世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

見た目に出ていたのかもしれません 自分のインテリぶりが

周囲の反応で「今の自分って超頭良いひとがちょっとおかしくなっているだという風に見えているんだ」と思ったことが昔ありました。

 

昔の精神科では患者の扱いは基本悪かったですし結構厳しい男性看護師がいたのですがそのひとが私に対してだけは敬語を使っていましたしとてもいい扱いをしてくれたのです。

 

ある時に入院した時に自分で自分の姿が変わってゆくのがわかったのですがその時私は自分で自分の姿を見たくない気分だったので鏡も見てはいませんでした。ただ周囲から話しかけれることがほぼないとは思っていました。

 

ある時に前から知っているスタッフから「坂本さんはもちろんインテリなんですが今ものすごいインテリの姿になっています。私たちは坂本さんがいるとインテリから監視されているみたいな気分になって緊張しているんです」と言われて驚いたのを覚えています。

 

そういう時の自分が「インテリにしか見えない姿」だったのだとすれば納得できる(というかそう自分で思わないと納得できない)ことが数回あったのです。

 

当時私は病状が重く疲れていたのですがカウンセリングを受けていたのです。そのカウンセラーがなぜか私に議論をふっかけてきたのです。その議論を一蹴することは(実は)簡単だったのですがなにしろ病気で疲れてもいましたしカウンセリング中に議論する意味などないと思って流していたのですが。

 

今から思うとあの時の私は「見た目がインテリだった」のかもしれません。

 

ほかにもヘンに私に知識をひけらかす女性がいてオカシイと思っていたのですが彼女にも「このひとってインテリだ」という風に見えていたのかもしれません。

 

私はそうとう見た目が変わるらしいのです。

 

激やせを私は何回かしていますが激やせしている時に初めて会ったひとが私の体重が普通に戻った時に「今はもう別人です」といっていましたし。

 

厄年の時に長崎で修行らしきものをしてのですがその時に友達になった男性から「坂本さんがどんどんカッコよくなっていく」といわれているのです。

 

その時に「坂本さんは何ですか」とも別のひとから効かれてその時に私は質問の意味がわからずに黙って流していたのですが。

 

その質問をしたひとは和食の板前さんだったので後で「あのひとはオレを板前だと思ってどのジャンルの料理が専門なんですか」という意味で「坂本さんは何ですか」と聞いたのだとわかりました。

 

私は本当に見た目が変わるらしいのです。

 

ちょっと私をバカにした対応をしていたひととしばらく経って喫煙所で同席した時に向こうは声をかけなかったのです。今から思うと声をかけられないくらい私の見た目が変わっていたのかもしれません。

 

私は本当に見た目が変わるようで時々「超インテリ」に見えているらしいのですよ。

「妄想」は症状だから「妄想だけを問題にしないでください」

岡田尊司さんの「統合失調症」という本のある部分を読んで「それはそうなるだろう」と統合失調症である私は思っています。

 

ある女性患者の例がこの本の中で紹介されているのです。アマゾンのリンクを張っておきます。

 

統合失調症 (PHP新書)

統合失調症 (PHP新書)

 

 

具体的には書きませんがあきらかに妄想があった女性の妄想が取れていったそうなのです。ですが彼女はその妄想がほぼなくなるとともに自殺しているのです。

 

私は勝手にブレーカー理論といっているのですが本人の中で「精神のキャパシティー(容量)では受け入れらないような事柄に出くわすと本人の意志とは無関係に精神のブレーカーが上がってしまう」のです。

 

結果ある記憶が思い出せなくなったり妄想が発生してしまうのです。

 

それはなんともいえないところなのですが「同じ事柄に遭遇したとしても原因に妄想が発生する訳ではない」ようです。

 

ただ事実妄想が取れて自殺した女性がいるということの意味を考えてみましょう。

 

彼女は「妄想を作り出すことで自分を守っていたのにその妄想がなくなることでもう自分を守ることができなくなって自殺したのだ」と私は考えています。

 

幻聴も統合失調症の代表的な症状ですし私も幻聴が聞こえていた時期があります。

 

ただほとんどの幻聴持ちは「この幻聴は事実ではない」と認識しています。

 

そのひとのことはよく知らないのですがあるひとが「あのひとは自分のことを霊能者が超能力者だと思っているのだけれどもそれはただ幻聴が聞こえているだけで病気なんだというかどうか迷っている」といっていました。

 

これは妄想であっても同じことです。ほとんどの妄想を持っているひとは「これは事実ではない」ということがわかっています。

 

しかも妄想の内容は恥ずかしいものですし(たとえ相手が主治医であっても)「自分には妄想があるのだ」ということは言わないのが普通なのです。

 

妄想はいわばリエスクヘッジとして存在しているのであるから妄想だけを問題にして妄想を取りたいという医師の気持ちはわかりますがそういう行為はとてもリスキーだということは抑えていて欲しいものです。

インテリって意外と良いみたい

「知識人」のことを欧米の言葉で「インテリゲンチャ」といいます。それを省略して「インテリ」なのですが。

 

半端に知識がある人たちは死ぬほど世間で語っています。死ぬほど普通に知識をひけらかしているひとはほとんど知識が偏っているかそもそも知識が足りていない人たちです。

 

私はどうやらインテリらしく「知識がある」のです。そういう私からみると(わかりたくはないのですが)世間でペラペラしゃべっている人たちの知識の間違いがわかったりします。

 

でもそこでしゃしゃり出るのも違うなと思っているので普段は黙って流していてこういう場所で発散させているのです。

 

基本「好きじゃないと何事も続きません」が本人に(たとえば私に)「それが好きだ」という自覚がない場合もあります。あるいは「こんな無意味なことは辞めたいのだが」と思っている場合もあるのです。

 

ですがここまで私が続けてきていることでたぶん私はご飯が食べられます。

 

たとえば姜尚中さんの「悩む力」が出版されるはるか昔に私は自分の欲望を押しとどめることがどうしてもできずに悩んでいました。

 

これはコトバ遊びではないのですが当時の私は「悩みたかった」ので。

 

そして「悩むなんて意味のないことはとっとと辞めたかった」のですが「悩むような意味のないことにどうしても心惹かれて悩むことをやめられなかった」のです。

 

考えてみれば私は「悩むことが好きだった」のです。

 

結果インテリになってしまったのです。

 

私は好きでインテリになった訳ではないのですが悩むことも考えることも好きだった訳ですし結果としてインテリになるよりほかなかったのです。

 

お願いだからひがまないでください。

さようなら 子供たち

そのひとはそうとう良いひとなのですが私はもうおつきあいはしないと思っています。

 

「子供」なんです。「幼稚だ」というか。

 

事実そういうひとであってもおつきあいをするひともいるのでしょうが今は正直そのひととはおつきあいはしたくありません。

 

前に橋本治さんが「自分は男の料理が嫌いだ」と書いていらしてその時にはその意味がわからなかったのですが彼の件で私も同意見になりました。

 

彼は料理に目覚めたらしいのです。そして何故かラーメンを作ったといっていました。

 

彼は「難しいとされているラーメンでできて」とかいっていたのです。

 

私は「ダシはなんで取ったんですか」と聞いたのかな。多分「鶏ガラ」だったと思うのですが。

 

私は彼にちょっとイライラしていたのでイヤミは言いました。

 

「飲食店では原価率はだいたい3割だと言われていて違うという話もありますけど」と。

 

すると彼は「そうするとあのラーメンは何千円だ」とかいっていたのです。

 

そんな「何千円もするラーメン」をするラーメンを食べるひとは普通いません。

 

ラーメンの麺で「手打ち」は普通ないので彼は麺は買っているはずです。

 

彼の腕ではチャーシューは作れないはずです。

 

ナルトも当然作れないはずです。

 

(私はやろうと思えばチャーシューとナルトは作れますが)

 

だいたい料理に目覚めて選んだメニューが「ラーメン」だったということじたい私にはわかりません。

 

鶏ガラのスープだって特別難しいものではありませんし。

 

彼の中では達成感があったらしいのですが私は完全にげんなりしていました。

 

彼の言動で私にはわからないことが多々あったのですが彼を「子供なんだ」と思ってみると筋が通るのです(というより子供がしていることなんだと思わないとはらわたが煮えくり返るのですが)。

 

私は「いい年をしたお子様とはもうおつきあいはしません」よ。

 

でもそういうのを「人徳」と呼ぶのかもしれませんがそういうひとであっても私が「このひとは許せるな」というひともいるのです。

「決断」と「自由」

あなたも「このひとっていい年して」と内心思っているひとがいますよね。

 

ここは私にも何ともいえませんが「だから許せない」というひとと「だけれども許せる」というひとに別れるのです。この違いは私は不明です。

 

ただこれはあくまでも私に経験上ですが「社会経験はどうやら見た目ではわからない」ようです。

 

事実いろいろな経験を積んでいてもそういう社会経験から学習できていないとしか思えないひともいますし社会から隔絶されたような環境に長くいたひとでも人間的に成熟しているひともいるのです。

 

この件に関する一つの解として「決断の数が実は違っていた」ということが考えられます。

 

「決断」は頭の中ですることですから「目には見えない」のです。

 

ある友人の件があるのですがそれはちょっと生生しい話ですし本人の了承を取っていないので書けませんが彼は一般社会から隔絶された環境でずいぶん長い間生活していたのですが「自分の中での決め事」をそうとう作っていたようです。

 

「自分の中での決め事」とはいえそれらを彼は「自分で作って自分で守っていた日々」がずいぶん長くもあったしその決め事の数もそうとうあったようです。

 

「自由」という言葉があります。

 

自由という言葉は「自ら(みずから)に由る(よる)」という意味です。

 

その彼は「自分の中で決め事をずいぶんたくさん作ってその決め事を自分で守っていた」という意味では「自ら(みずから)に由って(よって)いた」ともいえるのです。

 

彼が長く過ごした環境は正直いって素敵だとはいえない環境です。

 

そうなのですが彼はそういう環境の中にあったにも関わらず「自ら(みずから)に由って(よって)」つまり「自由」に暮らしていたともいえなくはありません。

 

違う視点からみれば(正直いって過酷な環境だとしても)「自ら(みずから)に由って(よって)決断をくだせる可能性あることは否定できない」といえます。

 

自由って言葉の意味の通りに「自ら(みずから)に由る(よる)」ものなのであって「誰かの自由を奪うこと」は不可能なようです。。

 

6:4で相手に勝たせるのが人間関係のコツ

もっと年と取れば考えが変わるのもしれませんし全ケースに当てはまる訳えではないのですが「6:4で向こうに勝たせる」の人間関係のコツです。

 

ひどい言い方ですが頭が悪い相手には使えませんが。

 

普通に接していて人間関係が構築できている場合なら向こうにも「このひとはオレに勝ちを譲ってるな」とわかるのです。

 

わかりやすい例が「話をする」「話を聴く」です。

 

「話をする」「話を聴く」なら「話をする」方が「勝ち」で「話を聴く」方が負けです。

 

頭が悪い人は(たとえばあなたが)そうとう意識的に(相手に勝ちを譲って)「話を聴いている」ことがわかりませんからこういう考えは通用しません。でも普通のひとならわかるのです。

 

そしてあなたも話を聴いている(つまり負けている)だけではツライので4割は話をします(つまり勝ちます)。

 

頭が悪いひとは(たとえばあなたが)「そうとう意図的に話を聴いていること」がわからないのでそういう場合は「このひとはそういうひとなんだ」と思って距離を置いた人間関係を取った方が良いでしょう。

 

私がいっているこの比率が「6:4で自分の方の勝ちが多くてもいいんじゃないか」とあなたは思ったかもしれません。

 

何故あえて「6:4で相手に勝たせなきゃいけないだろう」とか。

 

こういうことはそれほど極端ではありません。「ケンカしてしまう」ということがありますよね。

 

私自身経験があるのですが「6:4で向こうに勝たせる」ことの最大の意義はそういう場合にあります。

 

ある時にケンカをしたとします。当然お互い気まずいのです。

 

こういう時に五分五分の人間関係であったとするならばその後の人間関係のイニシアティブは五分五分です。

 

ですが「6:4であなたが向こうに勝たせている場合」はケンカしてしまった時の人間関係のイニシアティブを取るのはあなたの方なのです。

 

あなたの気まぐれで「仲直り」してもいいし「もうアイツはいいや」と思って縁を切ってもいいのです。

 

仲直りするにしても「どういうタイミングで仲直りするのかを選べる」のはあなたの方です。

 

だから「6:4で相手に勝たせるのが人間関係のコツ」なのです。

半知既(はんちき)は消えてくれ

方言なのでしょうか。「半知既(はんちき)」という言葉があります。

 

「半分既に(すでに)知っている状態やひと」が「半知既(はんちき)」なのですが。

 

おもえば私は高校生の時にはすでに「半知既(はんちき)」連中に苦しい思いをしていましした。

 

ネットが一般化して以降なのでしょうか「論破」という言葉が普通に使われているようですが。

 

「半知既(はんちき)」連中を普通に論破しようと思うと異常に高度な知識や論理を構成する能力が必要になるのです。

 

私は論破できた場合も事実ありましたがたいてい「このひとがいっていることって全然違うだけれども」であるとか「このひとは誰とかいう思想家の名前を出しているんだけれどもその思想家の考えがこのひとには全然わかってないし」と思いながら流してきました。

 

世間では気軽に「論破」とかいっているようですが日本は勝負を明解につけてその後「ノーサイド」というお国柄ではありませんから当時の私に「論破が可能だった」としても「この後のこのひととの人間関係に差し障りがでるしこのひとのプライドを自分がいたく傷つけるのもいかがなものなんだろう」とも思っていましたし。

 

当時の私に十分な知識や論理を構成する力がなかった場合もあるのですが。

 

これは釈徹宗さんが書いていたか内田樹さんとの対談でおっしゃっていたのですが日本の普通のカレンダーには「友引」とか「大吉」とか書いてありますよね。役所か何かが配ったカレンダーにも書いてあったらしのですが「これは政教分離の原則」に反しているのだというひとがいたらしいのです(そうとうあいまいな引用ですが)。

 

「私レベルでも論破が可能なほど愚かなクレーム」です。日本で『月曜とか火曜とかあってこの曜日は7個あるのですが、これはキリスト教ユダヤ教の聖書の教えに基づていて「神様が天地創造を始められて7日目に休まれた」という記述にもとづいています。あなたがそんなに宗教性が嫌いなのだとしたら曜日という概念も否定してください』という論破は私にも可能なのです。

 

私は基本「角を立てる」のが嫌いなのです。

 

(ここでは女呼ばわりしますが)ある職場である女性に"I don't know"というクセみたいなものがあったのです。それに関してある若い女が何故か私に「ネイティブ的には"I don't know"は違うんですよ。"I have no idea"なんですよ」と超偉そうにいっていました。

 

そういう場面で「私には英語圏出身のお前がいう英語のネイティブスピーカーの友達がいてそういう連中が"I have no idea"とかいうのは聞いたことないけど」とかいうと私がものすごくイヤなヤツになるでしょう。だから黙っていましたが。

 

ぺらぱら自分の知識をひけらかしている連中ほぼ半知既(はんちき)」だから。あなたは違いますよね。

 

あなたも思っていますよね「半知既(はんちき)連中頼むから消えてくれ」と。

 

私は子供のころから「論理的一過性」や「論理的整合性」がとても気になるひとだったのですよ。