世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

「決断」と「自由」

あなたも「このひとっていい年して」と内心思っているひとがいますよね。

 

ここは私にも何ともいえませんが「だから許せない」というひとと「だけれども許せる」というひとに別れるのです。この違いは私は不明です。

 

ただこれはあくまでも私に経験上ですが「社会経験はどうやら見た目ではわからない」ようです。

 

事実いろいろな経験を積んでいてもそういう社会経験から学習できていないとしか思えないひともいますし社会から隔絶されたような環境に長くいたひとでも人間的に成熟しているひともいるのです。

 

この件に関する一つの解として「決断の数が実は違っていた」ということが考えられます。

 

「決断」は頭の中ですることですから「目には見えない」のです。

 

ある友人の件があるのですがそれはちょっと生生しい話ですし本人の了承を取っていないので書けませんが彼は一般社会から隔絶された環境でずいぶん長い間生活していたのですが「自分の中での決め事」をそうとう作っていたようです。

 

「自分の中での決め事」とはいえそれらを彼は「自分で作って自分で守っていた日々」がずいぶん長くもあったしその決め事の数もそうとうあったようです。

 

「自由」という言葉があります。

 

自由という言葉は「自ら(みずから)に由る(よる)」という意味です。

 

その彼は「自分の中で決め事をずいぶんたくさん作ってその決め事を自分で守っていた」という意味では「自ら(みずから)に由って(よって)いた」ともいえるのです。

 

彼が長く過ごした環境は正直いって素敵だとはいえない環境です。

 

そうなのですが彼はそういう環境の中にあったにも関わらず「自ら(みずから)に由って(よって)」つまり「自由」に暮らしていたともいえなくはありません。

 

違う視点からみれば(正直いって過酷な環境だとしても)「自ら(みずから)に由って(よって)決断をくだせる可能性あることは否定できない」といえます。

 

自由って言葉の意味の通りに「自ら(みずから)に由る(よる)」ものなのであって「誰かの自由を奪うこと」は不可能なようです。。