人間がすることには100%合理性がある。しかし多くの場合理性や合理性は「限定的な理性」であり「限定的な合理性」なのだ。
今の時代の特徴なのだがPCでいうプログラムやスマートフォンでいうアプリを開発したりアップデートすることでは対応できない。OSから作ることが必要なのだ。ウィンドウズやアンドロイドやiOSから作る必要があるのだ。
OSの上で成立する理性と合理性を「限定的理性」「限定的合理性」と呼ぶ。
たとえば私たちは日本という国に生きていて選挙に行き(いかないひともいるが)税金を納め学校や職場に行く。こういうことはとても当たり前だがいつの時代でも地域でも当たり前な訳ではないという意味で「限定的理性」「限定的合理性」に基づいている行為だ。
それでは甲子園(それも徳の甲子園)のOSはなんだろう。あるOSに基づいて高校球児たちは存在しているはずだ。そういう意味で彼らの存在にもやはり「限定的な理性」「限定的な合理性」があるはずだ。そしてそのOSは投票や納税や勤労義務教育のOSとは違うとしか思えない。
実際甲子園(特に夏の甲子園)を見ると私は本当に感動する。彼らの存在を支えるのは呪術的な多神教的な世界観というOSだと考えている。
そういうことを野蛮だという理由で軽蔑するひともいるだろうがアステカ文明で生贄を捧げていたし古代ギリシャでは剣闘士たちが殺し合いをしていた。私は生贄をささげることはもちろんだが剣闘士たちの殺し合いにも宗教的(呪術的)意味があったのだと考えている。
プロアスリートたちがあり得ないほどの高額の収入を手にしていてもそれを批判するひとはあまりいない。あれは彼らが多神教の神々のような存在(ということは人間ではない)ので基本的人権から逸脱した存在だということがおおくのひとには当然のことして認めているからなのだと考えるととてもわかりやすい。
理性的で合理性がある考えでは甲子園もオリンピックもサッカーやラグビーのW杯もめた方がいい。意味がないからだ。
だけれども今使った理性も合理性も「限定的な理性」で「限定的な合理性」なのだ。あるOS上の理性であり合理性だからだ。
議論や話し合いをする場合今の日本ではお互いがあまり自覚できないままに使っているOSがどんなものなのかという検証が必要なのだ。
誰かと話し合うときや何かを考えるときにはOSの検証からする必要がある時代なのだ。私たちが使っている理性や合理性は「限定的理性」であり「限定的合理性」であることがとても多いのだ。
それがわかってないと何がなんだかわからない事態になることがとても多いのだ。