世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

僕のガマンも限界です。

このたとえ話は仏教経典のものです。

しかも好きなたとえ話です。

目の前にとても熱い鉄の棒があります。

あなたはそれを握ります。

これは確定です。

ただ違いがあるという話です。

それはその鉄の棒が熱いということを

「知っているのか」

「知らないのか」

という違いです。

やることはいっしょです。

あなたはその熱い鉄の棒を握るのです。

もし「知っていれば」どうしても手加減しますよね。

でも「知らなければ」力いっぱい握るでしょ。

 

これって悪いっていういい方は違うのかもしれませんが、

ひとを傷つけるようなことをするときにとても大事な違いだと僕は考えるのです。

 

そして「知らず」に「力いっぱい握る」ひとたちが山のようにいたということでもあります。

 

やっと本題です。

僕の友人にウツのひとがいます。

彼がとてもうれしそうに

「看護師さんからウツは治るっていわれた」

と言っていました。

 

僕は「よかったですね」とふつうに言っていました。

そういうことにはもう子供のころから慣れてもいましたし。

 

僕は今でいう統合失調症です。

でも当時の病名は「精神分裂病」なのです。

 

精神分裂病統合失調症に名前が変わったのは、精神分裂病という病名があまいに差別的だという意味だけではありません。

 

医学界の基本認識が変わったのです。

精神分裂病は不治の病であり、精神分裂病じたいで死亡することはないが、やがて精神が荒廃し廃人にいたる。いたらなくとも治ることはありえない」

という認識が精神分裂病に対する基本認識でした。

 

僕の友人で精神分裂病の告知を受けたひとが二人います。

二人ともにその告知を受けて泣いたと聞いています。

 

彼が「ウツは治る」と嬉しそうに言っていた時期は統合失調症精神分裂病でした。

 

つまり彼は

「オレの病気は治るんだけれども、お前の病気は死ぬまで治らないんだよ!」

と言っていたということです。

 

異常なまでに残酷なことを彼は本当に楽しげに無邪気に言っていたのです。

 

そういうことに慣れきっていた自分も怖いですが、その友人の無邪気さはそれ以上に怖いです。

 

彼にはもちろんなんの悪意もありません。

 

しかし恐ろしく残酷です。

 

彼はとてもいいひとです。

 

でも悪魔以上に残酷です。

 

彼はほかにもそういう悪魔以上に残酷なことを僕にしています。

ほかにもそういうひとたちは山のようにいました。

僕はただニコニコしていましたが、腹のなかはとうぜん違っていました。

 

当然でしょ。

 

彼や彼のようなひとを憎むとか恨むとかいうつもりはありません。

おそらくゆるしてもいます。

 

ただ彼や彼のようなひとが言ったこと、したことは覚えています。

 

復讐するとか、そういうことじゃないです。

 

ただ僕は覚えているだけです。

 

覚えているくらい許してください。

 

僕のガマンも限界なんです。