政治家の方にも時代を感じる能力、つまり「時代感覚」はとても重要です。
安部さんがこの言葉を使うときには「100%時代感覚」を外しています。
「オールジャパンで」という安部さんがおっしゃるときです。
長く日本は開発独裁でやって来ました。
この時期のマスコミの常套句に「政官財の癒着は悪い」というものがありました。
これは当然で、事実「政官財一体となって日本国を盛り上げいた」わけですし、そこにマスコミが入るとほとんど全体主義国家になってしまうので、マスコミとしては執拗に「政官財の癒着は悪い」という必要があったのですから。
ただ開発独裁はもう終わりました。
私の感覚ではバブル崩壊後に終わりました。
バブル崩壊後に、やっと日本はいわゆる先進国なみの豊かさを獲得したからです。
そこまで豊かになった日本にはもう開発独裁は必要ないのは当然のことです。
「イヤ、オレは貧乏だから」という若い方も多数存在すると思います。
事実貧国問題は今の日本が抱え込んでいる、そして抱え込むのが当然の問題だからです。
これは別の機会に書きます。
ただある時に捕まったわけではないですよ。
警察署に行ったのです。
警察官の方が数本の「缶コーヒー」自動販売機で買い同僚のかたに渡していました。
そして、それを受け取ったかたが「こんなことをされては困ります」とおっしゃっていたんです。
「あいかわらずお前の話の意味がわからない」ということでしかないとは思います。
「江戸っ子は宵越しの金は持たねえ」とか「初ガツオは借金してでも食うものだ」という話はもう今の若い方はご存じないかもしれません。
これは確か杉浦日名子さんが書いていたことなのですが、それは江戸庶民の話です。
江戸のお金持ちは「銭は貯めるもの」であるとか「江戸は火事が多いからいざとなった全部捨てて逃げるが、大福帳(顧客名簿)は井戸に放り込んで逃げる」であるとか「サバはおいしいからカツオとかそういうものはいらない」くらいの感覚だったのです。
この感覚が両方私にはわかるのです。
「貧乏をしているときは日常生活が我慢だらけ」です。
あれも我慢して、これも我慢してと切り詰めて生活している状態が「貧乏」です。
あるいはそういう精神状態が。
ですから、それは「お祭り」であったり、「初ガツオ」であったりという特殊な時にパーッとお金を使うようなことが必要なのです。
お金もちたちは普段から「豊か」ですから、日常生活での我慢が必要ありません。
だから「お祭り」や「初ガツオ」が精神的に必要なかったのです。
余計なことを書くと、「ハレ」(非日常)と「ケ」(日常)を反転された「お祭り」が現代日本には必要だと私は考えています。
具体的にいうと「計画停電」です。
季節が良い時ですから、春と秋の年に二回でしょう。
夜の6時から朝の6時まで「計画停電」を行うのです。
警察署であるとか、消防署は動いていてもらう必要がありますし、病院等の施設のも電力が必要なので、そこは別に考えるのです。
「日本中真っ暗」にするのです。
これが私のいうお祭りです。
「暗闇祭り」ですね。
私の考えに同意してくださる方は多数いると思います。
簡単な話、日本人の精神衛生上とても意味があります。
「暗闇祭り」を年に二回やると日本人は「健康」になります。
そういうときに犯罪が起きるのではないかと心配されるかたもいると思うのですが、日本中真っ暗なので犯罪どころではないのです。
まあ男女のある種のできごとも当然あるのでしょうが。
それは「祭り」であれば当然のことです。
「暗闇祭り」に関して右とか左とかはまったく関係ありませんし、この「感覚」は多くのひとに伝わるはずです。
「暗闇祭り」いいでしょ。
やりたいんですが、私は。
やっと話が戻ってきたのですが、100円ちょっとの缶コーヒーを渡す「感覚」はお金持ちの「感覚」なんです。
ある企業家のかたの発言を聞いて、「そうだろうな」と思ったことがあります。
「自分は我慢が大嫌い」という発言なのです。
お金に関してはシンプルに考えると「入り銭」と「出銭」のバランスなんです。
その方が「自分は我慢が大嫌い」とおっしゃるのは辛抱しないという意味でありません。
私は「出銭」を減らすことを考える習慣がありません。私が考えるのは「入り銭」をどうやって増やすかなのです。
ということです。
ここまで豊かになった日本にはもはや開発独裁は必要ないのです。
「新幹線」や「原発」のことそのものを私は問題にしてはいません。
問題はこの発想は「オールジャパンで」という発想にしか基づいていないというところにあります。
開発独裁はもう終わりました。
もう「オールジャパンで」という時代は終わったのです。
だから私は安部さんの人格なり思想性を問題にはしていません。
「時代感覚」がずれているのです。
安部首相のお立場であれば「オールジャパンで」と言いたくなるのはよくわかります。
ただ、そういう時代(開発独裁の時代)は終わったのです。
それが私がいう安部さんは「時代感覚」を外しているということです。