誰が一番強いのか それはファンタジーです。
「地球連邦」とかいうとお笑い草でしかありません。
ただこれは概念conceptです。
勝負事って「概念concept」で勝敗が決まることが結構あります。
これがすごかったのが宮本武蔵です。
この件に関しては吉見俊哉先生が「文学部廃止」の衝撃という本の中で詳細に記述されています。
精神科医の名越康文先生が「プロレスを観るということの重要性」をたびたび言及されています。
これは「勝負事」を目にすることの重要性にかんする指摘なのだと私は考えるのです。
例えばプロレスって勝てばいいというものでは当然ありません。
それがプロレスの特殊性で、ある時間を使って、ある種の「物語」を構築し、その「物語」の結末として、ある結末を迎えるまでのプロセスを描いてみせるものだからです。
単純に誰が「強い」とか「弱い」とかいう話があります。
それは当然そうです。
しかし、これはワシで有名な椎名誠さんが書いていたのですが、椎名さんはある種男くさいひとですから、そういう経験があるのでしょう。
「ケンカなんてあんなイヤものはないし、一瞬で終わるし、後味も悪いし」という内容のことを書いていました。
それはそういうものです。
理由があるのです。
「ケンカ」にはルールがないからです。
たとえば素手のひとと戦う相手が刃物を持っている場合、もちろんケースバイケースなのですが、刃物をもっているひとのほうが有利です。
素手のひととピストルをもっているひとではピストルを持っているひとのほうが有利です。
当然ですよね。
「球技」で考えてみましょう。
「野球がとても強いチーム」と「サッカーがとても強いチーム」のどちらが強いでしょうか。
「お前の話は唐突すぎで意味が分からない」と言われそうですね。
「ルール」の話をしています。
野球の「ルール」とサッカーの「ルール」は違うという話なのです。
いわゆる「格闘技」であっても同様です。
「柔道」の「ルール」とボクシングの「ルール」とプロレスの「ルール」は違いますよね。
「ルール」が存在しない勝負事は存在しないのです。
だからファンタジーとして誰が一番強いのかを語ることは可能です。
しかしそれはファンタジーでしかありえないのです。
「お前の話は極端すぎる」と言われるのでしょうが、「核ミサイルのボタンを押せるひと」を前にしてはいくら「強い」武闘家でも勝てません。
じゃあ実際に「核ミサイルのボタンを押せる立場」についたから、あるいは大規模な戦争を引き起こせる立場にたったからと言って、そのボタンを押すことや、大規模な戦争を引き起こすことは可能でしょうか。
それは可能だとしても、とうていたやすいとは言えません。
今の話は「戦争」の話ですよね。
「戦争」においても「ルール」が存在します。
それが「戦争」であればです。
だから「軍法会議」や「戦犯裁判」が存在するのです。
もし、ルールがないのなら「軍法」はそもそも存在しえません。
あるいは戦争犯罪者も存在しえません。
ルールがあるから「あなたはそれを守りませんでした」という意味で裁くのです。
ですから、ありとあらゆる勝負事は「ルール」なしには存在しえないのです。
ですから「誰が一番強いのか それはファンタジー」です。