世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

有働由美子アナウンサーの「失恋ソング三昧」で考える 今(2018年)は過渡期です

NHK-fmでは祭日に「今日は一日○○三昧」という放送をします。昨日は有働由美子アナウンサーが出演して「今日は一日失恋ソング三昧」を放送していました。

 

私はハナレグミが出演している部分をちょっと聞いていたのですが、聞くのが恥ずかしくなって聞くのも辞めてしまいました。

 

別に有働さん批判ではないのですが「あの私が感じた恥ずかしさってなんだったんだろう」と考えていたのです。

 

答えは「生生しさ」でした。

 

私が個人的なことを話す時には「ネタ」にします。

 

あるひとが私の話を聴いて、「その話はそのままオレが他のひとに話せますね」といっていました。

 

ネタにすると、そういう「一般性」が発生します。

 

有働さんの話は「ネタ」になっていなかったのです。

 

有働さんも大変なことは当然あるのでしょう。でも有働さんの大変さは「特権的なもの」ではないのです。

 

私にだって、このブログを読んでいるあなたにだって「大変なこと」はあります。その「大変さ」は同じ意味、同じ価値をもっているのです。だから有働さんの「大変さ」は特権的ではないのです。

 

ですから有働さんがご自身の「大変さ」をラジオで話すのであれば「ネタ」にする必要があります。

 

「ネタ」にできないのであれば「放送」という公(パブリック)な場ではないところだけで話すのが筋です。

 

私はネットニュースでそういうことがあったと読んだだけですが有働さんの自宅周辺に週刊誌の記者が集まって有働さんが大変迷惑をされていたそうです。

 

もし有働さんの個人生活が特権的だからラジオで話してもいいんだとお考えなのだとすれば、有働さんはご自身がスキャンダルまみれになる覚悟が必要です。

 

記憶がちょっと不確かなのですが薬師丸ひろ子さんと小泉今日子さんと有働由美子アナウンサーの3人での鼎談をNHKが放送したいたはずです。

 

薬師丸さんも小泉さんもスキャンダルまみれになった経験があります。

 

彼女たちの私生活が「特権的」とみなされたからです。

 

私は芸能人や著名人の私生活が特権的だった時代は「もう終わった」と考えています。

 

今(2018年)は過渡期ですが、SNSでのフォロアーも多数抱えているのは必ずしも芸能人、著名人ではありません。

 

それは「誰かの私生活が特権的である時代の終わり」を意味しています。

 

記憶が不確かなのですがシャーロックホームズシリーズに、国際条約の大事な手紙の行方がわからなくなって、シャーロックホームズに仕事が依頼される事件があったと記憶しています。

 

その時代であれば「国同士の約束事」の重要度はとても高いものだったはずです。

 

(二回目ですが)今は過渡期です。

 

今(2018年)においては「国同士の約束事」の重要さと「ある零細企業の約束事の重要さ」がそこまで変わらなくなっています。

 

「意味」や「価値」の民主化、大衆化が日本では発生しているのです。

 

私はさっき「放送は公(パブリック)だ」と書きました。それは私の「感性」が古いからです。同時に有働さんのスキャンダルを追い求める記者の感性も、もはや古いのです。

 

あなたはSNSは「公(パブリック)」だと思いますか、それとも「私(プライベート)」だと思いますか?

 

どちらとも言えないはずです。

 

私はもうSNSには飽きているのでしませんがSNSは「公(パブリック)」と「私(プライベート)」の中間にあるのです。

 

そういう意味でいうと「公式ブログ」なるものの必然性と奇妙さが見えてきます。

 

「ブログ」は個人情報(プライベート)を発信する場です。それに「公式(つまりパブリック)」という名前がついているのです。

 

普通に考えるとこれは論理的に矛盾しています。

 

「公式ブログ」は「パブリック」であり同時に「プライベート」なものなのです。

 

デジタルネイティブスピカーや「Y世代」の感性がこれからの日本にとって、とても重要なのです

 

彼らの中からイノベーターが現れます。

 

現にそういう世代は大人からの評判が悪いのです(「今の若い連中はすぐ仕事を辞める」とかいう批判があります)

 

でもそれは彼らの「価値観」が既成の「価値観」と相いれないからなのです。

 

私はオジサンとして彼らの「価値観」を応援します。私の「感性」はもはや古いのです。