まず仕事について書くのだが仕事をしている時にはたいていのひとが何かを切り捨てている。そして切り捨てられないひとは仕事ができないひとだ。
極端な例で考えてみる。軍事作戦でこの作戦で500人仲間が死ぬがこの作戦によって10マン人助かる(と言われた)のだという場合には目の前で死ぬ500人の人たちに対してとても冷淡になれるひとが有能なのだ。
これはトロッコ問題とは違う。あれはレバーを使わなければある人数が死に、レバーを使うともっと多くのひとが死ぬという設定だからだ。あの事例を経験した人類はほぼいない。
軍事作戦であげた例ではその判断は別のひとがしている。
仕事にはそもそも分業の要素があるのだ。
だけれどもそういう働き方が行き詰っているようだ。
わかりやすい例が「スーツ」だ。スーツを着た時は「生活」は切り捨てるものだ。
都市にもそういう要素がある。
生活も生活の匂いも出さないというルールが存在する。
この話は別の機会にするが。
「本来こういう目的だったはずだ」ということの意味がなくなった後に物事は混乱するものだ。
学校で服装や髪形を問題にすることには本来は「外見(姿勢等)を整えることにより内命を整える」という意味があったはずだ。
制服って黒か黒っぽいか白いのが普通だったことにもそういう意味があったはずだ。
禅宗の言葉で「調身調息調心」がある。姿勢を整え、呼吸を整えると、ココロが整うという意味だ。
校則にはそういう意味があるはずだ。
そして教師にも外見の変化で生徒学生の内面の変化がわかるという意味もあったはずだ。
だけれどもある時期以降校則の指導をしている教師たちは上司からやれといわれているからしている仕事だという以上の意味はないはずだ。
物事の原因がわかる比較的自由がきく立場であれば融通がきかせられる。
だけれども意味もわからず、命令だからという理由、ルールだからという理由でしているのなら指導をしている方にそもそも意味がわかっていないし裁量もないのだから、指導を受けている側はどうしようもなくなるのだ。
この状況では「先生この校則ってなんで守らないといけないんですか」と生徒に聞かれても教師は答えられない。
ただ「守れ」というしかないのだ。
校則に限らず、今書いた状況はとても危険だし、今の日本のあちこちにある。
これを単に校則の問題だと思わないでほしい。