世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

メリルストリープのトランプさん批判について ジャーナリトちゃんとしましょう

ユーチューブのURLを張っておきます。

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メリルストリープさんがトランプさんを批判したという「だけ」の報道がなされました。それ「だけ」の報道です。本当にそれ「だけ」でした。私はうんざりしました。それ「だけ」しか報道されなかったからです。映画評論家の町山智弘さんがこういう内容が一部を紹介されていたので私は全文の日本語訳をみました。

 

彼女はスピーチの末尾にこう言っています。

 

「心が砕けることがあったのならそれが芸術につくりるのです」。

 

私もある種のクリエーターです。私がモノをつくのは彼女が言うように「心が砕けること」があったからなのです。本来私はモノを作ったり、表現をするような面倒で仕方ないようなことはしたくありません。ただある種のひとは苦しみや悲しみをどうしようもなくてモノをつくることでどうにかしようと試みるものです。それは心理学の用語で「昇華」と呼ばれる行為です。

 

あるいは考えることにおいてもそうです。私は別に好きで考えるのではありません。他界された哲学者の池田晶子さんはヘーゲルが好きだったので生前「私は朝から晩までヘーゲルのいう絶対無について考えている」と書かれていました。彼女には(ここには書きませんが)ありませんがある「必然性」があったのです。

 

私も思えば朝から晩まで考えています。場合によっては夜寝ている時に夢の中でさえ考えています。私にも「必然性」があるのでしょう。

 

姜先生は「悩む力」という本を書きました。私は20代に自分で自分を説得していました。当時理由は不明ですが「悩みたかった」のです。私には「悩むことなど無駄だとしか思えない」のです。ですが「悩みたかった」のです。当時私はスーパーで働いていました。スーパーで働きながら「もっと違うことをした方が良いのに、仕事に精を出すとか勉強するとか友達と遊ぶとか飲みに行くとか女の子と遊ぶとか色々あるのに、そんな悩むとか無意味なことを辞めた方が良いのに」と自分で自分を説得するのですが、どうしても「悩みたかった」のです。

 

結果そこそこのオジサンにはなったのでしょう。

 

「因果」という言葉があります。これが釈迦が発見した法則です。今では普通のことです。「原因があって結果がある」ということを因果を言います。

 

私は今の私には結構満足しています。でもそれは堀江貴文さんの著作のサブタイトルの通りのことを長年繰り返した結果です。

 

堀江貴文さんの著作のタイトルは「ゼロ」です。サブタイトルは「何にもない自分に小さなイチを足してゆく」です。

 

私には何もありませんでした。だから何十年も「小さなイチを足し続けてきた」のです。その結果自分で結構納得出来る自分になったのです。「結果」そうなっただけです。

 

あなたもそうなのかもしれません。あなたにも何もないもかもしれません。でも何十年も「小さなイチを足し」つづけていけばそれなりのひとになることができます。

 

トランプさんにもそんなには共感していません。ただ報道はどうしても「要約」をして伝えます。それは当然なのかもしれません。ただせっかくのネット環境です。トランプさんの発言の全文を日本語の翻訳つきで聞いてみることをお勧めします。ユーチューブのリンクを張っておきます。

 

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私はそれほぼトランプさんにもこの演説の全約をしたひとにも共感していません。ただ「自分と考えが違うひと」の発言に耳を傾けることはとても重要です。その事は場合によっては「苦痛」です。だとしてもその試みを放棄すべきではないのです。

 

私は障害を持っていますが、「障害者なんか死ね!」みたいな発言も聴きますし読みます。「この人は嫌い」とか「この人とは考えが違う」と考えられるのであれば考えられるほど聴くべきですし読むべきです。

 

似たような考えや感覚のひとといた方が楽です。特に男性にはそういう傾向があるようです。でもそのような振る舞いを私は軽蔑します。自分とは違う考えや発想には自分にとってヒントになることが多数含まれているからです。

 

それは多くの場合不愉快です。しかしその不愉快さに耐えてみることがあなたにはプラスです。

 

そういう「グループ」にいる方が楽です。だけれどもその「楽さ」に甘んじているひとを私は軽蔑します。

 

そういう場面があっても構いません。でもそういう場面だらけのひとがいくらでもいます。自由になさっていればよいと私は思います。ただ軽蔑はさせてもらいます。