瀬戸内寂聴さんが大和和紀さんの「あさきゆめみし」をほめています。
それは知っていたのですが、マンガって高いでしょ、読んでいなかったんですよ。
もちろん漫画なのですが。
でもある時読んで(全部じゃないですが)「これは瀬戸内さんは誉めるはずだ」と思いました。
理由は簡単です。
「原作に忠実だから」です。
古典ってそういうものなのでしょうが、「この場面はこうしたか」とか「この場面はそうですよね」ということを思いながら読者は読んでいます。
たぶん、中学の時に、あれはどういうつもりで教科書に、そういう場面を載せたのか、今だにわかないでいる「源氏物語」からの引用がありました。
私が、今だに「あの部分を中学生に読ませる理由がわからない」と思っている場面は源氏物語の最初のほうのある部分です。
言葉はそういう言葉です。
「おもむきがある」とか。
ですが、若いころの光源氏の仲間が自分と関係を持った女性に関して「ああだ、こうだ」いっている場面です。
言葉は「ああいう女性はおもむきがある」とか「ああいう女性はおもむきがない」です。
けれどもそれって女遊びをようはして、男連中が「あの女はどうだったんだよね」とかいう男のしょうもない話でしかないのです。
しょもないことはないのですよ。
しょうもなくはありません。
内容はあります。
でもその場の状況は、そういうことでしかありません。
紫式部は女性ですし、そのあたりの感覚がつかめるあたりはやっぱりすごいとは思います。
そういう場面を中学生に読ませるのはどうなんだろうと田舎の中学生が当時戸惑っていたのです。
たとえば、そういう場面ですよ。
そういう場面を大和和紀さんは「こうしたんだ」と読者は思いながら読むのが「古典」だと私は考えています。
私はカツゼツが悪いので林望さんの「謹約 源氏物語」を音読して、ちょっとはカツゼツをよくしようかなと考えています。
「謹約」って林望さんの造語で「謹んで訳します」という意味です。
それはとても重要な、古典の現代語訳にたいする「態度」なのだと私は考えるのです。
意訳も重要です。
だけれども、一言一句変えないで翻訳するとか、それは原作にたいする「敬意」でしょ。
意訳してもいいです。
だけれも、問題は敬意です。
でも古典がおもしろいは教養とかそういう意味もあるのですが、わけがわからないことが普通に書かれているからです。