私はコウモリみたいなやつではあるのですが1980年代に一応「右」でした。
その話は飛ばしますが。
そういう私(田舎のバカな若者)が曾野綾子さんと石原慎太郎さんの対談をある時に読んでいます。
その感想は「?」というものでした。
物事には「賛成なり反対なりをするに達しているレベル」がありますし「応援するなり批判するなりに達してるレベル」も存在するのです。
失礼なのですがお二人の対談は当時の私(田舎のバカな若者)からしても「そういうレベルには達していない」としか思えませんでした。
世間の評価もそういうモノでしかなかたのです。
誰がそう言っていたのかは忘れましたが「曾野綾子さんはああいってるけれどね」というカタチでの引用がとても多かったのです。
私はその後のお二人の対談や曾野綾子さんの政治的発言に接することもあったのですが私の基本姿勢は「これって笑うものなんですよね。漫才とか漫談とかそういうものですよね」という姿勢であり続けていたのです。
昔の漫才で「責任者出てこい!」というものがあって「責任者が出てきたらどうするの」と聞かれて「そしたら逃げる」というものがあったのですが。
私がいう「漫才とか漫談」というのはそういう漫才とほぼ同じ意味なのだと解釈していていたという意味です。
世間一般はそういう前提でお二人の対談や曾野綾子さんの政治的発言を受けて止めていたはずです。
そういう前提(つまり「笑うものだ」という前提)なしに曾野綾子さんの政治的発言やお二人の対談をよめば腹が立つより混乱するのが普通だと私は思います。