世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

普通に考える時代 習慣化

1、ラッキーアイテムの構造

 

朝のテレビでたいてい占いをやっている。「今日のラッキーアイテム」というものもある。

 

あれは自由な都会人には必要なのだろう。私はずっと束縛を受けていたので必要なかったが。

 

物語として考えてみればラッキアイテムの構造が見えてくる。

 

なんとなくテレビを観ていたひとが「あなたの今日のラッキーアイテムは赤いものです」と言われたとしよう。(どういうものがラッキーアイテムなのか私は知らないのだが)

 

そのひとは赤いものを探し始める。冷蔵庫を開けてトマトを見つけるかもしれないがトマトは携帯できない。いろいろ探して赤いハンカチを見つけて「これもっていこう」と思う。そして安心する。

 

ラッキーアイテムはなんでもいいんだと思う。

 

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」という本がある。

 

自由という状態は大変なのだ。

 

ある程度の束縛があったほうが楽だ。

 

ある程度のワクの中での自由が楽なのだ。

 

一定程度の束縛を受けている状況は「善か悪」という観点ではなく「楽か大変」という観点でみると「楽」だ。

 

2、運命論としての占い

 

「占い」にはいろいろあるがたいてい「傾向だ」という。

 

血液型占いは世界中で行われているわけではない。

 

でもO型はこういう傾向があるという話は実体験と結構あっている。

 

たぶん星座でもそういうことがあると思う。

 

長男か次男とか親の仕事が自営業か会社員かということでも傾向があると思う。

 

ただこういう占いの致命的な欠点は「運命論」になりかねないというところにある。

 

以前「次男坊が今はいいんだ」という本を書いたひとがいた。私は正直バカにしていた。

 

理由は「それではあなたは長男に生まれたら、そのひとがなにをどうしても、そのひとがうまくいくということはありえないというんですか」という反論がありうるからだ。

 

たとえばそういわれたら「次男坊がいいんだ」という説のひとは「そうは言っていませんが・・・。でも事実次男で成功しているひとが多いんです」とでも答えるのだろうか。

 

たぶんそのひとがもって産まれたものは事実あると思う。

 

でもそれだけですべてがきまるわけでは当然ない。

 

ここでいう「運命論」とはそのひとが産まれた瞬間にそのひとの人生がすべて決まっているというものだ。

 

そんなことはありえない。

 

 

ただ人間を何種類かに分けることには意味がある。

 

「このひとはこういうタイプだから、このタイプのひとにはこういう接し方をするとうまくいきます」という接し方のパターンを提示する場合には特にそうだ。

 

 

3、スピリチュアルなるもの

 

他界されたが哲学者の池田明子さんと現代インテリの長老養老孟子さんともう一人優秀な学者3人の鼎談があったらしい。

 

この3人共通で「日常生活がわからないこと不思議なことであふれているので死後の世界とか霊とかそういうことが格別不思議だとは思えない」と話になったと前に読んだ。

 

性別が関係しているのかどうか不明だが「なぜなの」とずっと聞いている子供がいる。

 

問いにはざっくりわけると2種類ある。

 

Why(なぜ)

How(どうやって)

 

だ。

 

こういうことを大人になっても考えているひとはあまりいないと思う。青は青いことが多いが「なぜ空は青いのか」。(これはWhyだが)

 

でも朝焼けと夕焼けの時には赤いこともある。

 

私には正直すぐには答えられないが光は波長の長さで色が違うはずだというあたりから考えていくと答えが出ると思う。

 

太陽の光が大気にぶつかったときに何かあるのかなとか。

 

こういうことを日常的に考えているひとにはスピリチュアルななにかが特別にどうだとは思えないのだろう。

 

皮肉な現象だが「科学的な啓蒙する」と日常生活の中にある不思議さを見失う人々が出てきて、そういう人々がスピリチュアに惹かれるという構造があると思うのだ。

 

私は数学は専門外だが「1,2,3,4,5」といった数字を自然数という。自然数は人間だったら誰もが使える。

 

だが「なぜ私たちは自然数を当然のように使えるのか」という風に思うんとそれは優秀な数学者にしか答えられないことになってしまう。

 

 

4、学校の終わりと始まり

 

今の学校は兵士と工場労働者とオフィスワーカー(事務職)を養成する場所だ。そういう意味での学校はもう終わっている。

 

私には何をどうした方がいいという力はないが、「今当然とされていることを疑う力があるひとが次世代の教育のことを考える時代」に入ったようだ。

 

そういう意味でいうと本が有効だと思える。

 

たとえば本の中では対談本というジャンルは軽いものだ。読みやすいのだ。でも対談本を出すためには10時間くらい話をするのは普通だ。

 

これをテレビやユーチューブでやるとはとても難しい。

 

メディアの特性上そうなる。

 

本には結構キツイことが書いてあることも多い。

 

 

 

藤野英人さんはファンドマネージャーだ。「GG資本主義」がなんであるとは明快には書いてはいない。

 

でも発音してみればわかるはずだ。

 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 

堤未果さんは右とか左とかそういうことではなく真摯に仕事をされているジャーナリストだ。

 

事情は知らないが藤野秀人さんも堤未果さんもテレビで観ない。

 

私はテレビが悪いとかネットが悪いとかそうは思わない。

 

「時間の使い方」の問題なのだ。

 

一日に数時間テレビとネットに費やすと結果として他のことができなくなるのだ。テレビもネットも基本楽しいものだから。

 

テレビもネットも共通で「習慣性」があるのだ。

 

習慣化についてはこの記事が良いと思う。

 

習慣化の3つのポイント!【今日からやってみる人限定】 - 一生つなわたり

 

ホメオスタシス(恒常性を保とうとする働き)があるので誰であっても「変化」はひどく難しいのだ。それは意志の力が強いとか弱いとかそういうことではない。

 

でも習慣になってしまえば「考えるまでもなくやっている」のだ。

 

頭の中は目には見えない「なぜだろう」とか「どうすればいいんだろう」と考えることが習慣になっているひとは普通にそういう風に考えるものだ。