ある年齢以降私は「頼むからオレをムダに疲れさせないで」と願っていました。「この疲れって明らかにムダな疲れでしょ。そういうがオレは死ぬほどイヤな訳よ」と。
これはスペシャリストの発想です。
一方やはりある年齢以降「ひとの仕切りや段取り」が私にはどうしても気に食わなくなってきたのです。
昔から「段取り八分」といってはためにはぼーっとしているように見えている場面でジェネラリストは「段取りをため」に強力に考えているのです。
古典落語にこういうエピソードがあります。私が30歳の時にはその「感じ」がわかっていました。
植木職人の親方がいうのです。「あたしがこうやってタバコをくゆらせながら庭をぼーっと眺めていると遊んでいるみたいに見えるでしょう。でもこうやっている時があたしは一番働いているんですよ」と。
ある年齢までは遠慮していましたがある年齢以降「もういい」と思って「その場の段取り」を始めるようになっていて周囲からも感謝されるようになっています。
もう少し具体的に書きます。
上沼さんのご主人が定期的に上沼さんを言い負かすらしいのですが私が(事実言い負かすことが簡単だったとしても)53年間生きてきて誰かを言い負かしたことは一回だけです。
誰かを言い負かしたとしても「言い負かした方も気分が悪いし言い負かされた方も気分が悪い」のです。
そういうことをしていることで上沼さんのご主人は私の説教の対象です。
上沼さんのご主人に関して上沼さんが驚いていてテレビで紹介されていたのですがヒドイ絵しか描けなかった上沼さんのご主人がすごい良い絵が書けるようになっていたのです。
もう一例あげます。その話を聞いて「オレもそういうことしてるかも」と思って私はとても反省したのですが上沼さんご夫婦はハワイに別荘かコンドミニアムを持っているらしいのです。
そして上沼さんより先にハワイにいって上沼さんを車で空港まで迎えに行くらしいのです。そしてご主人が空港で上沼さんが笑顔で手をふると黙って駐車場に向かうらしいのです。当然上沼さんは気に食わないのです。
このご主人の「感覚」や「思考」が私に丸わかりなのです。
スペシャリストって「これってムダだよね」ということは死んでもしたくないのです。そして逆に「これには意味があるよね」ということはバカみたいに頑張るのです。
上沼さんのご主人は「絵」に関しては「意味」や「価値」を感じたのです。だからあっという間にうまくなったのです。
普通に考えると上沼さんが手を振ったらやはりご主人も笑顔を作って手を振ってもいいし「飛行機疲れただろう」とか優しいコトバを書けてもいいしコロコロも持ってあげてもいいのです。
でもスペシャリストは「嫁を飛行場に迎えに行くことは意味も価値もあるからするが嫁が空港で手を振ったということはオレのことが分かったってことだよね。当然彼女はこれから駐車場に向かうってわかる訳だしコロコロくらい彼女にも持てるから(そしてそういうことでムダに疲れるのは死んでもイヤだから)無表情で駐車場に向かう」という感情や思考の流れをもってしまうのです。
私は若い人から何回か叱られています。意味は「あんたは傲慢だ」というものです。「あんたができるのかどうか知らないがあなたは世間のひとをバカにしている」という説教を食らっているのです。
私は一方で「段取る」ひとでもあるのです。
すべての段取るひとが内心思っているのはずです。「ひとの良い段取りで何にも考えないでただ働きたいんだけれども結局ひとの段取りだと自分は気に食わないから自分って疲れまくることをしてしまうんだよね」と。
上沼さんのご主人は年長者ではありますがもし友達になったら「あんたの考えはわかるけどそういうことをしているようでは人というレベルでダメですよ」と私は説教します。
そして私はどうもドラッカーがいうこれからの世界に必要な人材である「スペシャリストであって同時にジェネラリストであるひと」であるようです。