「インテリ」っていつからか日本語の中では「悪口」ですよね。
あれには原因があるのだと私は想像します。
「アイツ等良い思いしているんだろっ、結構カネ持ってんだろう。インテリみたいだしね、頭良いんだろう、いい学校出てさ。俺らはさ、そうとうイヤな思いをして、なおかつ生活がカツカツだったりするじゃん。しょせんアイツ等だけが良い思いをしてね、俺らはどうせダメな訳だよ。そりゃそんなもんだって。それはそうだと思うよ。だけどちょっとオレとしてはアイツ等が憎たらしわけよ」という原因です。
この話し言葉を「起こす」(とはいえ私はこんな発言を実際に耳にした訳ではないのですが)感じが伊丹十三さんの書いたものに似ていることに自分で愕然としていますが。
こういう「口語」を文章にすると話が分かりやすいでしょ。
「インテリ」という言葉が日本語の中で「悪口」になっていることにはこういう原因があると私は想像するのです。
というより、これは当たっていると思うのです。
あなたはコレが思い当たると思うのです。
それはともかくこんなに伊丹十三さんに「話し言葉を文章にする感じ」が似ているということは私は伊丹の弟子でもあるのでしょうか。
恐れ多いのですが、そうかもしれません。
そうかもしれないな、伊丹さん、不肖の弟子で申し訳ありません。
ここで岩波独和辞典第17版さんの登場です。
これは大昔の本ですね。
だって定価が800円ですから。
「intelligenz 1、理知、知力、知能 2、(集名)インテリゲンチア、知識階級」
私は自分はしょせんオタクだからムダに知識があって、その知識が自分でウザイのです。
だとしても「知識」はあります。
新明解さんにもユニオンさんにも聞いてみます。(つまり辞書をめくります)
新明解国語第二版です。
「インテリ(ロ intelligentsiya) 知識階級(に属する人)」
ユニオン英和辞典第二版
「intelligentsia インテリ 知識階級(全体)」
この話に行く前にインテリの人にお願いしたいのですが、私もあなた位の知識はたぶん私にもあります。
そういう話題やそういう知識に基づいた話題が似つかわしくない場面が多々あります。
ああいうことをすると多くのひとがイラっとしますから、そういう事に私を巻き込むようなことは絶対しないで欲しいのですよ。
一部の人たちだけでなさっていてください。
ああいうことでイライラする方が多数いるのです。
そかもその知識が中途半端だったり結構しています。
ある場面でなら説明しますが、そういう事が最高に嫌味にしかならない場所で、そういう事をしないで欲しいのです。
申し訳ないのですが、たいていそういう事を普通にする方の知識は中途半端ですよ。
これはご本人には言っていない話でなおかつ私がホントに困ったし、恥ずかしかったのですが、その方がフランス語と英単語が似ているとかいうのです。
その事をある場所で、ある人いうのですが、そのこと自体やイヤミですから、そういうことを控えるくらいの「見識」みたいなものをぜひもっていてください。
それに英語の単語とフランスの単語が似ているのは当然でしょ。
語源が一緒だからですよ。
日本語の「音読み」は昔の(今でいう中国)の言葉をそのまま使っているから、結構現代中国語の「単語」と日本語の「単語」は似ています。
それだけです。
ラテン系の言葉と言いますよね。
たとえばフランス語もそうです。
ヨーロッパの方がは古代ギリシャであるとか、古代ローマ帝国やその文化が、いわば先進文化でした。
言語もそうです。
だからたとえばフランス語は古代ローマの言葉をどこか引き継いでいます。
一方英語やドイツ語は「インド・ヨーロッパ語族」という意味では同じですが、別系統の当時としては辺境の言語です。
だから英語やドイツ語はラテン系(ローマン語系)の「単語」を輸入しました。
日本語が古代中国語を輸入したのと同様です。
日本語のなかに「音読み」(これは古代中国から輸入したコトバですね)と「訓読み」(こっちは大和言葉です)があるように、英語の中にも「ローマン語系の単語」と「ゲルマン語系の単語」があります。
これはただ三好助三郎先生の「新独英比較文法」(アマゾンのリンクを張っておきます)の中から引用しているだけですが。
日本語でも「本」と「書物」というでしょ。
英語でも同じです。
bookは本で、ゲルマン語系です。一方volumeは書物でローマン語系です。
同じ「自由」でもfreedomはゲルマン語系でlibertyはローマン語系です。
同じ「願い」でもwishはゲルマン語系でdesireはローマン語系です。
日本語でも「大和言葉」のほうが身近です。
音読み(つまり輸入した古代中国語)はどこか硬いですし、身近な響きではないはずです。
英語でも同様のはずです。
こういう説明をしても私は構いません。
だけれども、場面や、場所によっては「自分の知識をひけらかす」ことにしかなりえないのですよ。
私はそういう「見苦しい」ことはしたくありません。
だから英単語とフランスの単語が似ているとか、そういう事を喜んでみたり、さらに適切な場所ではありえないところで、適切な相手でもありはしないのに「言う」のはホントに周囲には迷惑でしかりませんから、是非とも辞めてください。
私はそこいらにいるオジサンなので、そういうをされると本当に迷惑ですし、恥ずかしいのです。
その題材が何であってもです。
「マンガ」でも「映画」でも「音楽」でも「経営」でも「本」でも「アニメ」でも「IT」でもなんでも同じです。
私は死ぬほど恥ずかしいし、周囲は本当に迷惑でしかありませんから。
そういう場面で私が「それはコレコレこうで」とかいうとイライラする方がいる訳ですから私には「言えない」でしょ。
ホントに知識がある方はそういうことを控えてくださいね。
その場所、その場面に「適切な話題」があります。
そういう話が死ぬほどできる、場所、場面で、そういう事を言ってくださいね。
ある程度以上ある分野に関する知識がある人でも、「この場面だとオレ語るなあ」と思いながら「たいして語りません」から。
これは「良い意味」でおっしゃっているのですが、吉本隆明さんが「知識は富です」とおっしゃっています。
友達で若くてカッコ良いひとがいて、彼は多分「ロレックスの腕時計」のはずです。
服はイタリアンカジュアルだったと思います。
なんかそういうのが好きなひとだし、似合ってもいます。
もちろん彼は本当に頑張るひとで頑張った結果そういう服や腕時計を身につけているのです。
あるいは別の結構稼いでいる友人は趣味が映画位で、後は大してお金を使わない人なので「ロレックスの腕時計」をしています。
その二人とも「ロレックスの腕時計」を「ひけらかす」ような「みっともない」ことはしないひとです。
「知識」があるという事は吉本さんはおっしゃるように「お金を持っている」(つまり富んでいる)ということとほぼ同じ意味なのです。
だから「知識があるひとはそんなに語りません」よ。
お金をもっているひとも、そういう事を自慢しないですし、もしそういう事をしていたら周囲は「あの人は成金だ」と軽蔑します。
お金持ちが「自分がお金を持っているという自慢」はしません。
知識があるひとは「自分は知識があるという自慢」はしないものです。
そういう「自慢」をするひとは「成金」でしょ。
「知識」に関してもまったく同じことで、とても「みっともない」ことになることがわかっていただけたでしょうか。
最近は読んでいないのですが、田中康夫さんが「お金持ちに関する考察」をずいぶんされていました。
世間が完璧に浮かれていたころだから80年代だと思います。
私は知りませんし、そんな余裕はありませんでしたが、BMWが流行っていてゴルフも流行っていたのだそうです。
その頃に実際にお金をもっている人が何をしているのかをご覧になって書いていらっしゃいます。
カローラに乗って、テニスをされていたそうです。
本当に車が好きであるとかゴルフが好きなら別に構いませんし、友人たちのようにロレックスの腕時計をしても似合っていて、ひけらかさない分には、何の問題もありません。
ただ「お金持ちが自分はカネを持っている」とひけらかすのは見苦しいでしょう。
「知識」でも同様です。
「知識がある」方々は気をつけましょう。
お金の事でいえば、私は長年貧乏でしたから、たとえばそれは「海外旅行」とか「高級な服」とかにイラっとしたことがありますし、そういう事に関する「気配り」のようなものを「お金持ち」の皆さんはもっています。
「知識」に関しても同様ですよ。
本当に気をつけましょう。
田中康夫さんのついても書いておきます。
若い世代の方はちょっとわからないかもしれません。
田中さんはずいぶん若い頃から活躍されている、つまりご自身が「若者」の頃からご確約されています。
私は喧嘩しませんが、「ケンカをしょっちゅうしているひと」が結構好きなようです。
田中康夫さんは「あるケンカ」を売っていました。
それは、「格式のある出版社から本を出したとか、ある賞をもらったとか言って喜ぶようなヤツがいるよね。アイツ等にちょっとケンカを売る。お金持ちで豪邸に住んでいるであるとか、良いワインが好きでとか、海外に別荘を持っているとかという自慢と、ああいう人たちのある種の「自慢」は一緒だよね。どこが違うんですか。一緒でしかありえませんよね。そういうケンカをオレは売るぞ」ということです。
「ケンカを売られた側」は田中康夫さんが「どういうケンカ」を売っているのかの「意味」があまりわかっていなかったようですが。
当時は「貧しさ」みたいものに今とは違う独特の「意味」があったんです。
これは確か糸井重里さんが書いていた事だと記憶しています。
ここは私の「専門外」ですが、「マルクス」と「マルクス主義」は明確に違うようです。
ここではそういう言い方をしておきますが、「俗流マルクス主義」の主張を糸井さんが一言で言っていたのです。
「みんな貧乏が悪いんだ」。
これは「間違い」です。
でも時代の気分のようなもので、「みんな貧乏が悪いんだ」という気分に日本社会が覆われた時期があるのです。
そこが田中康夫さんには最高にカンに障ったのだと想像しているのです。
田中さんは明確にはおっしゃっていなかったと記憶していますが、「あなたたちはカネをもっていることをどこか悪いことのようにとらえていますよね。でもお金をもっているから悪いひとだとか、そういうことは言いがかりに近いとしか私には思えないのです。もちろんお金はすべてではありません。ただお金もちが悪いひとで貧しいひとであればいい人だというようなことはあまりにも考えが浅いとしていえない」というお考えがあったと想像しています。
田中さんの指摘はその通りです。(私が勝手に解釈しただけですよ)
「お金」にはそうとうの「ちから」があります。
それはそうです。
だから私自身も「お金を軸」にして考えていることがあります。
それはたとえば「もうちょっと、あと5万円の余裕があればいいのに」という場合です。
こういう発想自体「お金が軸」なった「発想」です。
もしあなたがこういう発想に陥っているとしたら、それは「発想の軸がお金になっている」ということです。
具体性に乏しいではないですか。
たとえば「必要経費」です。
食費であるとか、住居費であるとか、最低限に服であるとか、税金であるとかは必要なお金です。
食費を具体的に考えて、今の暮らし向きにプラスして、「外食でうどんとラーメンを週に一回ずつは食べたいし、仕事終わりに毎日カフェでコーヒーを飲みたい」という「発想」であれば「お金が軸」になった「発想」とは少し違うと私は思うのです。
でも私も思いますよ、「あと月に5万円あれば」と。
具体例をあげます。
「今バカみたいに働いている(事実過去の私がそうでした)のだけれども、このまま仕事だけして死ぬまで暮らすのは違うんじゃないかな。やっぱり家族もいる訳だし(私は一人者ですが)、家族との時間を大事にした方が良いのかもしれない」とかいうことです。
極論ですが「お金をいくら稼いでも死んだら意味がないわけでしょ。じゃあお金を普通に使うとか、楽しく使うか、アレ今までオレが頑張ってきたことってなんのためだったろう」とかいうことになりませんか。
これはドラッカーがよく言うのかな、「目的」と「手段」という考え方があります。
お金は本来「手段」です。
「仕事」がこういう考え方の上では難しくなります。
「仕事って楽しいといえば楽しいから」です。
あるいは「身分を保証してくれるから」です。
実際「仕事は手段にしか過ぎない」と思うと本当につらくなるはずです。
「仕事」は「目的」と「手段」という考え方にはなじまないようです。
「仕事」に関してはもっと違う「思考のアプローチ」が必要なようです。
マルクスには今でも意味があると私は考えています。
あるいは「左翼運動」みたいなモノに現代日本社会の閉塞状況へのヒントがあるとも考えるのです。
「左翼革命」を目指すという事とはまったく違う事です。
イデオロギーというよりも、ある種の「現実」があり、それを何とかしようとすれば「社会」と何らかのカタチで関わりを持つ必要があるからです。
そして、場合によっては「社会のある種のシステムの変更が必要である」からです。
ある考え方があります。
それはどんな良い社会構造が実現したとしても、やはりツライ思いをするひとはどうしても出てくるものであるし、それをすべて「社会構造」の問題としてとらえるのは違うのではないかという考え方です。
これを突き詰めると「自己責任論」になります。
だから「自己責任論」には一定程度の「根拠」があるとは思います。
ですが、明らかに「社会のあり方」に問題があるとしか思えない状況もあり得ます。
私自身にも「解」はありません。
ただ今の日本社会は明らかにどこか「疲れて」います。
このある種の「疲れ」を、私の観測ではほぼ全員疲れているのですし、「個人の責任でお前が疲れているだけだ」という事には違和感があるのです。
「そういう事を言っているあなたも私にはやはりどこか疲れているようにしか見えないのですが」とひそかに思っているのです。
実際には「疲れている」という言葉をそういう人たちが発しているのではありません。
言葉としては「貧困」であるとか「ある種の犯罪者」への批判として発せられた言葉ですから。
でも、あなたもどこか「疲れて」いますよね。
でも私の「感覚」でいうとこれは「疲れ」なのですから、これを「社会構造」というとらえ方をして、解き明かそうとすることはアプローチとして、ちょっと違う気がします。
もちろん失礼なのですが、結果失敗したとしても、アプローチしてゆくことには意味も意義もあります。
何かをする必要があるとほぼ全員が「考え」、「感じて」いるはずのです。
しかしこの「疲れ」をどういう風に解釈して、アプローチしていくのは難問です。
日本中のトップの頭脳と感性をもって、この日本社会の「つかれ」がなんであるのかをつきとめる、あるいはそれにせまってゆく必要があると私はみています。