思想的課題としてのLGBT そしてオウム真理教を考える 「純粋認識批判」
90年代からある種の人たちはLGBTに注目しています。このことには明解な原因があるのです。脳学者が人気なのも同じ理由によるものです。
私もあなたも「アナログ」な存在です。世間や宇宙も「アナログ」な存在です。
ですが私たちの認知認識は「デジタル」なのです。
LGBTはもちろん一面人権問題です。
ですが思想上の問題としてとらえそれをあなたが実践する方法は以下のようなものです。
「あのひとってよくわからないよね。そういえばゲイだったりもするらしいし。でも考えてみればオレだって世間だってよくわからない訳だし」
と思う(考える感じる)のです。
そういうことに意味がないとはいいませんがそういう認知認識をしてしまうとLGBTの思想的課題という意味が薄れてしまいます。
そういう認知認識というのは「世の中には男と女とLGBTがいる」という認知認識です。
この文章を読んでいるあなたは異性愛者である可能性が高いのですが異性愛者の男性の場合にあなたが好きなAV女優は他のひととは違うことが多いはずですしあなたが好むAVの種類もひととは違うことが多いはずです。
あまり話は広げませんが障害に関して重要概念が登場しています。それは「スペクトラム」という概念です。
スペクトラムというのは日光をプリズムを通すと何種類もの色に分かれるようなことをいいます。
実際「赤」と「青」とは違います。
ですがたとえば「黄色」と「オレンジ色」の間に明解な線引きをすることはそもそも不可能なのです。
世の中は「アナログ」だというのはたとえばこういうことです。
ですが私たちの認知認識上「これは黄色だ」「これはオレンジ色だ」としか認知認識できないのです。
事実あなたがある色を見た時に「これはなんだかわからない色だ」という認知認識はしないで「これは(たとえば)黄色だ」という認知認識をしています。
私たちがそういう認知認識をするということは私たちの認知認識は「デジタルだ」ということです。
でも今あげたスペクトラムという概念を使って考えてみればわかるのですがあなたが「これは黄色だ」と認識した色を違う色と比較して見た場合に「これってオレンジがかっているな」とも認知認識する場合があるはずです。
LGBTに関して「世の中には男と女とLGBTがいる」ととらえてしまうことは「デジタル」にとらえることになるので思想的課題としてもLGBTを考える上ではそういう認知認識のありかたには問題があるのです。
そしてオウム真理教の事件を私は考えるのですがオウムに関して私は勉強不足です。
ただ統一教会の(昔ですから)VTRを観たことがあります。そのVTRの内容はとても分かりやすかった(という意味で認知認識しやすかった)のです。
統一教会は霊感商法をやっています。そしてオウムの連中がしでかしたことに関する被害者の方々にもその周囲の方々にも申し上げるコトバを私はもっていませんが。
私は話を広げたくはないのですがPKドラッカーはやはら冴えています。あなたも名前は知っているはずです。大哲学者のイマヌエル・カントが昔「純粋理性批判」という仕事をしています。
カントの時代は「理性を批判すること」が重要でした。
カントの予見は不幸にも的中したからです。「共産主義」「全体主義」「ナチズム」と「理性の暴走」として捉えることが可能だからです。
そしてPKドラッカーは『もし今の時代にカントが生きていたとしたら「純粋理性批判」ではなく「純粋認識批判」を書いていたはずだ」と書いているのです。
すでにオウムの連中はとんでもないことをしでかしているのです。
私は彼らに同情するつもりはまったくありませんが彼らは彼らの「認識」を疑う力が欠如していたと私は考えています。
そして私たちがみずからの「認識」を疑うことがどうしても現代を生きるものとして必要なのです。
私たちの一人一人がみずからの「認識」を疑い批判するという行為をなさなければかつて「理性」が暴走して「共産主義」「全体主義」「ナチズム」がしでかしたレベル以上の惨事をごくごく普通の人間がしでかす可能性があるからです。
私はそんな面倒くさいことはしませんが本当に「純粋認識批判」が必要な時代なのです。