世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

虐待の問題について 答えはいつも複数

実の親に虐待されてお子さんが亡くなりました。ずいぶん前に「ローラ、叫んでごらん」というドキュメタリーを読んでいました。

 

ローラ、叫んでごらん―フライパンで焼かれた少女の物語 (講談社プラスアルファ文庫)

ローラ、叫んでごらん―フライパンで焼かれた少女の物語 (講談社プラスアルファ文庫)

 

 こういうドキュメンタリーがすごくいいのです。「ローラ、叫んでごらん」に関しては虐待した父親の姿が浮かんできて「なるほど」と思っています。

 

この父親が子供のころから自身がなかったのです。ある時に怒ったら周囲が自分を認めてくれたと思えてうれしかったらしいのです。それからだんだんおかしくなっていくのですが。

 

ネット上の記事で「なるほど」と思ったこともあります。これは日本の話です。ある男性が自分の経験上虐待は夕方から夜に起きるんだけれども、その時間には児童館は開いてないから困るといっていたのです。

 

私も虐待を受けたクチです。

 

ほかのことでも同じことがあるはずですが、お前らが言わなかったから知らなかったというひとがいると思います。

 

だけれども「言えないこと」もあるはずです。あの設定はうまいと思ったのですがイギリスのテレビドラマで少年時代にヒドイ目にあったひとが天才的な腹話術師になっているという話があったのです。彼は言えない状況です。だから人形に言わせるのです。

 

これは正確ではないのですがNHKのラジオで貧困当事者の女性が生活保護の申請に行くと役所の窓口のひとがひどい対応するという話をしていたのです。するとある男性がヒドク不機嫌になって「役所の窓口がひどい人たちだと自分は信じない」というようなことを言ったのです。

 

私にも似たようなことあります。あるひとにこんなことがあってといったら彼は「そんなことは聞いたことがない」と言ったのです。

 

理由はともかく彼女も私も「お前は嘘をいっている」と言われたも同然です。なぜに「ただの事実」を受け入れられない人たちがいるのか私には不明です。

 

そういうことがあるといいたくなくなるはずです。

 

朝日新聞の本だったと思うのですがその記事を書いている記者の戸惑いみたいなものが書いてあって、そういうことを経てそのひとは成長していくのでしょうが、取材対象にホントにイヤな思いをさせて、自分が成長していくことになんの痛みも感じていないと思って「こういうひととはかかわりになりたくない」とも思っています。

 

これは正確ではないのですが取材先から「かわいそうなひとみたいな扱いはしないでほしい」みたいなことをいわれて、その記者はそれがなぜかわからないのです。それがわからないのはその記者の勝手ですが、取材対象がホントにイヤな思いをしながら記者を育てる必要があるのでしょうか。そういう記者のようなたちもそうとういます。記者の人材育成を取材対象がするのは筋が違うと思うのです。

 

アメリカでベトナム戦争からココロに傷を負って帰ってきた兵士たちがある地域にいるらしいのですがお互いそうとう離れて暮らしているらしいのです。

 

日本が戦争に負けたあとに当時は戦争神経症といっていたようですが戦地から帰ってきた元兵士が近所のひとを殴ってしまうことがあったようです。昔のことですか本人以上に家族がつらかったようです。

 

この話を書いたのは自分たちと似ていると思ったからです。ほとんど男性ですが仲間でヘンに彼女を作らないとか結婚しているけど子供をあのひとはわざと作らなかったんだろうと思っているひともいるのです。そういうことをつっこんで話したことはないのですが。私もそうです。

 

私も含めて「自分は虐待してしまう」という気持ちがあるからと思うのです。

 

アルポムッレ・スマナサーラさんという仏教者が「怒りと恐怖は同じ感情だ」と書いていました。

 

私たちの中に「怒り、恐怖」がずっとあると思うのです。そういうひとはちょっとしたことがあると暴発するのだろうし、そういう自覚があれば一人とか結婚まではしたけれども子供は作らないということになるはずです。

 

戦争神経症で近所のひとを殴ってしまうひとのようなものなのが虐待をするヤツでベトナム帰りで似たような地域にいるだけども離れて住んでいるのが私たちのようなものだと思うのです。

 

これは精神疾患についても議論になっています。日本はある時期に精神科の入院病棟を増やしています。結果何十年も入院している人たちがいます。

 

それはおかしいというのは当然です。だけれどもだからと言って患者を地域に出せばいいという話もおかしいのです。

 

私はイジメの問題にも似ている要素があると考えています。

 

あんまり問題なく育ってきた人たちは「家と学校と職場の往復」でほぼ人生を終えます。定年を迎えた男性がずっと家にいえ奥さんがイライラするという話も聞きます。

 

私は「家と学校と職場」がなにもかも抱え込みすぎているのではないかと考えているのです。

 

そうなると「家と学校と職場以外の場所」はかれてしまうのです。

 

精神病患者も「家と学校と職場」にいられないのなら「病院」にいるしかないという状況があると思うのです。

 

イジメの問題も自分がいじめられているとはいえないから家は出るとしても中学生くらいだった学校にいけないでフラフラしてたら補導されます。

 

作家の新井素子さんが「自分が小さいときにはもうドラえもんの世界はなかった」とずいぶん前に言っていました。

 

ドラえもんで重要な場所は「空き地」です。神社の境内にも似たような意味があるはずです。

 

よくわからない誰のものでもない場所が「空き地」なのです。

 

日本から「空き地」が消えたころに日本はどこかおかしくなったはずです。たとえば神社によくわからないひとが寝泊まりしてもそんなに問題にならない状況が失われたことにも大きな意味があったはずです。それが今の公園では意味が違うと思うのです。

 

逃げ口上ではなくて、ああいう問題に対する答えは一つではないのです。