世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

師匠は持った方がいいですよ。

ぼちぼちそういう風に名乗っていいのかなと思うのですが、私のコラムの師匠はどうも小林信彦さんらしいのです。

 

小林信彦さんの本をはっておきます。

 

 

日本の喜劇人 (新潮文庫)

日本の喜劇人 (新潮文庫)

 

 

 

 

小林信彦さんに関しては、ずっと前にいわば私の兄弟弟子の中野翠さんの記述がおかしいなと思ったことがあります。

 

ちょっと内容は忘れたのですが、コント55号だった気もするのですが、あれはマルクス兄弟(これもあいまいです)をやっているのではないかとか記述のあとに、

 

中野翠さんが書いていたことが「おかしい」と思っていました。

 

そういうことが「おかしい」と思うようでは小林信彦さんにはご迷惑なのですが私は不肖の弟子なのでしょう。

 

中野翠さんは「これは私の師匠の小林信彦さんも書いていないだろう」ということを書いていたのです。

 

私が当時何歳だったのかはわすれましたが、私は「イヤ、小林信彦さんはそれを書いています」と思っていたのです。

 

サンデー毎日の連載なのですが、「おかしいな」と思っていたら、次の週の中野翠さんの連載で「小林信彦さんからお便りが届き、それは書いています」という内容だったといういうのです。

 

中野さんが気づいていないのに、なぜ私はすぐ「小林さんが書いている」とわかるんだろうと思って当時不思議でした。

 

文筆業界は怖くて、勝手に師弟関係が成立するものです。

 

前に残念ながらという前振りで渋谷陽一さんの名前を出したのも、正直私は渋谷陽一の弟子でありたくないのですよ。

 

別に偉そうにしたいということではまったくないです。

 

渋谷さんには申し訳ないのですが、内心ですよ。

 

渋谷陽一があまりに商売が下手なのが迷惑だ」と思ったことが二回あるからです。

 

今もカタチを変えて続いているようですが、「ロッキンオンジャパン」という雑誌が「パチパチ」という雑誌に負けたことがありました。

 

両紙ともに日本(広い意味でいう)ロックミュージシャンにスポットを当てた雑誌なのですが、ミュージシャンの扱いがまったく違っていました。

 

ロッキンオンジャパンは「モノづくりをするひととか表現をするひと」という扱いです。

 

パチパチは「ワーワーキャーキャーいう対象」という扱いです。

 

そんな本を熟読していたわけだし、それは渋谷さんの弟子なのかもしれませんが、「ロックは語れない」という渋谷さんと日本とトップミュージシャンの皆さんの連続対談で、

 

ロックは語れない (新潮文庫)

ロックは語れない (新潮文庫)

 

 

この本は「ビートルズ浜田省吾さんと語る」、「ストーンズは仲井戸麗一さんと語る」、「ビーチボーイズ山下達郎さんと語る」、「パンクは遠藤ミチロウさんと語る」、「私特別にいれこんだミュージシャンはいないんですという大貫妙子さんと語る」というビートニクス以降で重要な海外のロック・ミュージシャンとそのミュージシャンに影響を受けながら日本でのロック・、ミュージックの第一人者であるようなみなさんとの豪華な対談集です。

 

大変なので、ユーチューブははりませんが。

 

遠藤ミチロウさんとの対談のなかで渋谷さんが「パンクに反応していたのって日本の中のロックエリートでしょ」みたいなことをいっていました。

 

遠藤ミチロウさんは「そのロックエリートとかいっても世間からみればダメなヤツでしょ」みたいに返していました。

 

よかったら読んでみてください。ひとの本なんで知りませんが。

 

僕が問題にしたいのはロックエリートという考え方です。(正確な引用ではありません)

 

その前だったと思うのですが、今どうしているか知りませんが、ハウンドドッグのヴォーカルの大友康平さんが若き日にある雑誌のインタビューにがっかりしていたという話をしているのを私が読んでいるのです。

 

大友さんは「頼むからもっと音楽のこを聞いてくれ。どんな食べ物が好きとか、そんなことはどうでもいいから」とある海外のミュージシャンやロックを扱う雑誌にイライラしていたというのです。

 

この場合でいえば大友さんはロックエリートなんです。

 

大友さんはおっしゃっていることはもっともなんです。

 

でもそれは大友さんは、結果ミュージシャンになっていまうほどのロックエリートだったから、そう思うのであって、大多数のファンは「ワーワーキャーキャー」いう対象とてロックミュージシャンを観ているから、その雑誌のインタビューに多くのファンはうとりしていたんです。

 

ロックエリートは本当に少ししないいないので、(この理屈っぽさが渋谷陽一なのです。イヤでしょ。こういう理屈っぽさ)「ワーワーキャーキャーいう対象としてロックミュージシャンを観ているひとのほうが圧倒的に多い」のです。

 

ロッキンジャパンは今でも出ているようですが、「商売の間口が狭い」んです。

 

売れればいいとか、そうは思いませんが、「パチパチ」は「商売の間口が広い」でしょ。

 

どっちが売れますか。

 

パチパチです。

 

渋谷さんが自分でロックエリートとか言っておいて、そのロックエリートだけを選んだ商売をして、パチパチなんかみたなことを、シーナ&ロッケツの鮎川誠さんにいうから、当時イラっと来ていました。

 

渋谷さんはハッキリはいわなかったのですが、パチパチは、あんな無内容な雑誌扱いです。

 

マジメな話です。

 

「ワーワーキャーキャーいわれる対象であることを拒絶すること」がミュージシャンにとって良いことだとは私は当時から思っていなかったのです。

 

あるいは、コレクターズの加藤ひさしさんがAKB48の「恋するフォーチュン・クッキー」をロック・バンドを集めて踊ったというスピリッツにロックがあると私は思うのです。

 

(この無意味な理屈っぽさが渋谷陽一さんに似たと思うと、渋谷陽一さんの弟子はイヤなわけです)

 

あれ時アレ以外の選択肢は渋谷さんにはなかったのでしょうが、私が好きで、普段そんなことはしないのに買いそびれるのがイヤで定期購読していた「サイト-Sight」が売れなくて不定期刊になって、私はとても残念だったし、

 

「ポリシーや考え方も大事ですが、売れなければ、いくら良い内容の雑誌だとしても存在意義が薄くなりますし、総合誌が非常に厳しい状況で「サイト‐Sight」以外の総合誌がほとんど「文芸春秋」しかない状況を弱小出版社社長としていかがお考えですか」と

 

(渋谷さんにそっくりな理屈っぽさで)突っ込んでいたんです。

 

「社長はツライよ、とか渋谷さんは書いていますし、それは一定程度わかるつもりですが、読者をどうお考えになっているのですか」とか。自分で書いていて、もともと私はこういうひとじゃなかった気もしますし。

 

師匠に似るんですよ。

 

またマジメな話なんですが、いままでだってマジメな話ですよ。

 

私と似た恐怖感を持った経験がある方が実は結構いるのではないかと思うのですが、20代だったと思うのですが、「自分が消えてなくなってしまうような恐怖」に私は襲われています。

 

師匠につくと、そういう恐怖に襲われるほどに似るんです。

 

私は厳しい体育会とは縁がなかったので、他人事だと思っていたのですが、上下が厳しい世界で厳しい先輩についた同級生がなんか変わるって話があるでしょ。

 

一緒です。

 

「あれコイツこんなヤツだったっけ」って思うくらいに変わるっていう話があるでしょ。

 

あれです。

 

もちろん別人格ですし、私はしょせん私でしかありえないのです。

 

そうなんです。

 

だけれども、「他人」を自分の中に入れるというか、そういう経験をすると「自分が変質する」というか、しませんよ、しないんだけれども、そんな気が、少なくとも私はして怖かったのを覚えています。

 

小林信彦さんとも渋谷陽一さんとも一面識もありません。

 

ほかにも師匠が実は私にはいるんですよ、わけがわからいオヤジになるわけだ。

 

不肖の弟子ということで勘弁してください。

 

師匠も読者も。