ちょっとある場所で知り合ったひとがいました。
別に普通に世間話をするような仲です。
男性です。
ある時に彼がフトいった言葉を聞いて彼の中でそれがとても重いんだと気がつきいました。
彼は「自分は施設の育ちで」といったのです。
重たい一言でした。
実は女友達がいろいろありながら子育てをするなかで息子さんを児童養護施設に預けようかと思うのだけれも、ずいぶん昔に言っていた時にわたしは「わけのわからない家で育つよりかはそっちのほうが良いかもしれない」と言っているのです。
その施設のトップがもともとその施設で育った方ですし、奥さんは県知事まで務めたかたです。
息子さんが第二次反抗期に彼女に異様につっかっていました。
ラインでです。
彼女も苦しんでいたのですが、一緒にくらしている親子じゃないんですよ。
だから彼女としても息子さんにつきあわざるを得ないでしょ。
でもやっぱり施設で育つって独特の「重さ」があるんです。
私が育った家は壊れていたと思います。
でも壊れているとはいえ「家」で育っているのですよ。
彼女も多分「家」が壊れていました。
その二人からすれば壊れた「家」よりは施設のほうがと思えたのです。
でもやっぱり、その独特の「重さ」が私たちにはわかっていなかったのです。
その「重さ」をだれか説明してくれませんか。