「怒るな」という趣旨に本が何冊を出ています。
こういう本のタイトルをみて「いろいろなことがあってもそういったことを気に留めずに過ごしなさい」という趣旨なのだと勘違いするひとがいると思います。
でもこういう本の趣旨はそういうことではないのです。
「怒るべきことを怒ることは普通のこと」ですし「ありえないほど怒ったとしてもしばらくするとさっきまでの怒りがウソのように消える」のです。
たとえ話をすると心は海のようなものです。海の表面にはいつも波があります。場合によっては波が高くなることもあります。
「高い波」が言ってみれば「激しい怒り」です。高い波があることも普通ですよね。ただ「高い波」も当然消えていくものです。それが「怒り」であっても同様です。
自分で信じられないくらいに腹を立ててもしばらく経つと消えていくものなのです。
実際私は電話口で激怒しました。ある電話応対が私には最低だと思えたからです。同じ所にまた電話をかけました。自分の「怒りをクールダウンするため」です。
違う女性が対応してくれたのですが彼女は同じ時間をかけて同じ結論にした達することはないと思うといったのです。
私は苦情を申し立てるために電話をしたのでもなければ最初の応対をしたひとを責めるために電話をしたのでもありませんでした。自分の怒りをクールダウンするために電話していたので「それで結構です」と言って自分が何故どういうポイントに腹を立てたのかを説明しはじめました。
二回目の電話応対の女性は私の話がわかったようで冷静に対応してくれたました。
私が二回目の電話の時に言った内容にある種のメディア論が含まれていました。
私は「同じ内容同じ結論でも構わない」と言ったのです。そして「同じ内容同じ結論であったとしても電話の対応で意味がまったく違う」といったのです。「最初に電話に出た女性とあなたの内容と結論はほぼ同じなのだけれども意味がまったく違うしそういう意味で最初に電話にでた女性は無能なのだ」という話をしました。
あなたがある件でひとに相談事を持ちかけたとします。これを「芝居」だと思ってください。
AさんとBさんは同じセリフをいいます。AさんもBさんも相談を受ける「役」です。
まったく同じセリフだったとしても「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」で意味はまったく違ってきます。
昨日私が電話をかけて激怒したのはその電話対応の内容に問題があった訳ではありません。「言い回し」や「言葉のニュアンス」や「イントネーション」が私をバカにしている(あるいは面倒でうっとうしいヤツだ)という意味があきらかにあったからなのです。
実際二回目の電話対応をした女性の電話対応の内容やその結論はほぼ同じでしたが私の怒りはすぐクールダウンしたのです。
そこは半ば公的な機関でした。「私は民間なら彼女は首です」といったのですがそれは民間では電話の応対にとても気をくばっていてそういう訓練や場合によってはコンクールまでやっているのです。ニュースで「電話応対日本一に輝いた誰それ」という報道があるのはそのためです。
でも最初に電話に出た女性の対応は本当にひどいものでした。高校アルバイト以下なのです。私は「こんなレベルの受け答えしかできないくせにこのひとは給料をもらっているんだ」と思うと余計に腹が立ったのです。
「怒るべきことを怒る分には怒りは暴走しませんしすぐに冷めます」。
怒りが暴走してしまうあるいはエンドレスリピートにはいってしまうのは「怒るべきことに怒っていないから」です。
多くの場合は過去の出来事に(自覚はないのですが)彼や彼女は「怒っている」のです。
彼は彼女は「目の前にあることに対して怒っているつもり」なのですが実は「過去の出来事に腹を立てている」のです。
そういう意味で過去の出来事にむきあって「ちゃんと怒ってあげること」(あるいは「ちゃんと悲しんであげること」)はとても大事なのです。
私のそういう自己セラピーをずいぶんしました。
そういうセラピーを通じて「あの件は本当にはらわた煮えくり返った」とか「本当に消えたいくらいに恥ずかしかった」ということなど追体験したのです。
自分でそういうセラピーに取り組んだのですがそのセラピーは面倒で苦しいものでした。
でも成果はありました。昨日あれほどまでに怒り狂ったのにすぐに怒りが冷めたのです。
アンガーマネジメント、アンガーコントロールという概念があります。
私見ではそういう概念が一般化しているとことは過去の怒りや悲しみや恥ずかしさを抱えたままで生きているひとが多数いるということを意味しているのだということになっています。
昨日の怒りに関しても私は内省してみたのですが私の家族は子供の頃から私がどんなにSOSを送ってもまったく気がつかない人たちでした。
その件が私の中で昨日の電話応対の途中でよみがえっていたようです。
確かに彼女の電話応対は給料ドロボーレベルではあったのですが少年時代からの家族の私に対する無関心への怒りや悲しみが噴き出たという要素もあったようです。
怒っても私は構わないと思うのです。
ただそれをアンガーマネジメント、アンガーコントロールという風にとらえることには違和感があります。
「怒るべきことを怒っている時には怒りは暴走しないしすぐ冷める」のです。
そしてあれだけ自分が腹を立てたのには何か過去に理由があるではないかという風に考えていくと何かに突き当たるものです。
これはあくまでも一歩一歩やることです。
そして年齢を積み経験を積み自分を精神の器を大きくする必要もあります。
アドラーがいうように心の傷が事実あったとしてもそれは過去の話です。そのことで自分やひとを傷つける場合もあります(昨日の私のように)だとしても問題は「いま」であり「未来」です。
ある事実があればその事例を自分の中でフィードバックして「いま」や「みらい」に生かすのです。
いつまでも「過去の自分の苦しみにこだわり続けること」にどんな意味があるというのでしょうか。
トラウマを本人が発見することはあまりにドラマティクなのです。
「今までの自分の苦しみの原因はあの親の言動にあったのだ」ということがあまりに衝撃的でもあるしドラマティクなのです。
それゆえにそこにとどまりつづけて「あの親の言動に子供の頃に自分は苦しめられた」とずっと思うひとがいます。
それは事実そうなのでしょう。
だけれどもそこにとどまることにどれほどの意味や価値があるというのでしょうか。
過去の苦しみが今の自分にどうすることもできないのなら話は別です。
しかし過去との決別は可能なことなのです。
その方法はさっき書いた通りです。
「十分悲しんで上げる」「十分怒ってあげる」ことで済みます。過去のエピソードが苛酷な場合その時に「悲しむこと」も「怒ること」も「恥ずかしがること」もその時には不可能なことがあります。
ですから年齢を重ね経験を積み自分を器を大きくした後にそういうことをすることには大きな意味があるのです。