「バカ」の定義 あなたちょっとね、宮崎哲哉さん
しかつめらしい人たちがいます。
たとえば哲学者ですね
最近ちょっと読もうかなと思ってポチってちょっとだけ読んだヴィトゲンシュタインとか。
しかつめらしいんですよ。
これは正確な引用じゃないですよ。
ヴィトゲンシュタインが書いているんですよ。
「書かれるものは正確でなければならない。それ以外は沈黙する」みたいなことを
まあヴィトゲンシュタインはそういう人だったでしょうね。
だから生前に発表された本が一冊だけだったりするのでしょう。
また私の自慢話が始まります。
ウチの母が変わっていて、小学生の息子(私です)を相手に議論するひとだったんですよ。
私は小学生のころから変わっていたみたいで、母親を言い負かしたいいっしんに考えていたんですよ。
「ここをこうもっていくと、・・・つじつまがあわなくなるな。じゃあ、こっちに持っていくと、・・これはこれでわけがわからなくなるなあ」とかずっとやっていたんですよ。
明確に覚えているのは寝る前に布団に入って小学生のころにこれをやっていました。
結局つじつまがあわないままで眠りにつきます。
立花隆さんが私と同じ経験をしているみたいです。
その頃はそういう言葉は知らなかったのですが、「論理的整合性」とか考えていたみたいですよ。
「定義しなきゃ」とか。
それで私が考える「バカ」の定義です。
「変化や進歩や成長を拒否する態度」が「バカ」です。
「態度」なんですよ。
資質とか能力とはじゃないです。
「態度」でしかないですね、「バカ」って。
だから「能力が高いひとがこの『態度』に陥ることもあります」。
「見識があり」、「知識もあり」、「能力がある」がゆえに、私が「バカ」と呼ぶ「態度」を取ってしまって、そこにずっといるのです。
たとえば私には「障害」があるのですが、私は「障害者なんか死ね」みたいな論調の文章も読みます。
それは私の「態度」の問題です。
「変化や進歩や成長を拒否する態度」をとりたくないんです。
そういうのを読むとイヤな気分になりますよ。
だけれども私は障害をもっている立場でしかないし、そうじゃない立場のひとのものの見方を知りたいし、そこから「学ぶ」ことがあるだろうと考えるから、「障害者なんか死ね」みたいな論調の文章も読みます。
これを考えると私は無限ループにはいって出られなくなります。
宮崎哲哉さんは「評論家」です。
そういう「職業」だし、「立場」です。
宮崎さんが日本のCMにでていたことがありましたよね。
あのときに「評論家が日本酒のCMに出るのはおかしい」というつっこみが入りました。
読んではいませんが、その方が言いたいことは、こういうことでしょう。
「あなたは評論家ですよね。あなたが評論活動をおくるうえで日本酒業界や、そのメーカーに関する評論がゆがんだり、できなくなったりするのではないのではないでしょうか。その件についていかがお考えですか」
宮崎さんは評論家ですから。
評論を開始します。
「私は確かに日本酒のCMにでています。しかしそれ以前に民間放送に出ております。民間放送にも種々問題や人間関係が存在します。それは承知の上で民間放送に私は出ています。私が民間放送に出演していることは問題にしないで、日本酒のCMに出演していることだけをあなたは問題にしていますよね。そのあなたの見識を私は疑いを持たざるを得ません」みたいな。
これって論争ですか。
そういうつっこみを入れるひとって私が定義する「バカ」な「態度」のひとだとしか私には思えないのです。
でも宮崎哲哉さんは「評論家」でしょ。
確かに「評論」するから「評論家」なのですよ。
でもこういう「評論」活動って「生産的」と言えるのでしょうか。
私は疑問を持たざるを得ないのです。
しかし宮崎さんは「評論家」なので、「評論」するのが「仕事」だし、そういう「立場」です。
でも、この「評論活動」は不毛に近いと思います。
でも宮崎哲哉さんは「評論家」ですから・・・。
という無限ループです。
宮崎さんが過去にしたり、今している「論争」のあいてに「変化や進歩や成長を拒否する態度」をとっているひとが異常に多くないでしょうか。
私がいう「バカ」な「態度」です。
そういうひとをあいてにした「論争」は「論争」と呼ぶことができるのでしょうか。
というつっこみを私はいれたくなります。
だって「相手は変化や進歩や成長を拒否する態度」、つまり「バカ」でしかない「態度」を明確にとっているし、それを宮崎さんが知っていてあえて「論争」をしているとしか思えないんです。
これを考えるとまた私は無限ループに入ってしまうので、しませんが。
宮崎哲哉さん、あなたちょっとね・・・。