世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

武道に関する物語から学ぶ 姿三四郎

1、保守とリベラルが口汚く言い争ったら

 

保守とリベラルが口汚くなく言い争ったら保守が勝つ。これは構造上そうしかならない。

 

この場合、保守とリベラルをわけるものは「理性」であり「合理性」だ。

 

「理性」や「合理性」をどこか信用しないのが「保守」だ。

「理性」や「合理性」を重要視するのが「リベラル」だ。

 

「保守」と「リベラル」をこういう風に考えてみるといろいろ見えてくる。

 

保守とリベラルが企業経営について話している場合に

 

リベラルが「それはまったく筋が通らない話だ」と言い、保守が「あなたがいうことはその通りだが、筋を通すと会社がつぶれるんだよ」と言い返すことがありうる。(ある種のブラック企業でありそうな会話だ)

 

ある時期以降の日本での反論として「じゃあお前がやってみろ」という文言がある。

 

実際民主党はやってみてダメだった。そうではなかったというひとはいないはずだ。

 

もっと気楽な例をあげよう。年賀状だ。

 

保守は「年賀状の意味はまったくわからないが一応やってきたことでもあるし続けてもいいんじゃないか」といいリベラルは「あんな意味のないものは辞める」というはずだ。

 

リベラルは「理性」や「合理性」を重要視するので「なんらかの一貫性を求める存在だ」という側面がある。

 

口汚く言い争う場合には「合理性」や「理性」や「なんらかの一貫性を持っている側」や「なんらかの一貫性を求める側」は負けるしかない。

 

口汚い言い争いはそもそも「非合理的」であり「非理性的」であり「一貫性はない」からだ。

 

2、森田剛にはなにかある

 

M君という若い友人がいるが、ある時に「最初に会った時森田剛だと思った」といった。

 

ランチの女王 DVD-BOX

ランチの女王 DVD-BOX

 

 

ドラマ「ランチの女王」の再放送を友達とみていた。竹内結子演じる女性に森田剛が会いにくる場面だ。レストランなのだが彼女は森田剛に会いたくないので出ないのだが森田剛はイス(だったと思う)を取ってドアの上の飾りがついたガラスの部分を割るのだ。

 

(今書いてみてわかったが、もちろんこれはドラマの中のことで二人は演じているだけだ。私はテレビドラマを役柄ではなくてその役を演じている本人だと思って見ているらしい)

 

私の友人も私も「これイイな」と言っていた。

 

(私はケンカは弱いが)ある場面で「これは普通しない」ということがパッと浮かぶひとは強いのだ。

 

そして「これは普通しない」ということは場面場面で変わる。

 

その場面でイスでドアの上のガラスを割るのは「想定外」なのだ。

 

そういうことが普通にできる役柄がかっこよかったのだ。

 

森田剛にはなにかある。

 

3、余白 熊本地震ドラえもんユーミン阿久悠

 

熊本地震を振り返ると集まりがあって出席した。その時に私は「あの時は水を3リットルもらうのに5時間とか待って大変だったけれども、あの時の方が気持ちは楽でした。今の方が気持ちは苦しいんですよね」と言っていた。

 

昔作家の新井素子さんが「私が育ってきたときにはドラえもんの世界はもうなかった」と言っていた。

 

ドラえもんの世界でとても重要な役割を果たす場所がある。

 

「空き地」だ。

 

「空き地」には土管があるのだ。

 

のび太ジャイアンスネ夫はしょちゅう「空き地」で遊んでいる。

 

私も子供の頃通称「天神さん(の森)」というところで遊んでいた。「天神さんにいってくる」と言っていたはずだ。

 

ユーミンガゼボの"I like Chopin"の日本語の歌詞を書いている。「雨音はショパンの調べ」だ。

 

DREAM PRICE 1000 小林麻美 雨音はショパンの調べ

DREAM PRICE 1000 小林麻美 雨音はショパンの調べ

 

 この歌詞で「気休めは麻薬 Ah」という風になんども「Ah」という意味がない言葉を使っている。

 

阿久悠も意味がない言葉を使う。

 

ゴールデン☆ベスト フィンガー5[スペシャル・プライス]

ゴールデン☆ベスト フィンガー5[スペシャル・プライス]

 

 

 

沢田研二 A面コレクション

沢田研二 A面コレクション

 

 

意味がないとはいえないがフィンガー5恋のダイヤル6700」の冒頭は「リンリンリリンリンリンリリンリン」というだけだし沢田研二勝手にしやがれ」では途中で歌詞がなくなって「アア」というのだ。

 

それが地域であっても日常生活であっても歌詞であっても「意味や価値がない何か」がないと苦しくなるものだと私は考えている。

 

「空き地はないけれども公園があるからいいんだ」という考えは間違っている。

 

公園には意味や価値があるのだ。

 

私が「意味や価値がない何か」というのは「余白」のことだ。

 

公園は公園という存在で「余白」ではない。

 

日本社会の問題点として「余白がない」という問題点があると私は考えている。

 

4、メタ認知

 

大昔上司から私はひどく怒られていた。取引先の前でだ。その点だけを考えれると理不尽だった。実際私は悪かったのだがそこまで怒る必要はなかったからだ。

 

でも私と上司という認知からワンステージ上がって、その状況を見ると納得できる。上司は取引先にはったりをかましていたのだ。

 

「空き地」には意味がない。それはそうだ。「空き地は余白」なのだから。そもそも「意味を含まない存在が余白であり空き地」なのだ。

 

でもメタ認知すると意味が見えるのだ。

 

以下はウィキのコピペだ

 

メタ認知能力

現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力。

 

意味や価値があること、意味も価値もないことは明確にあるが認知のレベルで変化もする。

 

「空き地」も歌詞の「Ah」も「リンリン」もある認知では「意味も価値もない」が違う認知では「意味も価値もある」のだ。

 

5、やっと姿三四郎 (「力まない」「こだわらない」という「理性」と「合理性」のありかた)

 

 これは否定形でしかいえないのだが「力まない」「こだわらない」という「理性」と「合理性」の在り方が存在する。それは実は一貫性なのだ。

 

これは三省堂「新明解四文字熟語辞典」よりだ。

 

行雲流水   空行く雲や流れる水のように、深く物事に執着しないで自然の成り行きに任せて行動するたとえ。また、一定の形をもたず、自然に移り変わってよどみがないことのたとえ。▽「行雲」は空行く雲。「流水」は流れる水。諸国を修行してまわる禅僧のたとえにも用いられることがある。「流水行雲りゅうすいこううん」ともいう。

 

ちょっと考えてみればわかることだが「力んだ状態」では「感度が鈍くなる」ものだし「とっさの対応もとれない」ものだ。

 

「力まない」「こだわらない」という否定形でしかいえないのだが。これはとても知的なことだ。

 

メタ認知能力」を使えばわかることだ。

 

格闘技人口は増えているらしい。格闘技を観る人口はたいして増えていないらしいが格闘技をやる人口は増えているらしいのだ。

 

「頭がよくなるためのスポーツ」という存在が21世紀に入って浮かび上がっている。

 

私はスポーツや武道をそういう「感覚」ではずっととらえてこなかった。

 

でも「頭をよくするためのスポーツ」なる存在が浮かび上がっている。

 

保守とリベラルとの不毛とも思える争いを解くカギもメタ認知にあると私はにらんでいる。

 

口汚い言い争いという存在そのものに対する思考のアプローチもやはりメタ認知にあると思うのだ。

 

 

何がポイントなのか 時代の潮目

1、新潮45に掲載された杉田水脈議員の論文の何がポイントなのか

 

保守のリベラル憎しがポイントだ。以前週刊朝日橋下徹さんの人格攻撃をした。意味はあれと同じだ。

 

もちろん普通は発言や原稿を読んで、その内容について、考えるべきだ。でもそれは発言当の内容にポイントがある場合だ。

 

そもそもリベラル(リベラル的なもの)を攻撃することにポイントがある以上(私はそう読解している)ポイントはリベラルへの憎悪だと読解するのは当然だ。

 

そこまで来たら「保守とリベラルの間の憎悪」が次のポイントになってくる。

 

昔の左翼的な言動もポイントは(もちろんそうではないひともいたであろうが)「なんだかつっかかりたい」という衝動のようなものだった思っている。

 

「なんだかつっかりたい」と思うことはそんなにヘンなことでも病的なことでもない。普通だ。

 

2、なぜディスる時代ではないのか

 

マチュアスポーツの世界でいろいろあっている。ああいうことでテレビがうめつくされることを批判するひとがいる。私はバカだと思う。

 

何故か。

 

ある好ましくない現象がおきている時に

 

1、何故そういう現象が起きているのか という問題を設定して挑むこと

2、どうすればそういう現象が収まるのか という問題を設定して挑むこと

 

は今の日本に生きるひとであれば当然することで、できることだからだ。

 

ディスる」(批判する)ことが時代にあわなくなっているは、今(2018年)の週刊文春のことを考えてみればわかる。

 

今私が文春砲を打ってほしいのは週刊文春編集部の皆さんだ。

 

「あんな記事を書いて出版している編集部の人たちはそんなに清廉潔白なのかな」

 

と思うからだ。

 

ある時期以降日本の政治状況が変わった。理由は政権交代があったからだ。昔は野党はずっと野党だったのだ。

 

だから「自分たちは政権運営をしない」という前提で発言したり批判したりすることが多かったのだ。

 

そういう前提だから筋が違う発言や批判もあった。でもそれは「自分たちは政権運営はしない」という前提だけではなく「自分たちには政権は取れない」という前提でもあったのだ。

 

かつてテレビで芸能リポーター全盛期があった。彼らは結果そこいらの芸能人よりも有名になった。つまり芸能リポーターが結果芸能人になったのだ。

 

政治状況に重ねると野党の政治家が政権入りした(つまり与党になった)のだ。

 

ディスっていると結果自分がディスっている存在と同じ存在になってしまうから(あるいはそれが多くのひとにわかったから)ディスりは時代にあわないのだ。

 

人気のニュースキャスターやコメンテーターに対する批判も「お前が批判している権力者とお前は権力者という意味で同じだ」という内容のものがあります。

 

3、ふるまいの重要性

社会党が世間から見放された時のことを私は覚えています。

 

きっかけは「牛歩戦術」でした。少数派が投票をとてもゆっくり行って違法ではないカタチで議事の妨害をするのが牛歩戦術なのですが。

 

牛歩戦術をとっている時の野党議員の態度」を見て国民は社会党を見限ったのです。

 

今でも抗議の意味で「牛歩戦術」は有効ですが。

 

その時の社会党の議員たちはとても楽しそうにしていたのです。

 

ポイントは牛歩戦術ではなく「楽しそうに牛歩戦術をやっていたところ」にあったのです。

 

麻生さんが責任を取った方がいいとか責任を取らなくてもいいという話がでています。

 

この件に関してのポイントは「麻生さんの態度」だと思うのです。

 

子供でも問題にされます。

 

「態度が良いのか悪いのか」。

 

麻生さんの思想や力量は私には不明です。でも「態度は明確に悪い」のです。

 

そして政治家でなくて「態度」はそのひとの力量の一つなのです。

 

政治家でなくてもそうです。

 

榎本美恵子さんが時のひとになってテレビバラエティに出たり写真集を出したりしました。

 

正直私は浮かれていると思って、そこは好きではなかったのですが。

 

ただ榎本美恵子さんのご主人が田中角栄の秘書で榎本さんは田中角栄がワイロを受け取ったと証言したのです。

 

その時に彼女は「ありの一刺し」といっています。

 

その意味は「この証言の代償はとても大きい」という意味です。

 

その頃に林真理子さんが榎本美恵子さんの食事の写真を見たようで「静かに箸をねぶっている彼女は信用できると思う」と書いていたのです。

 

多くのひとはそういうことで「ひとを判断する」ものです。

 

思想とかそういうことではありません。

 

4、時代の潮目

 

ただ榎本美恵子さんは「自分の証言で本当に何かが大きく変わる」という確信はなかったと思っています。

 

当時の田中角栄の力は絶対でゆるぐはずがないと思えるものでしたから。

 

でも徐徐に崩れていくのです。

 

立花隆さんの「田中角栄金脈の研究」であるとか。

 

田中角栄新金脈研究 (朝日文庫)

田中角栄新金脈研究 (朝日文庫)

 

 

私は田中角栄とリチャ-ドニクソンと同じくくりで、安倍さんとトランプさんを同じくくりでみています。

 

田中角栄は1918年生まれ、リチャードニクソンは1913年生まれでともに1910年代生まれなのです。

 

1910年代生まれの共通点が(たぶん)両者にはあるのです。

 

いっぽう安部さんは1954年生まれ、トランプさんは1946年生まれなのです。政治の季節の後の世代です。

 

角栄さんとニクソンさんには「絶対ゆるがない感じ」があったのです。

 

いっぽう安部さんとトランプさんには「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」があります。

 

トランプさんの過激な言動も私には「軽くゆらぐだろう(頼りない)感じ」に見えるのです。

 

そしてその「頼りない感じ」が今のリーダー像にあっています。

 

ある時代が変わるときには意外なことで大きく変わっていくのです。

 

「こんな小さなどうでもいいことで」と思うようなことです。

 

そこだけ見ると不思議なのですが、これはヤカンの水をずっとコンロで温めているようなものです。ある時に沸騰します。でもそれはそれまでヤカンをあたため続けてきたからにすぎません。

 

それを「こんなことで変わるなんて」というひとはわかっていないバカです。

 

トランプさんはわからないのですが安部政権はいつ終わってもおかしくない状況です。

 

別に安部さん批判ではないのですが事実そうです。

 

バブルも終わったのです。一頃は「東京の土地の値段は絶対下がらない」と言われていたのです。でも事実バブルは終わったのです。

 

余計な話ですがテレビでバブルの映像として流れるジュリアナ東京の浮かれ騒ぎはバブル崩壊後です。

 

大きな変化が起きたときには多くのひとは気がつかないものなのです。

 

今普通に「近代という時代」が終わろうとしています。でもあなたは気がついていないでしょう。

校則について考える 自分に意味がわからないことを命令しろと言われている状態の危険性

www.msn.com

 

まず仕事について書くのだが仕事をしている時にはたいていのひとが何かを切り捨てている。そして切り捨てられないひとは仕事ができないひとだ。

 

極端な例で考えてみる。軍事作戦でこの作戦で500人仲間が死ぬがこの作戦によって10マン人助かる(と言われた)のだという場合には目の前で死ぬ500人の人たちに対してとても冷淡になれるひとが有能なのだ。

 

これはトロッコ問題とは違う。あれはレバーを使わなければある人数が死に、レバーを使うともっと多くのひとが死ぬという設定だからだ。あの事例を経験した人類はほぼいない。

 

軍事作戦であげた例ではその判断は別のひとがしている。

 

仕事にはそもそも分業の要素があるのだ。

 

だけれどもそういう働き方が行き詰っているようだ。

 

わかりやすい例が「スーツ」だ。スーツを着た時は「生活」は切り捨てるものだ。

 

都市にもそういう要素がある。

 

生活も生活の匂いも出さないというルールが存在する。

 

この話は別の機会にするが。

 

「本来こういう目的だったはずだ」ということの意味がなくなった後に物事は混乱するものだ。

 

学校で服装や髪形を問題にすることには本来は「外見(姿勢等)を整えることにより内命を整える」という意味があったはずだ。

 

制服って黒か黒っぽいか白いのが普通だったことにもそういう意味があったはずだ。

 

禅宗の言葉で「調身調息調心」がある。姿勢を整え、呼吸を整えると、ココロが整うという意味だ。

 

校則にはそういう意味があるはずだ。

 

そして教師にも外見の変化で生徒学生の内面の変化がわかるという意味もあったはずだ。

 

だけれどもある時期以降校則の指導をしている教師たちは上司からやれといわれているからしている仕事だという以上の意味はないはずだ。

 

物事の原因がわかる比較的自由がきく立場であれば融通がきかせられる。

 

だけれども意味もわからず、命令だからという理由、ルールだからという理由でしているのなら指導をしている方にそもそも意味がわかっていないし裁量もないのだから、指導を受けている側はどうしようもなくなるのだ。

 

この状況では「先生この校則ってなんで守らないといけないんですか」と生徒に聞かれても教師は答えられない。

 

ただ「守れ」というしかないのだ。

 

校則に限らず、今書いた状況はとても危険だし、今の日本のあちこちにある。

 

これを単に校則の問題だと思わないでほしい。

ワイドショーの罪 あれは素人の世間話 ホンマでっか!TV 訳が分からないプロ

ワイドショーが素人の世間話であることには理由があると思うのですが、まだ私にはわかっていません。

 

でもワイドショーは明らかに日本社会に害毒を流しています。

 

この発言そのものを今回は問題にはしません。なぜ政治家がこのような発言をするのかが論点です。

 

lite-ra.com

 

発言内容がワイドショーのコメンテーターの感覚(センス)だと私は思うのです。

 

ワイドショーのコメンテーターは基本素人です。あそこにスペシャリストは基本いないのです。

 

そういう意味であそこは「(架空の)お茶の間」なのです。

 

だけれども今の日本の多くの家にお茶の間は存在しません。

 

現実にはないお茶の間をテレビの中に再現することが不可能な時代なのです。

 

結果ワイドショーのコメンテーターは暴走しています。

 

あの人たちがどういうつもりで発言したかは別問題です。

 

問題は発言内容。

 

私が観た範囲でも「問題がある発言」が多々ありました。

 

ああいうことでコメテーターをやってお金ももらっているのだから責任を取るのが当然です。

 

でもワイドショーのコメンテーターが自分の発言内容の責任を取ったという話を私は聞いたことがないのです。

 

私が言っているのは「自己規制しろ」ということではないのです。

 

「自分がしたことには責任を取る」という当然のことをしろということを言っています。

 

世間でもそうとうヒドイ内容の世間話はいくらでもありますし私もします。

 

でもそれは仲間だけでしていますし、そういうことでお金を稼いでもいません。

 

テレビでそういうことをして金を稼いでいる人たちとは意味が違うのです。

 

ネット民もボチボチ動くと思うのです。

 

それでやった片山さつき氏なのですが、片山さんの発言のセンス(感覚)が私にはワイドショーのコメンテーターのセンス(感覚)だとしか思えないのです。

 

いろんな発言をされていますが、ああいう発言をしたことに対する責任を取るセンス(感覚)がないようです。

 

それがSNSだろうと何だろうと政治家が発言した内容はオバサンの世間話ではなくてその政治家が責任を取るのが当然の発言ですが本人にはそういうつもりはないらしいのです。

 

ただホンマでっか!TVが始まり待ったことはとても大きい変化だと私は見ています。ある領域の専門家は発言内容だけではなくて人としてもとてもおもしろいのです。

 

実際ネット上では「先生たちの話をさえぎらないでほしい」という声もあります。

 

あの番組に出演している専門家にイライラすることもあるのです。発言内容というより「人柄」みたいなものにイライラしているのです。

 

でもそれくらいに「あくがつよい」ひとたちです。

 

さんまさんくらいじゃないと司会はできないような人たちです。

 

30分でマスター! 植木理恵の行動心理学レッスン

30分でマスター! 植木理恵の行動心理学レッスン

 

 私がこのひとの本を読むことは死ぬまでないと思います。植木理恵さんですが。だからと言ってネガティブキャンペーンははりません。どこか好感がもてるのです。お近づきにはなりたくない方ですが。

 

私はもう素人の世間話は時代の流れの中で力が薄まっていると感じています。

 

スペシャリストは発言内容以上に「ひととして異常で訳がわからない」のです。

 

 

 

 

 

 

教育勅語を導入してもいいのだが ショートカットは存在しない

教育勅語を学校教育に導入するという話がある。

 

私は子供をなめている人たちだと思う。

 

教育勅語を今の教育現場にいれた場合多くの子供たちは「教育勅語に書いてあることはウソだ」と思うはずだ。

 

現実が教育勅語に書かれている内容とはまったく違うから。

 

事実そうだ。

 

だから遠回りであったとしても現実を変えていく(これは言論人だけでなく当然政治家の仕事でもある)ようにするのが筋だ。

 

そういうことを政治家がしていないとはいわないが「教育勅語のような社会が望ましい」と思うのならば「教育勅語のような社会の実現にまい進している姿を子供たちに見せる」ことは当然教育上非常に望ましい。

 

世のなかにショートカットは存在しない。

成功の秘訣 習慣化

「考えること」が習慣になっている人たちが一部いる。そういう人たちは朝から晩まで考えている。そして場合によっては夢の中でも考えている。

 

「習慣は第二の天性なり」という言葉は事実のようだ。

 

物事の成功の秘訣が習慣化にあると考えることも当然かもしれない。

 

ただ何でもそうだが「好きなことしか続かない」。

 

スポーツでもそうだし考えることでもそうだし訓練でもそうだ。

 

ただ習慣化にはコツもある(好きなことしか続かないが)。

 

3日続くだろうことを目標にするのだ。

 

「三日坊主」という言葉は本当らしい。

 

友人が僧侶の修行をしようと思ってある寺に入ったのだが三日しか続かなかったと言っていた。「本当に三日坊主だった」のだ。

 

そして構造を作るのだ。

 

早起きするためには早寝するしかない。

 

「早起きしよう」と決めても普通はうまくいかない。

 

それはいつもと同じ時間に寝ているからだ。

 

テレビが好きなひとはテレビを録画して早く寝るのだ。

 

そうすれば早く起きる。

 

そして完璧は目指さないようにする。

 

今すぐするようにすることも大切だ。

 

たとえば「明日から頑張ろう」と思ったとする。

 

でも「明日からしよう」と思うことはしないのだ。

 

だから「今ちょっと頑張る」ようにするのだ。

 

本当に「ちょっとだけ」で十分だ。

 

それを「いま」すればスタートになる。

 

「いいスタートを切りたい」と思うとなかなかスタートが切れないものだ。

 

そして三日続けるのだ。

 

三日が過ぎてまだ自分がやっていたら、それはスゴイことだ。

 

今はやっている「脳科学」的に説明すると習慣化は脳の思考パターンの変更だ。

 

思考パターンの回路を変えるのが「習慣化」なのだ。

 

その期間は明確にいえないが「思考パターン」が変われば、もう考えなくてできるようになっている。

 

 

 

サヨナラ 反論するための反論 揚げ足取り

あるひとが「反論のための反論」をしていると思った。

 

物事には筋道がある。

 

「1、自分はこう思う」。これが必要だ。

 

「2、コイツはこう考えている」。これがあったとする。

 

「3、自分の考えとコイツの考えには違いがある」。これがあったとする。

 

そうすると「4、自分の考えとコイツの考えのここはあう」「5、自分の考えとコイツの考えのここはあわない」。 これも生まれる。

 

そして「6、二人の考えを総合してみるとこういう結果になる」に至る。

 

でも彼は「B、コイツはこう書いている」からスタートしていたとしか思えなかった。

 

この場合も「A、コイツはどういうことが言いたいのか」という読解は可能だ。

 

もちろんAの読解が難しくないように書くことは必要だが。

 

発言や文章には前段階がある。それを無視して発言されたものだけや書かれたものだけを問題にして反論したつもりになっている人たちがいる。

 

心底見苦しい。

 

そして話には「その話で重要なポイント」がある。そうではないどうでもいいことをつついて知的なつもりになるのもぜひやめてほしい。

 

もちろんそういうことをするのはそういう人々の自由だ。

 

だけれども私はもうそういう人たちとはSNSでもリアルでもつきあわない。

 

私はそういう人たちとかかわってイヤな思いをすることに完璧に飽きた。

 

アンタらは似たような人たちとそういうことをしていればいい。私はもうかかわらない。