世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

万能薬は存在しない  ドラッカー

1、最初にドラッカーを読むならこの本から

 

ドラッカーは今でも世界中で愛されている独特の学者である。始めてドラッカーを読むのならこの本が良い。

 

上田惇生著「ドラッカー入門 - 万人のための帝王学を求めて」

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

 

 

 本はタイトルがとても重要だ。本当にこの本は「万人のための帝王学を求めて」という内容だ。上田惇生氏はドラッカーとの親交も深くドラッカーの著作の日本語約を担当したひとだ。

 

2、クイズはしょせんクイズ 三種類の問い

 

問いをここでは3つに分けてみる。

 

1、すでに答えが確定している問い

2、まだ答えが確定していない問い

2、そもそも正解がない問い

 

高校までの勉強や受験勉強では1に取り組む。正解がわかっているから正解不正解の判定ができて点数がつけられる。

 

だけれども世のなかの多くのそして重要な問いのほとんどは2と3だ。

 

いわゆる学者が取り組んでいる問いの多くは2だ。すでに答えが確定していることをあえて研究する必要はない。それでは1の勉強には意味がないのかというとそうではない。

 

「巨人の肩の上に乗っている」という言い方から考えてみるとわかるはずだ。

 

先人たちの業績(つまり1すでに答えが確定している問い)を踏まえて自分は研究している(つまり2まだ答えが確定していない問い)に挑んでいる。

 

自然科学系の学問の多くは(1+2)であるはずだ。

 

いろいろなことで悩んで本を読んだり、セミナーに行くひとも多いだろうが、そういう場合のそのひとの問い(問題)は3なのだ。

 

「営業ってどうすればいいんだろう」「子育てが大変なんだけれども」「人づきあいが本当にたいへんで」のような問い(問題)だ。

 

結論からいうとこういう問い(問題)に絶対的な正解(万能薬)はない。

 

その答えはどういうものであれ「これが正解です」というひとの答えは間違っている。そもそも正解がないからだ。

 

3、わからないという当たり前のことが通用しない時代

その理由は私には不明だが「わからない」という当たり前のことが通用せずにもめている場合が多々ある。

 

たとえば地球温暖化だ。学説というものはそもそも絶対ではないものだ。だから「地球は本当に温暖化しているのか」ということに関しても「絶対温暖化している」というものではない。また「地球温暖化の原因は二酸化炭素のような温室効果ガス」ということもまた絶対そうだということではない。

 

そういうことをふまえながら「こういう解決方法(ソリューション)を取ったほうがいい」と手を打つものだ。

 

だから当然「地球はそもそも温暖化していない」可能性もあり「地球温暖化の原因は二酸化炭素のような温室効果ガスではない」可能性もある。

 

だから「地球は温暖化していて危機的状況だ」という考えと「地球はそもそも温暖化していない」という考えと「地球は温暖化しているかもしれないがその原因は温室効果ガスではない」という考えのすべてに(実は)妥当性があるのだ。

 

わからない(絶対そうだとはいえない)のだが解決策(ソリューション)を考えて手を打っていくものなのだ。

 

私はタバコをやめたくてやめられないのだがタバコの害も同様だ。「タバコは絶対害だ」とは言えない。そして「タバコには絶対害なんてあるわけがない」とも言えないのだ。

 

科学的に考えると両者ともに間違いだ。

 

だけれども「タバコをほおっておいていいのか」というとそれは別問題でタバコ問題についての多くのひとが納得できる解決方法(ソリューション)を考え、実現していくものだ。

 

学説を妄信するのも感情的に否定するのもともに間違い(誤謬)だ。

 

 

私はオカルトといわれる事柄も同じだと思う。

 

「死後の世界は」であるとか「幽霊はいるの」とか「UFOはいるのかな」とかいうことはわからない(絶対こうだとはいえない)と答えるのが妥当だと考えるのだ。