。

 

でも私が見た作品では何も起きなかったのです。ただセレブリティといわれている人たちがいかに醜悪かを家政婦さんがさんざん見て、あまりの醜悪さにたえられなくなって、その家を去って行くだけの物語だったのです。

 

ミステリーというものは「殺人事件がおきるものだ」という私の考えは誤りだったのです。

 

他者の「個人的秘密(つまりプライバシー)を見る」ことのミステリーの本義があったのです。

 

そして「Y世代」には「個人的秘密(つまりプライバシー)」を隠すという感性がないらしいのです。

 

「個人的秘密(つまりプライバシー)」がないのなら、それを見る必要もありません。

 

「隠す」から見たくなるのです。

 

もう一作品紹介しておきます。これは映画です。

 

午後の遺言状 [DVD]

午後の遺言状 [DVD]

 

 あまりに(当時の)超大御所俳優がぞろぞろ出演しているので、当時もはや名優だった津川雅彦さんが小僧に見えるほどの豪華絢爛なキャスティングです。

 

この映画には若い二人の初夜の描写があります。舞台は田舎の村です。若い二人が結婚した日の夜に二人はある小屋で過ごすのですが、村人たちが一晩中そのまわりで歌い踊るのです。

 

子孫繫栄を願ってそういうことをするのですが。

 

こういう状況で、私が思う(考える感じる)エロティシズムは発生しない気がします。

 

小屋では明らかに性的な営みがなされているのですが。

 

ついでに書くと「草食系男子」の名付け親はコラムニストの深澤真紀さんです。

 

深澤さんは「褒め言葉」としてガツガツしていない若い男性を指して「草食系男子」といっていたのです。でも「今の若いやつ等はガツガツしてなくてダメだ」というニュアンスにいつの間にか変わってしまいました。

 

ただ深澤さんは女性なので、そこの考察ができなかったと思うのです。若い男性は性欲が異常なほどあるのです。

 

何故彼らは性に対して「草食系」でいられるのでしょうか。答えはエロ動画が山のようにあるからです。

 

これは人類始まって初の現象だと私は観ています。

 

このことが「良い」とか「悪い」とかいう気は私にはありません。

 

ただ、現代日本は「ありえないほどの性情報に接することができる社会」なのです。

 

具体的には書きませんが、若い男性は性情報にいくらでも(といっていいでしょう)接することができるので「草食系」でいられるのです。

 

現代日本人が普通だと信じているエロティシズムも変化するはずです。

 

しつこいのですが、だけれども「秘すれば花」でもあります。

 

「Y世代」がプライバシー(個人的秘密)を終わらせます。

「雑」のゆくえ ネットリテラシー

私が「ゆくえ」などという曖昧が言葉を使っているのは、私にわからないからなのです。

 

ずいぶん前ですがホットドッグプレスの編集長をやっていたひとが「雑誌っていろんなものを寄せ集め(つまり雑)だからダメなのかもしれない」といっていました。

 

その発言は他界した作家の平井和正とのものの中です。

 

当時平井和正は「個人雑誌」を出していたのです。全編「平井和正」の「雑誌」です。

 

インテリ業界の悪口はおそろしく子供っぽいものです。全員インテリ(つまり知識人)なので悪口はワンワードになります。

 

「バカ」です。

 

私が知っている範囲で一番「バカ」といわれていたインテリは筑紫哲也さんです。

 

事実バカだったのかどうか私は知りませんが、筑紫哲也さんはアッチコッチで本当に「バカ」と言われていました。

 

吉本隆明さんが筑紫哲也編集長時代の「朝日ジャーナル」を罵倒していました。

 

「あんな同人誌」と。

 

朝日新聞のカネとヒトがあれば、あんな同人誌じゃなくて、まともな雑誌が作れるはずなのに」なのです。

 

でも筑紫哲也編集長時代の「朝日ジャーナル」の成功って「同人誌」にしたことによるのかもしれません。

 

私が愛する「sight」という雑誌は不定期刊になったのですが(この雑誌は私の師匠の一人、渋谷陽一さんが編集していたはずです)、「sight」は反安部なのです。

 

「正論」や「WILL」は一応保守の雑誌で今も出版されています。「正論」や「WILL」は雑じゃないのでしょう。

 

「正論」や「WILL」があるのだから「sight」だってあってよかったはずなのですが。

 

余計な話ですが私はもう新聞を取ることはないと思います。私はまだ怒りっぽいので新聞を読むと腹が立つ気がするのです。

 

テレビも偏向しています。でもテレビはチャンネルを変えればいいのです。でも新聞は朝日毎日(リベラル)のどちらかと読売サンケイ(保守)のどちらかと、私は地方在住なので地方紙と、あの新聞が本当に経済のプロによって書かれているかどうかは疑わしいのですが日経新聞を取る必要がある可能性があります。

 

それだけの新聞を読んでいると「1、時間がかかる、2、腹が立つ」のです。

 

それって有意義なのでしょうか。

 

2017年の年末のNHKラジオをらじるらじるで聞いたのですが、ジャーナリストの池上彰さんがネットに関して疑問を呈していました。

 

「ネットだと自分の好きなネタしか観ないことになる」というのです。

 

逆にテレビ報道の可能性として

 

「興味がないことでも報道に接することになる」という可能性があるとも指摘されていました。

 

ただ当時は相撲界の暴行問題が問題になっていた時期で

 

「あればっかりやっているのは事実ですね」ともいっていたのです。

 

自分の興味がないことや接すると不愉快になるネタってノイズです。

 

私はSNSには完璧に飽きています。

 

その友人のことは好きなのですがSNS上での縁を切りました。彼のアップ数が多かったからなのです。「そこまであなたの話は聴きたくないから」という理由でSNS上の縁を切ったのです。

 

もうSNSで知り合うべきひととは知り合ったとも思っていますし、フェイスブックにしてもツイッターにしても「疲れる」のです。

 

一回ある英語がわからなくて、カナダ人の知人に聞いてもまだわからなくて、アメリカ在住の映画評論家・町山智浩さんにツイッターで質問したことがあります。

 

町山さんは私の質問に答えてくれました。

 

でもそれは私は町山智浩さんに質問する前にいろいろ調べてみてわからかったという「経緯」が町山さんに見えたからだと思うのです。

 

私はリアルで同世代とは基本つきあいません。彼らは私と似たようなものなので勉強にならないのです。

 

でも年長者や若いひとの観点は新鮮です。

 

「そんなものの見方があるんだ」と思えます。

 

私の場合はネットリアルを問わず「周囲3mくらいのひととだけ付き合う」ことにします。

 

ムダに疲れるのも、ムダに怒るのもイヤなのです。

 

しかも疲れや怒りの原因がノイズだったら、それはノイズをいれた私が悪いのです。

 

「ネットの周囲3mの基準は」という、あなたの声が聞こえてきますが、それは直観です。

 

その直観のことをネットリテラシーと呼ぶのでしょう。

 

私は50代のオヤジですが、ネットリテラシーを低いとはいえ身につけたようです。

「時代は新古今」 本歌取りの時代 男らしさは"too much"

(ほんとにどうでも良い話でスイマセン)

 

今「逃げ恥」を見入るんですが「引用」がモノスゴク多いのです。

 

映画「私をスキーに連れってて」とかNHKの選挙の時の放送とかエヴァンゲリオンとか(もちろんそういうものを知らないでも楽しめますが)。

 

これは明らかに「本歌取り」です。

 

パロディではないはずです。

 

これはウィキからのコピペですが新古今和歌集の特徴は「唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的」なのだといわれています。

 

だから新古今は評価というより「好き嫌いがわかれる」のです。

 

正岡子規は評価しなかったというより「嫌い」だったのだとしか思えません。もちろん正岡子規は「写生」を重視していたから相いれないものがあったのでしょうが。

 

逆に北原白秋は評価しています。

 

新古今にはある種の「退廃」があるのです。デカダンスというか。

 

嫌いなひとは当然嫌いなはずです。

 

(立派なブログが多いのに本当にすいません)

 

この発言のもとは大貫妙子さんなのすが「文化は腐ったもののなかから出てくるもの」なのです。

 

「腐ること」と「発酵すること」は同じ化学変化です。

 

ある種の豊かさや時間がないと「腐ること」も「発酵すること」もありません。

 

一方では「素朴であること」であることの「美」もあります。

 

たとえば丸太の木をノコギリで切ったようなアートもあります。そういう素朴で雄大な美もあるので。

 

でも一方には凝りまくった技巧を凝らしたガラス細工のような

 

「素朴さ」が好きなひともいるでしょう。

 

「素朴さ」や「純朴さ」と「文化的洗練」は相容れないものです。

 

今の日本は「文化的洗練」の時代なのでしょう。

 

今の日本で「分かりやすい男らしさ」はパロディとしてしか存在しえないはずです。

 

だから普通に筋トレできるのです。

 

「男らしさ」は今の日本ではそれだけで"too much"(やりすぎ)です。「男」であることで十分なのです。

 

80年代にはもはや「それまでの物語」が通用しなくなっています。それはアメリカでも同様です。

 

差別の問題があって私たちは観ることができないのですが西部劇の男性像が大きく揺らいでいたのです。

 

あるいは「父親像」も大きくゆらいでいます。

 

DVだけがこれだけ問題になるのも女性側の問題というより「男なるもの」の揺らぎが原因なのです。

 

失礼なのですが「逃げ恥」で「星野源なんかがなんでガッキーの相手役なの」と怒っていたのですが星野源さん演じる男性も他の男性像も「ただの男」で全然「男らしくないところが一番の魅力」なのです。

 

「逃げ恥」は原作も脚本も女性です。

 

ある時期は女性の男に対する要求は無茶だ(なんでもかんでもハラスメントですか)とかとも思っていたのですが、やっとニュートラルな状況に立ち至りつつあるようです。

「逃げ恥」はそうとうリアルです 「石田ゆり子さんが設定上一人でしょう」

私は最初からではないですが「仕事ができるオジサン」なのです。

 

「仕事ができるひとたちはあれもこれも押し付けらるので忙しくなる」のです。

 

そういう人たちも知っているのですが「雇ったものの全然できなくてでも首にするのも違うのでそのまま働いているひとをいる」のです。

 

性別を問わず彼らはヒマです。彼らには「仕事を任せられない」のです。

 

だから彼らはヒマです。

 

実際そういう人たちがいるのですが「別にコッチも首にしてほしい」訳ではないし「いてもらってかまわない」のですが「邪魔はしないでいてくれたらいい」とは思ってるのです。

 

釣りバカ日誌」の映画を一本だけ見たのですが、あの映画のハマちゃんのようでいてくれたらそれでいいのです。

 

ホントに思っていますよ。「居てくれて全然構わないから邪魔しないで」と。

 

そういう人たちが何かしてくれるのです。その処理が超メンドクサイのです。

 

こっちは割りきってやっていますが。

 

そこで結果仕事がコッチは膨大に増えるのです。

 

若いひとならともかく良い年したオッサンオバサンの面倒を観るのはホントに疲れるのです。

 

映画「釣りバカ日誌」では谷啓さんが胃薬を飲んでいましたがハマちは業務上の邪魔はしないでくれるのでいいじゃないかと私は思いましたよ。

 

ああいう人たちは趣味とかに生きて欲しいのですよ。いいんですよ。邪魔さえしてくれれば良いんですよ。その処理を密かにコッチがしているのですよ。

 

あれがホントに疲れるのです。

年末に「逃げ恥」の再放送の冒頭を観て オジサンオバサンたちもイヤなんですよ

私も年なので「上司」とか「クライアント」の立場で観ています。

 

星野源新垣結衣さんへのビジネスライクな指示や石田百合子さんの部下への指示の描写を観て「そうだよね」と思いました。

 

星野源さんの冷静で冷たい指示や石田百合子さんの的確な指示を観て私は正直ウンザリしたのです。

 

「これはしてください」「これはしないでください」

 

「こういうミスをしましたよね。それに対する対応は前にも教えましたよね」

 

若い人ならそういう風に言われることがイヤなのでしょうがオジサンオバサンはそういうことをいうのがイヤなのです。

 

私もある職場で「メモ取ってください」といったことがあります。

 

今の私にとってはメモを取るのは仕事上の基本にしかすぎないのですが彼にはそういう習慣がなかったのです。

 

しかも同じことを何回もいう必要があったりします。

 

「言われる方も言われたくない」と思うのですが「言う方も言いたくない」のです。

 

そういうことをいうと嫌われるのです。

 

でも業務上の指示とか指示を出す必要がありますし、ミスがあったらそのミスを繰り返し欲しくないので「こういう対応をしてください」といわざるを得ないのでオジサンオバサンたちはいっています。

 

こっちだってそういうことは言いたくないのです。

 

「逃げ恥」の冒頭の星野源さんのように「氷の人間」になることができれば楽なんですが。

 

オジサンオバサンたちもアレはイヤなんですよ。ホントにああいうことは「言いたくない」のです。

 

 

テレビが伝える「情報」について考える

 

テレビが不振です。これは大きな流れのようなもので誰かの力ではどうにもならないことなのかもしれません。

 

私は現状のテレビのあり方は変わると考えています。今の日本では「100万」というのが一つの単位です。

 

「100人動員(たとえば映画)」「100万部突破(本などで)」「100万ダウンロード突破(シングル曲なので)」。

 

これから私がやるうような数字の扱い方は問題外です。数字はもっと丁寧に扱うものですから。でもここでは仮に今(2017年)の日本の人口が1億人でその1億人がそれぞれにテレビをもっていてそれなりの気持ちで番組を観ているとします。

 

そういう仮定で考えるとテレビで100万人というのは「視聴率1%」です。

 

同じ仮定で考えると視聴率10%なら1千万人のひとが観ていることになります。視聴率20%なら2千万人のひとが観ていることになるのです。

 

そんな巨大メディア(文字通りマスメディア)はテレビ以外には存在しません。

 

私はもっと多チャンネル化も進むのだろうしいわゆるキー曲が(私は地方在住なのでテレビ東京のネット局はないのですが)NHKの地上波が2局、民間地上波が4局と状況です。

 

インターネットもありますしチャンネル数は100どころか1000あっても良いと考えています。

 

テレビもやはり「100万人」というのが一つの単位(もっとも日本は人口減少中なのでずっと100万人が一つの基準であり続けるのかどうかは不明ですが)に落ち着くはずです。

 

そしてそういう状況であればテレビにかかわる人々ももっと踏み込んだ番組が作れるはずです。それはテレビ番組のスタッフにも出演者にも視聴者にも好ましい状況であるはずです。

 

養老孟司さんはNHKのニュースが好きではないそうです。NHKのニュースは「かたよりがない」という前提で作られているからです。

 

「何らかの「偏り(かたより)バイアス」がない報道などそもそも存在しない」と養老先生は考えているからNHKのニュースが好きではないらしいのです。

 

いわゆるマスメディアの重要性は「キーステーションがある」ところにあります。インターネットの重要性は「キーステーションがない」ところにあります。

 

この二つの存在は相互に補いあう存在なのです。

 

たとえば以前に辛坊治郎さんがテレビ番組で発言されていたのですが「自殺報道は基本握っているんです」と。

 

日本での少年犯罪も凶悪犯罪も事実減っています。そういう犯罪が多かったのは日本が戦争のボロ負けした直後の時期です。

 

マスメディアが少年犯罪や凶悪犯罪を取り上げないのもちょっとおかしいのです。そして自殺報道もしないのもある種の見識です。

 

そしてそれはある種の責任者が「これはヤル」「これはヤラナイ」と決められるからです。

 

インターネットはキーステーションががないという特性があるのでそれができないのです。

 

2、テレビの情報と本の情報

 

ある種の事件に関して私はジャーナリストの本を待っています。たとえば女子中学生を本当に誘拐して監禁したヤツがいました。最近では自殺志望者を殺した(のであろう)やつがいました。

 

私の中で触れたくないという気持ちがずっとあったので読んでいなかったのです「オウム真理教」の地下鉄サリン事件にかかわっているひとに村上春樹さんがインタビューした「アンダーグラウンド」とその続編を最近読みました。

 

またあの件も触れたくなかったのですが「酒鬼薔薇聖斗」と件を高山文彦さんを書いた「地獄の季節」を手にいれました。

 

両方アマゾンのリンクを張っておきます。

 

 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 
約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

 

 

地獄の季節―「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所 (新潮文庫)

地獄の季節―「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

女子中学生の犯人をテレビで私は見たのですが「結構イケメンなのになんで?」と思ったのを覚えています。

 

自殺志望者を殺した(のであろう)ヤツのことはテレビで観ていないのですが。

 

テレビって「この人好きだな」とか「コイツは嫌いだ」とか「このひとは平静をよそおっているけど怒っている」とか「このひとは嘘をいっている」というようなことが分かるメディアです。

 

だから「良いひと」なら特別な何かなくてもコンスタントに出演されています。

 

その時に私は病院で昼間検診を受けていて病院の待合室で「ミヤネ屋」を観ていたのです。その時に正直私は唖然としたのです。

 

その時に「番組で伝えている情報がゼロだ。この番組は情報番組なのに情報ゼロだ。でも番組として成立している」と思って唖然としたのです。

 

事実「ネタ元」みたいなものがなかったのです。でも情報番組「ミヤネ屋」は普通に成立していたのです。

 

でも私がその時に「考えていた情報」なるものはある事件に関する犯人像であるとかその社会的背景を指示していました。

 

テレビが伝える「情報」は「そのひとのひととなり」であるとか「感情」なのです。

 

その時は私が考えていた「情報」とミヤネ屋が伝えてた「情報」にずれがあったので「この番組は情報ゼロだ」と私は勘違いしてしまったのです。

 

そして2017年におきた自殺志望者を殺した殺したやつとその事件を背景を知るのには本がとても効果的でそういう本は事件からずいぶん経ってから出版されます。

 

その事件をそれなりに調査しようと思うと普通に4,5年かかるからですし。そのくらいの時間が経過してからその事件について勉強したほうが私やあなたも冷静に読めますから。

 

3、テレビ出演者の言動は日常生活の参考にならない

 

私は正直軽蔑していたのですがある種の人気テレビコメンターターや番組出演者は「無意味にとても感情的」です。

 

違うタイプの人たちもいます。自分のコメントを数秒でまとめて「オレやるでしょう」みたいな顔をしている人たちです。

 

昔「朝まで生テレビ」に関して録画しておいて早送りして「あっ大島渚が切れた」というあたりから見るといっていましt。

 

今(2017年)にはコメントを数秒でまとめて「オレやるでしょう」という顔をしているひとよりは「無意味にとても感情的なひとの方が好ましく感じます。

 

テレビ視聴者は『自分の発言を数秒でまとめて「オレやるでしょう」という顔をしているひと』に飽きています。

 

テレビは「テレビ出演者が無意味にとても感情的であること」がとても重要なのです。そしてあなたもそうでしょう。「それはとても冷めてみる」メディアなのです。

 

事実あなたもしているでしょう。テレビを観ながら番組や番組出演者に「バカじゃないの」とツッコンデいること。

 

テレビって「ツッコミながら見るもの」なのです。

 

ということは『テレビ以外の場所でテレビ的な言動を取るとあなたは「あのひとバカじゃない」と内心ツッコまれている」と考えた方がいいです。

 

テレビ番組の中での言動は日常生活の参考になりません。

 

4、テレビの国会中継はやめて私たちは新聞やウェブメディアで読んだ方が良いです

 

衆議院トップページ

参議院

 

国会は「ショー」ではないのです。ですがテレビが入った国会は「ショー」になっています。あんな風になるくらいならテレビの国会中継は辞めた方がいいです。

 

理由は簡単です。「国会は会議であってショーではないから」です。

 

そして文字起こししたものを読むのです。新聞は本会議と重要な委員会については文字起こしして解説をつけるのが筋でしょう。

 

これには別の理由もあります。「読むと時間が取られない」のです。

 

あなたがジャーナリストであれば話は違います。私はジャーナリストではないので国会中継は基本見ません。

 

日本は議会制民主主義を取っています。これは「私たちの代理人に基本政治を任せている状況」です。

 

政治家を代議士と呼ぶのは彼らが私たちの代理人だからです。

 

だからあなたは基本政治家に政治をまかせておいて良いのです。私も含めてみんな自分の仕事で忙しいのです。

 

ただ「罵詈雑言をいう」のではなくて「チェックは必要」です。

 

テレビで国会中継をするとテレビの情報特性上「無意味に感情的になった政治家のショー」にしかならないのです。

 

新聞は本会議と主要な委員会の議事録を国会開催中は文字で載せるべきです。そしてその解説と自社としてはこう思うという考えも載せるのです。

 

衆議院参議院にも議事録があってそれをあなたは読むことができるはずです。

 

国会のインターネット中継を見るのも良いでしょう。でもそれは「この政治家の人柄はどうだろう」ということを知るために観るのです。

 

そういうことでわかるのは政治家の人柄です。それも重要です。

 

でも審議内容は文字で読んだ方が効果的です。

 

5、テレビはなくならないがカタチが変わる

 

まとめでもないのですが一言書いて終えます。

 

「テレビはなくならないがカタチが変わる」

「知らないわからない存在への恐怖」と「立ち居振る舞いがわからない存在への戸惑い」 啓蒙運動

 

EテレのハートネットTVで「マイノリティと笑い」(ここは曖昧なのですが)という番組を放送していたのを私は見ていました。

 

いつものアナウンサーの方はちょっと引いて千原ジュニアさんが司会をされていたのですが、その時に同性カップルには部屋を貸さない大家さんがいるという話題が出ていたのです。

 

その件について私はしくこく考えていたのですが『「知らなない」ということと「どう扱えばいいのかわからない」というが原因だ』と考えるようにました。

 

知らない、わからない存在への恐怖

 

いま(2017年)でいうと北朝鮮です。普通の日本人は北朝鮮が怖いはずです。

 

この「恐怖の理由」があなたにはわかりますか?

 

「知らないから」「わからないから」です。

 

北朝鮮に関するニュース映像で日本で手に入るのはあの国のほぼトップの動画とあの国の怖い女性アナウンサーの動画だけのはずです。

 

結果普通の日本人は北朝鮮について「知らない」し「わからない」のです。

 

あなたの日常生活の中でも一番怖いのは暴力団関係者ではなく「どこがこのひとの地雷なのかがわからないひと」であるはずです。

 

いまの日本人にとっての北朝鮮はそういう存在です。

 

昔オウムの連中のことで日本中が大騒ぎになったことがあります。あの頃に「オウムの信者が警察官の方にも自衛官の方にもいるらしい」と知って私はとても怖いと感じました。

 

でも私はその件に関して何を恐れていたのでしょうか。

 

もう当時オウムは社会問題になっていました。だから警察や自衛隊のオウムの信者がいてそういう人たちが周囲の警察官の方や自衛官の方に布教したとしてもそこまでの広がりがなかったはずです。

 

でも当時の私がオウムに自衛隊や警察が支配されるのではないかと、どうやら思って(考えて感じて)いたようなのです。

 

そんなことはあり得ないのに。

 

あるいは警察官や自衛官の方々はいつもではないのでしょうが拳銃をもっています。当時の私はオウムの信者が唐突に同僚や上司を射殺するのではないかとも思って(考えて感じて)いたようなのです。

 

そんなことはあり得ないのに。

 

いま私が挙げた二つの例で私の発想は飛躍しています。

 

同性カップルの入居を断る大家さんもやっぱり発想が飛躍しているという想像を私はしているのです。

 

たとえば「そういう連中って覚せい剤をやってるんじゃないのかな」という風にです。

 

事実覚せい剤をやっている同性カップルもいるのでしょう。でも同性カップル覚せい剤の間にはほぼ相関関係がないのです。

 

こういうことが私がいう「発想の飛躍」です。

 

接し方、扱い方、立ち居振る舞いがわからないという問題

 

もう一つは「立ち居振る舞いがわからない」という問題です。

 

それがだけが原因ではないのでしょうが日本は国土面積中に森がしめる割合がとても広い国です。

 

それは宗教の一面なのです。

 

たとえば山に登る道に鳥居があったりします。あるいは樹齢数百年の樹にはしめ縄がまいてあります。

 

鳥居があれば「頭を下げようかな」とかしめ縄があれば「柏手を打とうかな」と言う風に立ち居振る舞いが「出てくる」のです。

 

ある車いすに乗っている男性がある言葉をかけられて答え方がわからないといっていました。彼がいっていたのは「大丈夫ですか」と言われて答えがわからないから困るということなのです。

 

彼がいっていたのは「そもそも大丈夫だから街にいるのだし大丈夫じゃなかったらそもそもここにはいない」と思うから答えに困るということです。

 

その番組の司会は千原ジュニアさんでした。ジュニアさんはテレビに出ている有名人です。

 

ジュニアさんと私が世間話をする機会があったら私は「固まる」と思うのです。

 

「このひとはテレビでよく見ているひとだよね。どういう風に接すると良いんだろう」と思って(考えて感じて)「固まる」と思うのです。

 

結論は「普通に接すれば良いだけ」なのですが。

 

ある種のマイノリティと接する時に「このひとにどう接したらいいのだろう」という疑問を持つのは当然です。

 

「接し方がわからなくなる」のです。「立ち居振る舞いがわからない」ともいえます。

 

啓蒙運動の意味

 

こういう問題を私はスッテプバイステップ(一歩ずつ)解決していくのが適切だと考えています。

 

たとえばLGBTの友達や親戚が一人いればそれは「知っている」ということになります。

 

私はそういうことはしたことがないのですが目が不自由な方が人ごみの中にいたとしたらたとえば私はそのひとと左側にたって「私はあなたの左側にいます。もしよかったら私の肩か腕を触ってくれませんか」といいます。

 

男子中学生高校生が遊びで突然友達の背中がパンと叩いたりします。叩かれた方はビックリします。

 

目が見えようと見えまいといきなり自分の体を誰かが触ったら驚くのです。

 

そういう「扱い」であるとか「立ち居振る舞いの方法」がわかるの楽なのです。

 

そういうことを伝えることを「啓蒙運動」と呼ぶのかもしれません。