世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

今(2010年代から20年代)は産業構造変換期だと押さえておきましょう

日本経済の調子が悪いとずっと言われています。私は一つの原因として「組織病」があると考えています。

 

組織は「自己防御」を図るものですし「自己増殖」するものです。私の若い頃(1980年代からバブル崩壊まで)に一番日本社会で偉そうにしていたのは大組織の構成員でした。構成員とかくと反社会的勢力の構成員のようですがそういう意味ではありません。大組織の構成員にはキャリア官僚や大企業の社員が含まれます。

 

カケイガクエンの件でよくも悪くもクローズアップされた前川さんに対して元文科省の先輩にあたる方が大竹まことのゴールデンラジオにゲスト出演されて前川さんの印象について語っていらしゃいました(その方の名前がちょっと出て来ません。ごめんなさい)。

 

その方は「前川さんは『染まらなかった』」とおっしゃっていたのです。

 

ある時に役所に行って私は違和感を覚えたのを思い出しました。その係のひとがたいていカーディガンを着ていたのです。その当時カーディガンを着るのは日本社会では一般的ではありませんでしたが役所のそこの係のひとはたいていカーディガンを着ていたのです。

 

あるひとと同じ職場で働いていて私はそのひとのことがよくわからないでいました。元証券パーソンなのですが(それもそうとう良い証券会社にいたひとです)そのひとの言動の意味が私にはわからなかったのです。

 

彼はとても簡単な仕事をしていました。小学生でも出来る仕事です。カンタンで楽な仕事を始業時間から終わりまでしてかえっていたのです。

 

彼に関して私が不思議だなと思ったのは同じ職場にいた友人が携帯音源で音楽を流していたことがあったのです。私はその方が作業能率も上がるし好ましいと考えていたのです。彼は音楽を止めたのです。別の仕事仲間が音楽をまた流し始めて彼は諦めたようなのですが。

 

彼にとって仕事というものは「ある服を着てある場所にいてイヤな思いを我慢すること」でしかなかったのではないかと後になって私は思いついて納得しました。

 

世間話というものがありますよね。

 

世間話の面白さというものはそのひとの一つの能力を表します。だけれども私は「基本聞くひと」です。私自身たいして面白い話が出来るひとでもありませんし私は「基本聞く」のです。話がおもしろければ笑いますしその話がつまらないと思うとそのひとの話が終わった後にそのひとの話の流れにそった話題をちょっとして話をまとめることもあります。

 

だいたい「話がうまくなる秘訣はひとの話を聞くこと」です。私は今でも話がたいして面白くありませんし「基本ひとの話を聞く」のです。そういうポジションがあらゆる場面で存在していますしそういうポジションには需要があるので私は別に良い人ではありませんが私の周囲には誰かいます。

 

「話をしたい」というのはほとんどのひとが持っている欲望のようで私がひとのつまらない話でも聞くので私の周囲にはたいてい誰かいるのです。

 

その話は別の機会にちゃんと書きますが。

 

その小学生でも出来る仕事をしているひとと同じ給料なのに私を含めた何人かは彼よりもはるかに大変な仕事をしていました。彼はその件に関して「申し訳ない」とか「ありがたい」とかいう気持ちはないようでした。

 

実際その職場には力仕事もあったのですが女性でも力仕事をしていたのに彼は腰が悪いとかいう理由でイスに腰かけて小学生でも出来る仕事を黙ってするだけで「自分ばかり楽をして申し訳ない」であるとか「皆さんがガンバってくれて助かる」という趣旨の発言をすることは一度もありませんでした。

 

また職場に一流大学卒の若い人が来た時に「昔はよかった」という話をしていたのを覚えています。確かにその話をする相手はその若いひとだけだったのでしょうが彼の話は周囲に聞こえていたのです。

 

そういうこともあってある女性が彼にキレました。「良い高校出て良い大学に行って良い会社にいたのかもしれないけれどもあんた全然働かないじゃない」と彼女は思ったのです。

 

私も同感だったのですがその場では彼女を上げたり下げたりして私は彼女をなだめていましたし彼に対するケアもしましたが彼からの謝罪や感謝のコトバは一言もありませんでした。

 

彼にとっての仕事場の意味はほぼ学校と同じ意味しかなかったと今振り返って私は考えています。

 

「学校の教室=仕事場」という発想しか彼にはなかったのだと今は考えているのです。

 

学校では基本黙って先生の話を聴いて休み時間にちょっと気分を入れ替えます。基本学校の授業を受けるのは苦痛です。

 

彼にとっての給料とは「自分はこれだけこらえているのだからその分お金をもらう」という発想でしかなかったと私は考えているのです。

 

「仕事=苦役」だという発想しか彼にはなかったのだと今考えているのです。

 

そのあたりは堀江貴文さんも指摘されていますが仕事を「受け身」でしていてもつまらないだけです。でも「ここをこうすると能率が上がるよね」とか「ここで仕事の流れをこうすると仕事がうまく回るよね」とかいう発想を持つと仕事は楽しくなります。

 

台湾の企業がシャープを買収しました。あの件については首切りもありましたしシャープのモト社員の方にはいうべきコトバも見つかりません。ただああいうことを日本企業の沈没を意味すると考えるのは私は違うと考えています。

 

日本と韓国と台湾の企業の違いについてある時期に(たぶん田原総一郎さんが語っていらっしゃいました)日本には大企業と中小零細企業があるが韓国には大企業しかなく台湾には中小零細企業しかないという指摘です。

 

私は1960年代産まれですが私と同世代のひとで親からこう言われていたひとはたくさんいたはずです。

 

「大きい所の入れ。小さい所に居たって損するばっかりだ」と。

 

日本経済があるフェイズに入った時に台湾より先に伸びたのは韓国でした。韓国の財閥系の企業が業績を伸ばしました。サムスンとかヒュンダイです。

 

韓国と台湾はある時期はライバルだったのですがその時期には台湾は韓国に出遅れていました。

 

しかしシャープが事実買収されたということが台湾が伸びてきていることを意味しているのでしょう。

 

(余計なことを書くと今の世界はグローバル化しているのでその企業がどこの国の企業なのかと明確にいうことはほぼ不可能な時代です。たとえば日産はフランス企業ですから。日本発の企業であるユニクロソフトバンク多国籍企業なので日本企業と呼べるのかどうかは不明確です。トランプさんはトヨタの重役にUSに工場を作るようにムチャをいっていたのですが。トヨタは日本発の企業ですがどこの国発の企業なのかということの意味が現代世界では薄れています。楽天が企業公用語を英語にしたことも楽天多国籍企業だということを意味しています)

 

シャープを台湾の企業が買収に成功したということは日本の中小零細企業が日本の大企業の買収も可能な時代に入ったことも意味しています。

 

日本の中小零細企業はシャープを買収した台湾の企業から元気と勇気をもらうのが筋です。

 

大企業はもちろん大組織です。大組織は基本うまくいかないのです。

 

日本の「会社」にたいしての言及も多かったPKドラッカーがアメリカの大企業のフィールドワークをしています。

 

ドラッカーのフィールドワークの内容は今の日本企業が多いに参考にし反省する内容が含まれています。

 

ドラッカーは大企業の大きな工場でフィールドワークをしていたのです。そして不思議に思って女性の工員に質問しているのです。「あなたは何をしているのですか」と。

 

彼女は何時間もある機械の前にぼーっとつったっていたのです。その理由がドラッカーにわからなかったので彼女にドラッカーは質問しているのです。

 

彼女の答えは「私はこの機械の修理係をまっているのです。私はこの機械が動かないと仕事ができないし修理係に着てもらうように何時間も前から何回もいっているのに機械の修理係が来ないんです」というものでした。

 

大組織に所属しているひとはおそらく身につまされてと思います。大組織にはそういう「やまい」が発生するのです。

 

日本社会の問題的の一つは「大組織病にかかっている」のだと私は考えています。

 

これはおそらく戦後の日本企業についての話なのですが企業があるステージに立つとその企業がうまくいかなくなるとずっと言われているんどえす。

 

そのステージとか「東大出が入ってくる」ようなステージです。東京大学出身者が無能であるとは到底私には思えませんがこれは長く日本社会では定説になっています。

 

長く批判を浴びているキャリア官僚の世界も「東大法学部卒」でうめつくされています。お一人お一人が有能だとしてもそういう現状ではキャリア官僚の世界はうまくゆくはずがありません。またキャリア官僚は「組織人」です。個人個人は優秀だとしても「組織人という面が肥大化すること」は止めようがありません。

 

しつこいのですが「組織は自己増殖するものですし自己防御するもの」なのです。

 

もう一つの現代日本社会の問題点は「産業構造の変革期に今ある」ということです。

 

当たり前のように「日本にはエネルギーがない」といいますがこれは正確ではありません。産業用のエネルギーとして日本には石炭があるのです。今の日本で旧石炭町はたいてい観光にシフトしていますが。

 

あるいは繊維産業が日本経済のトップランナーだった時期もあるのです。東レのような所は今は服飾以外で大きな成果を上げていますが。

 

この原稿を書いている2017年の日本は日本で石炭産業が埋没していった時期や繊維産業が埋没していった時期ととてもよく似た現状なのです。

 

代表は「白物家電」です。冷蔵庫や洗濯機のようなものが埋没していく時期なのです。

 

産業は第一次産業農林水産業)から第二次産業(生産業等)、第二次産業(生産業等)から第三次産業(サービス業等)へ以降していきます。

 

私は年なので覚えているのですが日本国内でNECのPC9801というパーソナルコンピュータが国民機になっていた時期があります。

 

この時期の日本のパーソナルコンピュータの覇権はNECが握っていました。ウィンドズOSが一般化してPC9801の天下は終わったのですが。

 

PC9801が日本のパーソナルコンピュータの世界で国民機になっていたことには明確な理由がありました。別にハードの性能が特別他のメーカーにくらべて優秀だった訳ではないのです。

 

日本語はひらがなカタカナ漢字アルファベットをつかう言語です。日本はそういう言語ですがパーソナルコンピュータは基本アルファベットを使うことが前提になっています。

 

そうすると日本の処理がうまくできるソフトがとても重要になります。

 

PC9801が日本における国民機としての一時代を作ったのはPC9801では「一太郎」というワードプロセッサーソフトが動いたからなのです。

 

PC9801が日本のパーソナルコンピュータの国民機になったのはジャストシステム一太郎が動くPCだったという理由であってハード面で他の日本企業のパーソナルコンピュータに比べて特別優秀だったからではなかったのです。

 

あの時期にもはや日本で重要な産業は「ハード」から「ソフト」へシフトしていたのです。

 

アメリカも自動車産業で持ち返すことはありませんでした。マイクロソフトやアップルの力で盛り返してきているのです。

 

そういう世界でどの程度の雇用が生まれるのかは私には謎ですが。

 

日本も当然そうです。かつての石炭産業や繊維産業が日本経済の中で埋没していったように自動車産業白物家電産業は日本経済の中で埋没していくはずです。

 

東レがそうであるように残っては行くと私は想像しています。ただ東レが繊維でつちかった技術を生かして違う分野でいま成果を上げているように白物家電メーカーも自動車産業もカタチを変えて生き残っていくはずです。

 

まとめます。現代日本社会の問題の一つは「大組織病」ですしかつて石炭産業や繊維産業が日本経済をけん引しやがて埋没していったように白物家電産業や自動車産業も日本社会をけん引する産業ではもはやない時代なのです。

 

かつべつ悲観する必要は実はないのです。

 

事実日本は中小零細企業もありますしポスト白物家電産業や自動車産業の芽もあるのですから。

 

特に歴史のある中小零細企業の場合は台湾の企業がシャープを買収したように国内外をとわず大企業を買収することが可能な時代ですしいわゆるベンチャーも失敗も多くありますが日本社会にはいくらでもあるのです。

 

「ピンチはチャンス」なのです。

 

楽天の三木谷さんは「ここしばらくはゴールドラッシュが続く」とNHKのインタビュ-でおっしゃっています。

 

今の日本経済は産みの苦しみのなかにあるのです。

 

事実多くの仕事はなくなるのでしょう。だけれども仕事は常に産まれています。

 

たとえば「お年寄りの介護」や「障碍者福祉」の仕事などつい最近までありませんでした。

 

あるいはいわゆる「学校」はもはや日本の教育の中では中心はとはいえない状況なのです。

 

フリースクールの問題点は教育内容にはありません。「お金の問題」なのです。文字通り「自由」なのはフリースクールです。でもフリースクールでどういう教育をしているのかを文科省が押さえないと補助金が出しづらいのです。文科省フリースクールの教育内を抑えて指示を出すようなことがあればそれはもはやフリースクールではありません。

 

そういう意味では今の日本の教育状況は江戸末期に似ているといえます。日本には「藩校」という学校もありましたし長く「お寺での修行が学問の中で重要」でした。あるいは「寺子屋」もあるという複数の教育の場や教育の流れがあったことが日本の明治以降の伸びと密接に結びついています。

 

価値観として一流進学校に進み財務官僚や大企業の「組織人」になるというルートも当然残るでしょう。でもそうではないルートがすでに複数(実は)今の日本にはあるのです。

 

そこで本当にがんばっている若い人が山のようにいることを見過ごしてはなりません。

 

若い友人も零細にいますが睡眠時間をけづって頑張っていますし若い女性が先日カフェで電話しているのを耳にしたのですが彼女はある業務上の失敗をして上司か先輩に「あなたの職歴でそういうミスをするということはあなたが全然伸びていないということですよね」と厳しいことを言われていますが彼女はその叱責に納得していました。彼女は「自分程度の職歴があれば自分がした業務上のミスはあってはならないことなんだ」と考えていました。

 

その二人は今の日本社会では「偉い」とか「立派だ」といわれる「価値感」の仕事はしていないのです。

 

でも事実着々とキャリアを積んでいるです。

 

私にもひとに自慢できるようなキャリアはありません。でもそういう自覚もほぼないまま(当時のルートから離れて)頑張った結果今の自分がいるのです。

 

私の若い頃にはもう佐高信さんは「社畜」といっていたのですが私は「社畜になりそこねた」のです。

 

別の言い方をすると「組織人」にならなかったのです。

 

私の若い頃には成功とはほぼ「組織人」としての成功しかありなかったのですが今の日本ではそんなことはありません。

 

日本社会は「若い時に苦労して年を取ったら楽をする社会」です。私もボチボチ楽をさせてもらいます。