立派な方ではなくて私ごときがやった方がわかりやすいと思うので私ごときが浄土真宗を読解します。
「外的な宗教」と「内的な宗教」があるとすれば浄土真宗は明らかに「内的な宗教」です。
「外的な宗教」であればある悪いことをした場合に(その悪いことをした心情はどうであれ)たとえば「100叩き」(極端な場合によっては死)によって償うのです。
「内的な宗教」の考え方ではそもそも悪いことの規定が違うのです。
「盗む」は普通に考えれば当然罪です。内的な宗教では「もし盗まなかったとしても(極端な場合)盗みたいと思うこと」が罪になります。
だいたい日本人には「罪」の概念はどこはピンときません。
今でも日本人にとって重要なのは「エネルギー量」だと私は考えています。
ハレという「エネルギー量が多い状態」とケという「エネルギ量が普通の状態」とケガレという「エネルギー量が少ない状態」が日本人にとっては(今でも)重要なはずです。
私は年なので1995年のオウムの連中の地下鉄サリン事件の時のことを覚えています。
あの時にあるひとがいっていたのです。「あの学者は麻原彰晃(こと松本チズオ)と対談しているから戦犯だ」と。
その「感覚」は麻原彰晃(こそ松本チズオ)がケガレタ(つまりエネルギー量が少ないどころかエネルギーを吸い取る存在)なので麻原彰晃(こそ松本チズオ)と対談したということはその学者もケガレタ(つまりエネルギー量が少ない)存在なのだという感覚だったと考えているのです。
浄土真宗では「ケガレ」を否定するという意味で今でも日本社会とどこか折り合いが悪いのでしょうが。
自分の内面を探っていくような人達に親鸞が書いた本ではないのですが「歎異抄」は愛されています。
自分の内命を深く探っていくと「(内面では)自分も悪い存在だ」ということにどうしても突き当たってしまうからだと私は考えています。
「自分の内面を深く探っていけば」誰だってそうしかならないと私には思えるのですが。
浄土真宗の考え方は私は説明しませんが。
私の解釈では「自分からもとめなくても阿弥陀様の方から(たとえ自分が極悪人であったとしても)救いにきてくださる(場合によっては自分は救われたくないと思っている場合にでさえ)」ということになっているのです。
一応歎異抄のリンクを張っておきます。